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レビュー

審査員講評 穴迫 信一 氏

穴迫信一 ※撮影:岩原俊一3

総評

参加団体の皆様、運営の皆様、大変お疲れさまでした。当日まで手厚くご対応いただいた運営の皆様、本当にありがとうございました。そして講評を熱心に真摯に聴いてくださった参加団体の皆様、こういった時世の中、作品を作って、移動して、発表するという、その演劇にかけた時間と労力と熱意に敬服いたします。本当にありがとうございました。今回、僕は「選択」をキーワードにそれぞれの作品を評価しました。しかしそれは、最初からそうしようと決めていたわけではなく、団体ごとの作品を観ていく中で共通の評価基準として後発的に浮かび上がったものです。人生とは選択の連続であるという言葉はよく聴きます(し、別にいまさら何か思うような言葉でもないです)が、演劇の上演も同じく選択の連続です。しかも人生と違うのは、その全ての選択は常に発表され続けます。作品をより面白く、より深く届けるため、どれだけの選択肢の中から何を選び取ったか、その選択が的確か、あるいは大胆か、いずれにしても一秒一秒の可能性を引き出しているか。また逆に、誰でも思いつくような安易な選択に陥っていないか、などそういったことを考えながら拝見しました。今日において、学生(に限らずですが)の皆さんが演劇を上演すること自体が、大きな選択のひとつです。せっかく上演を選び取ったからには、可能な限り妥協してほしくないと考えます。引き続き演劇を選び取る皆様と、またどこかでお会いできますように。それまで僕も、より一層厳しい目を自身に向けつつ、作品制作を続けたいと思います。

 

 

A-1 ふ「三時間目 死後」

おそらく練習量の問題か俳優に台詞や動きが入り切ってないように感じました。〈台詞や動きをなんとなく覚えている〉という段階に留まっていて、目線や表情などで俳優の意識が散漫になっているのが感じ取れて、こちらも同じくその場で起きていることに集中し切れない時間が続きました。特に前半、天界の魂たちに授業を行う◎◎と名前の伏せられた人物の演技についてはリアリティを感じることが出来ないままでした。非現実的な設定を生かすのであれば、演技こそ現実的な指標に基づいた生理、所作、発話であるべきだったように感じます。(ラストシーンのナチュラルな演技がとても素晴らしかっただけに。)また、ふつうの学校の授業かと思って聴いていたら少しずつ内容がおかしくなって、そこからようやく状況が観客に共有にされる、といったような、じわじわとお客さんを取り込む構造があれば作品への集中力も違ったかなと想像します。出演されていた俳優の方が作演出も兼ねていたとお聞きしましたが、なかなかに困難な作業だったのではないでしょうか。ただ、地方においてはよくある現状だとも言えます。少ない分母の中で作品を創作にするには複数のセクションを兼務せざるを得ないという経験は僕にもあります。その葛藤は大いに理解します。しかし取り組むと決めたからには、一人芝居であることが免罪符にならないようなクオリティで挑んでほしかったです。

 

A-2 劇団カチコミ「蝋」

審査員には事前に各団体の台本が共有されるのですが、カチコミさんに至ってはあらすじのようなものが1枚だけでした。運営の方から「カチコミはメンバーでプロットを共有して、みんなでエチュードを繰り返して作品を作り上げる」とお聴きして、とても楽しみにしていた反面、グダグダだったらどうしようという不安もありました。しかし実際の上演は台本がないとは思えないほど、作品全体のテンポ感が安定していて特に難しい笑いの間合いなども問題なかったように感じます。ただ、個人的にはあまり笑えなかったのも事実です。理由としては内輪ウケのような内容が多く、その俳優さん自身の人となりを知っていれば面白いのかも知れないとは思いましたが、僕の場合はどうしても知らない人たちのギャグに付き合わされている感覚が拭えなかったからだと考えます。それはエチュードを元に作っていることの弊害だと思います。自分たちでアイディアを出し合って自分たちが面白ければ採用するという内的なシステムに陥っているような気がするのです。ただカチコミさんにはこれからもエチュードで作ってほしいとも思います。エチュードは多くの選択肢に開かれています。せっかくならその選択肢を選ぶ理由に、いかに面白いかだけでなく、いかに自分たちの想像を超えているか、いかに誰も選ばないか、などを追加してみては、と思います。それがギャグであっても自分たちでもコントロールし切れないほどのうねりを作れれば、〈意味の分からない感動〉に到達できるかもしれません。その可能性を感じた分、ラストシーンにおいて、ありがちな展開、演劇っぽい演出に身を預けてしまったのが悔やまれます。

 

B-1 北海学園大学演劇研究会「ラブホに忘れ物した」(映像上映)

彼氏とうまくいっていない中、大学の同級生と成り行きでラブホに行ってしまった。その気まずさや後悔が残る日々を、親友が救ってくれる。というあらすじだけで上演のほとんどが説明できてしまうくらい、終始分かっていることだけが提示されて、惹き付けられるものがないまま終わってしまった印象でした。映像配信での、加えてそれほど画質の高くない環境での観劇だったため、細かい表情ややりとりなどは見落としているかもしれません。ただそれを差し引いても大枠のプロットにもう少しアイディアが欲しかったです。言い換えるならば、作品が観客の想像力に負けている状態でしょうか。その理由はおそらく、作品を通して、最も安易な選択を選び続けていることにあると思います。例えば、確かな記憶かは分かりませんが作中における暗転の回数は7回くらいだったかと思います。少なくとも印象としてはそれくらいに感じました。そこに必然は感じられず、作品にとっては転換のためだけの時間、観客にとってはただの待ち時間のように個人的には感じられました。となると、40分程度の作品で7回の暗転は多すぎます。こうすればここは暗転せずに済むねとか、この台詞は暗転の中で話してしまっていいかもとか、選択肢について何かしら熟慮した痕跡が見られれば、その選択がたとえ効果的でなかったとしても評価できるポイントがあったかもしれません。俳優の皆さんはとても魅力的でした。特に主人公の親友役の俳優の方はナチュラルかつ明瞭な発語でとても聴きやすかったです。

 

B-2 劇団Noble「晩餐」

今作は、儀式が執り行われるかのような厳かな晩餐の中、話される他愛ない会話の端々に、彼らの生きている世界の絶望が垣間見えるというものでした。その状況設定においての作り手の美学が感じ取れたからこそ、机の上のデコラティブな美しさに騙されてはいけないと思いました。その時間を儀式だとするならば、そこには必要な物しか置かれていないはずです。俳優は二人きり、この作品の静閑と絶望を描くにはそれが最小かつ必然の人数だと、おそらく作り手の方は考えたのではないでしょうか。それはうまくいっていると感じました。だとするならば机の上も同様に必然のみを並べたほうが美しかったはずです。本来演劇そのものがある種の儀式であるとも考えられますから、そういった意味においても舞台上には必要なものしか持ち込んではいけないとも言えます。ただそもそも、舞台上の美しさへの拘り自体が見てとれて、かつそれが成功している団体さんが少なかったので、その点においてNobleさんが一歩先んじている部分というのは大いにあるかと思います。戯曲上で気になったことも書いておきます。確かにポエムのような台詞は美しく、良い表現だなあと思った部分もいくつかありました。ただ、やはり美しさのための美しさになっていて、ともすれば冷めてしまうというか作品に入り込めない台詞、場面も多々ありました。ポエムのような台詞の数々がその世界を美しく表現するためであるならば、狙いとは逆の作用をもたらしていると感じました。上記と近い指摘になってしまうのですが、美の裏には必然があると考えます。まずはその美しい台詞が話されなければいけない前提作りを丁寧に行うべきです。もっと他愛ない会話やバカバカしい会話が繰り広げられて、そこにぽろっとこぼれるように、繊細な、想像力を俄然喚起する美しい台詞がひとつあればそれだけでじゅうぶんな気もします。それが難しいのは重々承知です。しかし世界観が出来つつあるNobleさんだからこそ、もっと美しい作品を期待してしまいます。最後に一点、有名なJ-POP(該当曲をJ-POPとジャンル分けしていいかはここでは言及しません。)を使うのはよほどの戦略がない限り控えた方がいいように思います。その作品自体の、あるいは作家性の強大なイメージによって、今までの時間を上書きされてしまうからです。今作ではラストシーンにとても有名な曲がかかっていて、作品の余韻に浸ることへのノイズになってしまっていたと感じました。

 

C-1 劇団烏龍茶「くだらない」

墓参りをきっかけに出会った3人の女性のささやかな会話劇でした。それでいて死と生、続いていく悠久の時を感じさせるような壮大さすらありました。僕はこの作品を一番に推しました。舞台上には平台が三枚、等間隔に置かれていて、最初は簡素すぎないかとも思いましたが見始めてすぐ必然があることが分かり、そのシンプルな見立てを美しく感じました。また舞台上の具体的な画作り(俳優のミザンスや物の配置によるビジュアル的な美意識)にもその選択ひとつひとつに熟慮が見られ、実際もとても整理された画になっていました。例えば、作品の途中で2、3度、作中の時間が(5分くらい?)飛ぶシーンがあります。青くうっすらと見えるくらいの暗転になって、再び照明が着いたときには3人の俳優の位置や姿勢が変わっている。その転換にも満たない場面変化のたびに必然を持ってして画を美しいものにしていました。戯曲も舞台上も構造的な必然による美しさに支えられていることで、他愛ないやりとりやちょっとした所作のひとつひとつに鮮明なリアリティが宿り、とにかく引き込まれました。ラストシーンの少し前「死んだらどうなると思います?」「こんな感じでずっと喋ってるんじゃないですか」「母たちも喋ってるかもしれませんね」「何話してるんですかね」というやりとりがありました。その会話によって一気にそこまでの時間がそれぞれの母親同士の会話のように思えました。実際の舞台上で起きたことによって、観客の想像力が舞台上を追い越して、いつかの不確かな時間を幻視する。今大会における最も演劇的な体験でした。また、作品を通して間がとにかく効いていました。それまで何かをすることで何かを起こそうとしている作品が多く見受けられたのに対して、この作品は何かをしないこと(によって間が生まれるように)で何かを起こせることを知っている感じがして、感性も感覚も磨かれているように受け取りました。俳優の演技体のつかみどころのなさも魅力でした。どうやって文字(台詞)から声にしているのだろうと興味を惹きました。つかみどころのなさというよりは、策略の無さかもしれません。というのは、講評後に団体ごとに個別でお話した際、僕が策略的に作られていると感じたいくつかのシーンにおいて、そのすべてが意図的ではないというお話を作り手の方々からお聴きしました。見手が作り手の思惑以上のものを深読みすることはよくあることで、それは優れている作品であることの逆説的な確証でもあるのですが。つまり構造だ、画作りだ、必然だという以前に、彼らからしたら〈自然〉に出来上がった作品なのかもしれません。もとより、自然の美しさには敵いません。

 

C-2 劇団イン・ノート「賢者会議」

俳優の圧倒的な技術を感じました。自分が皆さんのご年齢でこのパフォーマンスが出来たなら、今でも俳優を、コメディを続けていたかも、笑いを突き詰めようとしていたかもしれないと思うほど(そんな私情を書いてしまうほど)、憧れるくらい素晴らしいクオリティでした。特に女子(作品の役柄上、女子としています。)お二人のやりとりは抑制と解放、緩急が効いていて、また、捲し立てるような早口なのにしっかり聞き取れるし意味も追えるというかなり高難度な表現を軽やかにクリアしていました。(男子チームもほぼ同レベルのクオリティでした。)今でもそれぞれの表情をしっかり思い出せるほどスター性に溢れた、かつ個性的な5人でした。問題を感じたのはその題材です。俳優の技術も素晴らしく、演出の過不足もなく、とても見やすい上演だったが故に、その限界も感じました。言い換えるなら、こんなにすべてが見てとれて分かりやすいのが人間であり人生なら、日々悩んでいないなと。もっと言葉にならない、感情のジャンルにないような感動が演劇には可能です。そればかりを目指す必要はないですが、審査員である以前に観客の一人として、この作品によって自身の中から引き出された想像力はそれほどなく、すべてを開示してくれた感じがして、個人的には演劇的な瞬間を見つけられないまま終わってしまいました。観客が自ら掴み取ったと思えるような余白、あらゆる推察への余地があれば、作品にもっと深く取り込まれただろうと想像します。俳優の技術に対して題材が安易だったように思います。演出面に関しては二点だけ。こちらは講評会でも口酸っぱく言ってしまったので団体の皆様の心に留めておいてもらえればとも思いましたが、今後の団体の皆様の参考になればと思い書かせていただくことにしました。他の団体をアドリブ(準備していたとしてもですが)でいじるようなことはしない方がいいです。よっぽど勝算があるなら別かもしれませんが、観ていて気持ちがいいものではないですし、自分がもし参加団体だとして一所懸命作って来た作品の一部をその場の空気作りのようなものに利用、消費されたら怒ります。もちろんイン・ノートさんに悪意が無かったことは承知しております。あくまでその時に客席に居た一人として、良い印象ではなかったということです。それに、皆さんはそんなことしなくてもじゅうぶん面白いです。もう一点、男子トイレから女子トイレ、またその逆にシーンを移行するときの場転についてです。かっこよくいい感じに転換しようという作り手の意図が見えてしまっている感じがして少し気になりました。もう少し作品に寄り添った場転を考えてみてもいいのかなと思いました。

 

D-1 劇団しろちゃん「曲がったハハハハの人々」(映像上映)

事前にいただいた台本を読んだ段階で、ナンセンスなギャグや不条理な展開をやや完成度の甘さを感じながらも面白いと感じました。しかしそれ以上に、作品全体に仕掛けられた円環の構造に興味を惹かれました。最初と最後が繋がるのは特段珍しい仕掛けではないですが、この作品では捩じれて捩じれて始まった逆側から戻って来るような、まさに作品の題材にもなっているサインポール(理容室の前に立っている赤と青のくるくる回るやつ)的円環が描かれていて、上演ではどうなってしまうんだろうと楽しみにしていました。実際の上演はプロジェクションマッピングや大きな木枠を使った演出など派手な印象がありました。また、俳優の演技に統一感がなく、共通しているルールも正面を向いて声を張るといったような、およそシニカルな仕掛けや笑いが随所に散りばめられたスタイリッシュな戯曲とは、相性が良いとは言えないものでした。もっと登場人物の誰もが何を考えているか分からないような不穏さがほしいと思いました。また、例えば以下の台詞「知らないとでも思った?他にもたくさん。コンビニ店員の百川あゆみ、JRの高橋ゆかり、永田町の宮本さくら、夕張市のアリビア・スミス、歌手の中島みゆき、なんなのアンタって、上4文字下3文字の女が好きなわけ?」において、この、上4文字下3文字の女が好きなわけ?という台詞がとても好きだったのですが、戯曲で読んだときは笑えたのに、上演の時は俳優の方がその部分をやたら強調して言うことで却って笑えなかったのが残念でした。こういった箇所が多々見受けられました。これは俳優ではなく演出面の問題だと思います。しかし全体を通してユーモアのセンスにオリジナリティがあり、戯曲にも演出にも観客を飽きさせない展開が作られていて、とても楽しかったです。

 

D-2 演劇企画モザイク「大山デブコの犯罪」

今作は、とりわけ審査員4名の意見が合致した作品でした。4名ともにおおむねそのチャレンジを称賛しつつ、なぜ今寺山なのかというその高いハードルを選択した理由を、衝動を、ロジックを、作品の中に見出したかったと感じていたのではないでしょうか。実際の上演はどこかで観たことがあるような寺山戯曲上演の焼き直しのようなものに見えてしまいました。上記のことをもう少し詳しく書くならば、今この時代に寺山修司の戯曲を上演したいというその熱量を、寺山を令和に立ち上げるためのロジックを組み立てる熱量に、あるいは、論理的に稚拙であっても、何か認めざるを得ないほどの圧倒的で衝動的な上演のための熱量に使ってほしかったと思います。どういった方向性であれ、この戯曲を上演するのであれば(いやそれはどんな戯曲であってもかもしれませんが、今日の学生の皆さんにとってのリアリティだけでは読み解くのが困難であることが想像されるという意味で)今の時代に、そしてこのチームにおいてどのような上演がふさわしいかを徹底的に突き詰めるべきだと思いますし、今回その痕跡は残念ながら僕には見つけきれませんでした。憧れに留まっていると感じました。また、個人的には寺山作品の上演における魔術の担保のひとつが匿名性(どこから来て、どこへ帰ってゆくのか分からない存在)だと考えます。そうであるならば、この作品の出演者が同志社大学の学生の皆さんであるということが、あるいは学生演劇祭という企画での上演ということが、ぽんプラザホールという劇場内での上演ということが、魔術の力を弱めてしまっていたのかもと感じました。

 

 

穴迫 信一 氏 プロフィール

Anasako Shinichi

ブルーエゴナク 作家・演出家

 

2012年に福岡県北九州市でブルーエゴナクを旗揚げ。以降、全作品の作・演出を務める。地域を拠点に新たな演劇の創造と上演を趣旨として活動。リリックを組み込んだ戯曲と、発語や構成に渡り音楽的要素を用いた演出手法を元に、〈個人のささやかさ〉に焦点を当てながら世界の在り方を見いだそうとする作風が特徴。これまでに市場や都市モノレールでのレパートリー作品を製作するなど、地域との共同製作も多数。

近年の作品に『sad』(2018)、豊岡演劇祭2020フリンジプログラムにて豊岡市竹野町に滞在し、現地の盆踊り振興会の伴奏のもと上演した『ザンザカと遊行』(2020)、

音楽にOlive Oil氏を迎えたオーディオ作品『Coincide 同時に起こること』(2021)、音楽にCOMPUMA氏を迎えた『眺め』(2021)、

音楽にテンテンコ氏を迎え、盛岡市での滞在制作によって制作された『クラブナイト~蟹は夜、きみをたすけにくる~』(2021)などがある。

2022年3月には岩手県宮古市にてBaobabの北尾亘氏との共同制作を控え、6月には第七劇場へ戯曲『oboro〈第二幕〉』を提供。

ロームシアター京都×京都芸術センターU35創造支援プログラム”KIPPU”に選出。TOKAS OPEN SITE 5選出。セゾン文化財団セゾン・フェローΙ。

2022年度よりTHEATRE E9 KYOTOアソシエイトアーティスト。

※撮影:岩原俊一