レビュー
- 第10回 – 2025年
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- 第0回 – 2015年
審査員講評 藤井颯太郎 氏

○総評
僕が観てきた全国学生演劇祭の中で(自分が参加した回も含め)、最もレベルの高い年だったと思う。「セリフに頼らず物語構造でテーマを語る」「言葉と仕草にそれぞれの役割を託す」というような、非常に水準の高い作劇/演出が行われていた。全体的に俳優陣の質が高く、戯曲や作品の魅力を遺憾なく観客に伝えることに成功していたように思う。
ここで審査会の流れを軽く書き残しておく。まず「この演劇祭のテーマ“演劇の最先端”とはなんなのか?」という話し合いから審査会が始まった。どのような意見が出たかは他の審査員の方が総評で書いてくれると信じここでは割愛するが、いずれにしても「現代日本演劇界のビジネスシーンに適応できるか否か」という軸は、この演劇祭の審査において全くの無意味だということを確認しあった。
その上で議題に上げたい作品を一人三〜四作品ずつ挙げていく。驚いたことに、九団体全ての名前が候補に上がった。改めて、今大会のレベルの高さを再確認した。僕はどろぶね、劇団激男、ベイビーラン、ちゃこーるの四団体を推した。その後、全員賛同できるものを審査員賞とするため投票を行い、どろぶねと道徳ふあんしーは一瞬で審査員賞受賞が決まった。残り一枠を巡り、他作品について議論を続けたが、全員一致で推すことができる作品はなく、かと言って、全く評価しないことなどありえないため、新たに審査員特別賞と審査員激励賞を設けることとなった。
Aブロック
○劇団しろちゃん『スティルインパクト』
「エピソードトークを聞かせないと制御できない競走馬」「引越し作業を進めるテレビマン」「深海で出会うマッコウクジラとダイオウイカ」こうやって書き出してみると、どうやって一つの物語に着地するのか見当もつかないほど遠く離れた出来事たちを、ユーモアと力技で結びつけ、人間の中で起きる小さな変化を描いていく。美術や衣装、小道具などの出来が素晴らしく、団体全体の創造力の高さ感じた。
ただ、中盤から後半にかけて物語の核心に迫っていく場面で言葉の力に頼りすぎていたのが勿体なく感じた。たとえば現実では段ボールの蓋を閉じながら喋るとき、なにかのキッカケで「喋ること」と「作業すること」の優先順位が入れ替わったりすることがあると思う。この入れ替わりを丁寧に描くことで、セリフが持つ言葉の意味以上に、心境の変化や物語の展開をもっと微細に描写できたはずだ。
観劇中、客席の後ろからケタケタ笑い声が降ってきた。見るとオペレーターチームが笑っていた。自分たちでつくった芝居、何ヶ月も稽古し何ヶ月も観てきた芝居を未だ新鮮に楽しむ姿に、素直に感動した。大阪へは一緒に来れなかったメンバーも含め、みんなでワイワイ盛り上がりながら稽古している姿が見えた。北海道で蓄積されたそのおおらかな空気は、作品全体に大きな影響を及ぼしていて、客席に座った僕の中に心地よい衝撃を残してくれた。
○社会の居ヌ『未χのチ。』
僕はこういうアナログな芝居が好きだ。畳めないほど大きすぎる風呂敷を広げる物語も好きだし、その風呂敷の上で楽しそうに笑いをかっさらっていく俳優たちもとても愛おしかった。全員がなるべく舞台に残り続け、複雑で巨大な世界観をアンサンブルワークで提示し続ける作戦も、この作品には効果的だったように思う。
ただ舞台に立つ人数が多くなるとその分、観客の視線が散るリスクが高まっていく。実際、進行している物語以外のアンサンブルワークに気が散ってしまったり、どこを見ればいいのか一瞬見失うシーンがいくつかあった。アンサンブルワーク中の俳優の顔の向きやムーブメントデザインそのもの、照明の使い方を精査すれば、もう少し作り手の狙った位置に観客の視線を誘導できたと思う。起きていることを観客に理解してもらうためにはムーブメントの「質感」や「連鎖」をデザインすることも重要で、特に連鎖(アクションする側/される側の因果関係)の統制を取りきれていなかったのが観客の理解を妨げているように感じた。
道具立てについても改良の余地がある。なにか道具を見立てに使う時、その物が本来持っている役割や属性を意識した上で展開していく方が、道具の力を発揮しやすい。僕はこの物語と脚立を「上昇すること」くらいでしか関連付けることができず、演劇的なミラクルより、創作者たちの制約やあらゆる事情が透けて見えてしまうことが気になった。
最後に戯曲について。作家が「書きたいセリフ」はよく見えたが、登場人物たちの行動原理が固まりきらないまま物語が進行しているように感じた。登場人物たちが目指す目的を阻害する、なんらかの障害を何度も提示していくことで、キャラクターが持つ行動原理の強さを観客に見せたり、キャラクターが自分の行動原理の根っこに気づいていく展開を生み出すことができたかもしれない。そして、これは勿論タイトルが『未χのチ。』であることからも意識的になのでしょうが、クライマックスで語られる「血」「地」「知」の独白は、魚豊さんの『チ。』が大流行している2025年3月に上演する芝居に入れ込むには得策ではなかったように思った。
とにかく本当に俳優陣が素晴らしく、途中何が起こっているのか分からずとも見ていて楽しい作品であったことは確かでした。「意味不明なのに面白い」これは僕がずっと志している演劇のあり方の一つで、そこにすでに到達していることを心から羨ましくも思ったりしました。次回作も楽しみにしています。
○劇団あしあと『だから今、走る』
演劇祭にはあらゆる制限が付きまとう。全団体で共有する照明/音響の機材の中で表現を探らなければならないし、持ち込める舞台美術も限られている。特に全国各地から人が集まるこの演劇祭では、その制限がより厳しいものになる。「無人島に一つ持って行くならなに持っていく?」的な状況の中、彼らは悩み、考え抜いた結果、どでけぇ土管を持ってきた。
どでけぇで土管は物語に圧倒的な説得力を持たせた。Before土管時代とAfter土管時代とで客席の没入度合いが全く違った。土管から次々出てくるバナナを、客席中が固唾を飲んで見守っていた。どでけぇ土管はすげぇ緑で、時間が経つにつれサムの手や顔をだんだん緑に染めていった。土管のせいで顔色が悪くなったサムが笑顔を見せるたび、僕はサムとこの物語が好きになっていった。無人島に持っていくもの選びに、彼らは勝ったのだ。
特に好きだったのは懐中電灯で土管を照らすとサスが降りそそぐシーン。因果関係が明確なので、演劇的マジックを言葉で説明せず、スマートに成立させていた。マジックテープの靴を映させるため周囲の人間の靴を真っ黒で統一したりと、演出面でのきめ細やかさも作品の随所に感じた。
ただ、Before土管パートは物語が少し重く、後半の面白さと釣り合いが取れていないように感じた。シーン4の導入で流れてくるドヴォルザーク「新世界より」の音源選びも気になった。どのくらいひらけた場所で、どのくらいの距離にスピーカーがあり、どのくらいの音量で流れているか想定できれば、音だけでも世界観が提示できると思う。今後の作品も楽しみにしています。審査員特別賞、おめでとうございます。
Bブロック
○劇団ちゃこーる『アイマイミー!』
物語全編を心地よく満たす饒舌でグルービーなセリフの応酬、次々押し寄せる馬鹿馬鹿しくて不可思議な出来事、常になにかしらの運動と熱を帯び続ける舞台上。この人たちにはとにかく「散らかす才能」がある。脈略のない笑いをとっては場を散らかし、話題をぶっ飛ばしては物語を散らかし、トイレットペーパーを投げまくっては舞台を散らかす。しかし、その散らかしのどれもが制御されていて、とても美しいのだ。
彼女らは散らかすことで、創作の根底にある衝動のようなものを(物語の形おさめるために薄めたりせず)抽象的でバラバラな原液のまま、ストレートに観客にぶつけることに成功していたように思う。上手に散らかさなければ、これだけの情報量を観客が楽しむことなどできない。そのバランス感覚に非凡なセンスを感じ、個人的に推した。
世界を犠牲にしてでも取り返したいものがある。という展開にはグッときたが、「地雷かもしれないものを踏んだ」という作品全体を不可思議にしていた疑問が、最終的に「人間関係の“地雷”を踏んだかもしれない恐怖」という場所に着地してしまったのが、個人的には方々に散らかしたものを近場でまとめすぎたようにみえ、勿体無く感じた。とはいえ、本当に力とセンスのあるチームだと感じたし、これからも作品を見たいと思いました。衝動を燃料にして、散らかったまま宇宙の彼方まで飛んでいってくれるような作品を見られるような気がして、楽しみでなりません。
○ベイビー、ラン『わたしたちの失敗』
幕開けから随所に視覚的美意識を感じた。財布、墜落事故、九号館の飛び降り。“わたしたち”から観測できる異なる距離で起きたいくつもの“落下”を巡る物語を、一つの舞台空間に展開するために彼らは“ブルーシート”という道具を選んだ。とても秀逸だと思った。ブルーシートは時に花見などの「宴(祝祭)」に使われ、時に「死体を包む道具」としても使われる。路上生活、花見、避難所、あらゆる場所で「自分たちの居場所」を定義することにも使われる。道具に紐づけられた現実世界での用途のイメージが、物語の重要ないくつかの場面で、観客の想像力を飛躍させることに成功していた。さらに、能のように抑制された俳優たちの演技体、記号的な身体表現と戯曲の文体との距離感、いずれも素晴らしいバランスで成立していたように思う。
審査会で「既視感」について議論が興ったが、僕個人は「今のスタイルが本当にやりたいことなのであれば」全く気にしなくていいと思った。ストロングゼロで作られた四つの柱や、鏡板を模したスクリーン、俳優の演技体から死者が現れラストに舞を踊る劇構成まで、夢幻能の骨格を使って現代劇(未来劇)を描こうとしていたのは明白で、クラシカルな手法を自覚的に選んでいるのだから、既視感が起こらないはずがないのだ。あとは観客が何を見てきたかによって既視感の増減が起きるだけで、そんなことより、その既視したものよりどの点で更新されていたか/されていなかったのかを議論した方が有意義だと感じた。
感じたので、更新されていなかった部分について書きたい。講評会でも話したが、奥のスクリーンを「鏡板」の見立てとして使うのであれば、投影する映像は状況を説明する「書き割り」ではない方が面白かったように思う。「鏡板」が客席に座る神の姿(老松)をうつす鏡だとするならば、客席にいる“めにみえないもの”や観客の姿をそこに投影することで、物語のレイヤーをもう一層厚くできたかもしれない。そして最後の舞のために流された“踊り子”は改めて、良くなかった。楽曲が長い期間にわたってヒットしすぎていて演出意図であった“あの時の流行歌”という手触りは観ていて伝わらなかった。楽曲の詞と熱量に押される形で心揺さぶられながら「もしかしてこの感情、この曲から想起させられる感動なのではないだろうか」と疑ってかかってしまう自分がいた。
このチームは勉強家が多いのだとおもう。これだけ簡素なセット、少人数、機材に左右されない作品であれば海外へも持って行きやすい。本当にやりたい部分意外そぎおとして、あちこちで上演して欲しい。
○どろぶね『宇宙船なら沈まない』
開幕のヴィジュアルから惹きつけられ、ノンストップで笑わせられ続け、気づいたら終わっていた。終わってみたら全員が好きになっていた。登場人物だけじゃない。俳優や作家やスタッフ陣、文字通り全員が好きになった。「やらされている人」が一人もいなかったからだ。台本から演劇を立ち上げる創作の場合、必ず「他者が思いついた言葉(もしくは演出アイディア)を自分ごととして発話/実行する」という壁が立ちはだかる。その壁をクリアするために僕たちは稽古場で悪戦苦闘するのだが、“やらされている”という事実を覆していくことは本当に難しい。ところがこの作品は全編にわたって、やらされている瞬間がほぼ皆無だった。どうやってそんなことを可能にしたんだろうか。
僕が思うに作品以前の、コミュニケーションの文化/創作環境が卓越していたんじゃないだろうか。面白い台本に負けぬようアイディアや即興を持ち込む俳優陣、演出アイディアに負けないぶっ飛びトンチキサウンドや、うるせぇドンキライティングぶちかまして来るスタッフ陣が、互いへのリスペクトを軸にして「おもしろ天下一武道会」みたいな稽古をやってきたんじゃないだろうか。少なくとも僕には、全員が「互いの面白さに寄りかかるまい」と抗っているように見えた。だから音の作り一つ、照明の変化ひとつ、俳優の間や仕草一つ一つにアイディアや本人の意志を感じる。演劇祭に向けて即席で作ったため「どろぶね」という名前だそうだが、一向に沈まずエンジンを吹かしてぶっちぎる泥舟を見せつけられ、唖然とした。
ただ冒頭が圧倒的な分、ツチノコまで判明して以降物語のサスペンスが緩んで、物語の推進力がなくなってしまうのが勿体無く感じた。その浮遊感を作品の良さとして捉えるか、劇作上での物足りなさと捉えるかは、講評会でも意見が分かれていたと思う。ま、最終的には、この演劇祭の観客や審査員の意見なんかより自分たちの天下一武道会を優先した方がいいと思う。審査員賞受賞おめでとう。引き続き天下一武道会がんばれ。
C ブロック
○産業医科大学演劇部『宵闇アウトサイド』
ハロウィンパーティーのために貸し切られた居酒屋から、ひなたがゲロを吐くために飛び出してくる。彼女はみんなと馴染むため、飲めない酒を飲み続けていた。居酒屋の駐車場で少しずつ彼女たちの秘密が明らかになる。社会で生きていくために自らの正体を隠しているマイノリティたちが、互いの存在に気づいていく。明るく暖かく賑やかな居酒屋では多数決ゲームが行われていて、駐車場の三人はマジョリティーの社会にどう馴染んで、その社会でのポジションを得るかの話ばかりしている──。描きたいテーマに対して「物語の切り出し方」「状況設定」が完璧だった。この作品の素晴らしさは、現実世界に直結する切実なシチュエーションであるにも関わらず、ポップで愛らしい会話を通じてそれを描いている点だと思う。だが欲を言えばもっと「笑い」に強度が欲しかった。もっと観客の予想を裏切って欲しかった。ワンシチュエーションの作品では、舞台の外で起きている時間の設計が肝になる。今作は重要な会話が駐車場でばかり交わされていたが、それに平行して外(居酒屋の中)でのアクシデントや会話を今以上に設計しても良かったかもしれない。それから、カミングアウトやアウティングされてしまうシーンはもう少し丁寧にそれぞれの反応を描いてもよかったのではないかと思った。着想も構造もとても面白いので、あとは観客の体験の設計だけだと思った。もし機会があったらブラッシュアップして再演などしてほしい。
○劇団激男『黄ばみかけの完熟トマト、そこにちょっとのユートピア』
視覚、聴覚ともにぶっちぎりで一番面白かったのではないだろうか。言葉が聞き取れないシーンがあっても、舞台の風景が常に展開し続けていたので最初から最後までワクワクしながら見続けられた。お遊戯代行サービスの展開や「ボッチ飯に必要な個室が毎年足りなくて (略) 今は園児の人数分個室のトイレがある」というセリフの切れ味もえげつない。俳優の演技も抜群にクリティが高く、あれだけ強いセリフに負けない強い演技体を成立させていたことにも驚かされた。ドラッグでハイになった奴らがIKEAの家具組み立ててるの光景を眺めているような、爽快な気分だった。
個人的に惜しく感じたのは、「見せる見せない/笑わせる笑わせない/聞かせる聞かせない」という選択が曖昧に感じた点だった。観客にアクセスする演出が多い反面、観客の状態が舞台上から掴めておらず、言葉や景色や俳優のもつエネルギーが空転しているように見えた。作品をみて感動したり嫌悪したり、心が動く瞬間ってのは多かれ少なかれ“受傷”することだと思っている。僕はこの作品を爽快な気分で楽しく観たが、内容に惹きつけられたり心を預けられなかったので、裏切られたり傷つけられはしなかった。それでもこのエネルギーの塊を無視することはできず候補に挙げた。審査員特別賞おめでとうございます。次回作も楽しみにしてます。
○道徳ふあんしー『オートファジー・コメディアン』
物語は萩原朔太郎の『死なない蛸』のようなエピソードトークを繰り広げる芸人仲間の話から始まる。それを聞いた芸人・牧田は「今の話を聞いて思い出したことがある」と自分の人生をエピソードトークとして語りだす。現実に起きた不幸も幸福も、人生そのものを自食して笑いを求めていく芸人たちの顛末が繰り広げられていく。
「解散する劇団が解散するコンビの芝居をつくる」作品の根幹にある虚実入り混じった設計思想がとても好みでした。他人の人生を(ときには自分の人生も)もストーリー化して消費してしまう我々現代人に刺さりすぎる作品だった。全国学生演劇祭への参加決定が最も直前であったのにも関わらず、サイズ感の異なる会場に対して違和感なく作品が馴染んでいて、スタッフ陣と俳優たちの手腕を感じた。コンビ名の名付けや劇中コント/劇中漫才で取り扱われる着眼点に、作家のお笑いへの愛を感じた。僕はトルコアイスのコントが好きだった。
劇場で笑いが起きる時、これだけ趣味趣向や個人の幸せが多様になった現代でバラバラに生きている僕たちが、まだ同じものを見て笑うことができるんだと感動することがある。この作品の中でも、何度もその類の感動を覚えた。客席の笑い声は作品の一部として取り込まれていき、ますます虚と実をないまぜにしていった。
ただ笑いによって現実と物語が密接になった分、作中でのウケ方と劇場で実際に起きているウケ方の差が気になった。特に不幸の高まりに比例して笑いを手に入れていくフェーズのネタで、劇場に大きな笑いが起こりきってなかったことが、作中の説得力を薄めてしまっていたように感じた。もっと面白いネタを書け!という抽象的なことではなく、自分たちが起こす笑いの規模に即した物語に調節しても良かったのではないかと思った。でも、物語が終わる頃には、そんなことは些細なことかもしれないとも思うようになりました。ラストのWボケとWツッコミの嵐には、問答無用で胸が熱くなった。だんだん、ボケの言葉にもツッコミの言葉にも意味は無くなっていって、舞台上で互いに支え合い酷使され消耗していく二人の身体だけが浮き立っていく。劇場を去ってく二人を見送りながら、解散していく皆さんのこれからの人生を見届けられない悲しさを噛み締めていました。不幸で笑われる前に不幸で笑わせる、という選択は、不幸に人生の主導権を握らせない為の彼らなりの抵抗だったのかもしれないと思いました。また気がむいた時にお芝居を作ってください。観に行くので。審査員賞受賞おめでとうございます。