レビュー
- 第8回 – 2023年
- 第7回 – 2022年
- 第6回 – 2021年
- 第5回 – 2020年
- 第4回 – 2019年
- 第3回 – 2018年
- 第2回 – 2017年
- 第1回 – 2016年
- 第0回 – 2015年
審査員講評 ごまのはえ 氏
- 総評
脚立を置く団体が多くてびっくりした。流行ってるのか、脚立。好きだけど。
不倫・二股も多かった。三団体もあった。怖い。
「ひきこもり」は一団体だったけど、自分たちの将来にたいする漠然とした不安を、過去から問うみたいな作品は他にもあった。みんな考えてる。
戦争にいためつけられた人々をダイレクトに描いた団体もあった。
戦争も含めた世界そのものに、自分の気持ちをぶつけた団体もあった。
早く世の中に出て実力をためしたくてうずうずしてる人もいれば、自分でも何がしたいのか全然わかってない人もいた。
色んな人がいて、色んな劇団があって、色んな作品ができるんやね。お疲れ様でした。
- 劇団未踏座 (3)
色々とチグハグな印象を受けた。とくに音響と照明の変化するタイミングが、役者の感情と合っていないところがいくつかあった。また場所(場面)の設定がよくわからなかった。共演者同士が、そこをどんな場所(場面)だと思って演技するか、その共通認識がとれていない。お芝居の主題はとてもわかりやすく、素直に観客に伝わっていたと思う。一番大切なものはしっかり伝わっていただけに、周辺のチグハグはとても残念。
- 演劇ユニットコックピット(5)
面白かった。舞台の高さがとても適切。畳のシーンがとても観やすかった。縁側のシーンでは人物同士の顔が少し近すぎる気がした。もっと離れたほうが一人一人の変化が観やすかったかも。沈黙のシーンの間がいい。誰も喋らない時間が散漫にならず、登場人物の気持ちが空間にあふれている印象を受けた。私は最後列で観ていたが、お客さんも集中して観ていた。
ただ終盤の場面転換でながれたピアノ曲が盛り上げすぎだと思う。もう終わるのかと思ってその後の観劇態度がだいぶ冷静になってしまったが、背負い投げが決まったので最後まで楽しめた。
- poco a poco (5)
お芝居がはじまる直前の暗転でオペブースから明りが漏れていた。下手から役者が出て来るタイミングも少し早くて、ドタバタと上演が始まってしまった。でも、お芝居がはじまるとグイグイ引きこまれた。声がいい。セリフ臭いところがまるでない。登場人物の気持ちを自分のものにして喋っているから、演技に無理がなく、楽しめた。脚本も就活生の気分を上手くとらえていて、でも、悩みに沈殿せず、あっさり元気になっていく様子が、とても常識的で大人に思えた。もっと観ていたいと思った。
- 劇団しろちゃん(4)
主人公のキャラクターがとてもよかった。すぐ隣にいそうな、でもつかみどころのない不思議な人物を上手くつくりだしていた。一体あの女は何を考えているのか?観おわってしばらくたった今でも思い返してしまう。あの女にとって「白」とは?「眠る」とは?そして「愛」とは?いまだに興味深い。
いくつか疑問もある。まず脚立の置き方。脚立が脚立にしか見えなかった。観客の想像力を刺激して、脚立が脚立以外の別の何かに見えるくらいの工夫がほしい。それから登場人物のうち主だった三人くらいしか使えてない気がした。他の人がコロスであったとしても、ちゃんと居場所をあたえてあげないと、変に目立つ。
- 劇団サラブレット(3)
焦燥感のみ感じられて、焦燥する理由がわからない。主人公がミュージシャンになりたいという思いは、きっとどうでもよいのだろう。父の秘密も、母の不満もきっとこの作品にとっては、丁寧に描くことがらではないのだろう。だとすると何を描くのか?それらを内包する構造。つまり焦燥感そのものを描きたかったのだろう。だとすれば、おめでとう、成功してるよ。けど面白くない。
- 劇団ACT(5)
脚立のつかい方が上手いと思った。やっぱり脚立は正面ではなく、上手にやや斜めに向けて置かなくてはいけないと強く思った。
それはさておき、脚立以外にも沢山ものを置いて、それによって舞台に色んなエリアができたのが面白い。そこで役者さんたちが、座る、登る、もたれる、降りる、歩く、歩きながら喋る、喋りながらふり返る、「こちら」から「あちら」を見るなどなど、色んな演技が観れた。表現の手数をまず増やす。賢い演出だ。それぞれの体の状態が、様々な雰囲気を伝えていて、やや類型的かもしれない若者像に、現実感を与えていた。役者も上手。
- かまとと小町(2)
観客は動けない。暗い中でじっとお芝居が終わるまで座っていなきゃいけない。それはとても不愉快な状況だ。その上、舞台上の作品がつまらなかったら、不愉快は殺意にかわる。もちろん本当に殺されはしないけど、殺意まで抱かせる役者、スタッフは恨まれて当然だと思う。舞台は怖い。なぜこんなこと書くかと言うと私はこの劇団の作品を観て、この人たちは舞台の怖さがわかってないのではないかと思ったからだ。この劇団の創作意欲は怖くない観客、つまり「身内」に見せる範囲で止まっているように感じた。例えば高校の発表公演なら観客のほとんどは身内だろうし、そこで自分たちの元気な姿をみせるのはとても大事なこと。だけど大学生にもなれば表現者としての創作意欲はそんな「なれなれしい」関係では我慢できなくなるはずだ。なってほしい。
- 創像工房 in front of.(4)
なんか虚しい芝居だった。
たとえ嘘であっても俺は熱狂できる!という宣言はそんなにカッコいいものではないと思う。やっぱり騙されないほうがいいし、嘘だとわかっているなら逃げたほうがいい。そんなことハイテンションで宣言されても、困る。なぜこんなに虚しいのだろう。すべて嘘であると宣言した主人公がもっと悪人に見えたら、まだ救われたのかもしれない。次は人を騙す側に立って、金儲けしてやるぜって終わりなら、僕は安心できた。でもあいかわらず純粋な笑顔で素直な笑顔で怪我を勲章のように掲げて元気になられても、虚しい。すべては嘘かもしれない、でも自分は大事にしてね。
- プリンに醤油(5)
転換中の舞台設営の時から、なんとなく暇ったらしい空気が流れはじめこれは期待できると思っていた。期待通り楽しめた。楽しかっただけでは審査員としてダメらしいので何が楽しかったか、つらつら書くが、苦痛。
デッドパンという言葉があるらしい。「死んだ顔」もしくは「死んだ鍋」とでも訳すのだろうか。コメディ俳優にはとても大切らしく、つまり「死んだ鍋」になったつもりで演じろという意味、たぶん。たしかに役者は笑いがあると嬉しくてつい調子にのっちゃうけど、でもその気持ちをぐっと押さえて「死んだ鍋」になったつもりで続けないと、せっかく引っかかった笑いも逃げてしまう。巧いコメディ俳優ってみんな無表情だもんね。プリンに醤油の皆さんは素晴らしいところがいっぱいあったけど、私が一番感心したのは、あれだけウケていたのに、最後まで抑制が効いていたところ。「死んだ鍋」まではいかなくとも「道路に落ちてる軍手」くらいの愛想のなさだった。素敵です。