レビュー
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審査員講評 西田シャトナー 氏

<総評>
「学生演劇こそが演劇最前線である」というコンセプトに大きく共感し、私はこの演劇祭に参加させていだだきました。今ここで演劇が誕生している。そのことをもって「最前線」と呼ぶのだと、私は理解しております。
実際に大会会場では素晴らしい作品群・劇団群に出会うことができ、心から興奮し、満足する経験となりました。
審査員賞と観客賞が上位で一致した団体があった場合、それが大賞を受賞するというルールに則り、今回は大賞該当団体がないという結果になったことは、私は審査員として申し訳なく感じています。私としては、審査員賞の2団体と、観客賞の1団体は、いずれも大賞に該当する素晴らしい公演を行ったと考えているのです。審査員にだけ選ばれる振り切れ方、観客たちにだけ選ばれる振り切れ方、どちらも認められて欲しい、そう思いました。せっかく「今演劇が生まれている開拓地」にいる演劇祭なのだから。まんべんない軸で選ばれるのではなく、なにかの方向に突き抜けようとしている演劇こそ、認められて欲しいなあと。
大会運営に、今後可能であれば考えていただきたいのは、いつでも、常に、ルールは更新され続けるべきではないかということです。昨日街で作られたルールで、今日荒野の淵を前進する者を守ることはできません。すべては更新されてゆく。私はそれが最前線で起きることの一つだと考えております。
今、ここで、せめてその思いを表明させていただきました。
この素晴らしい大会の中、私の思う「大賞」に該当する成果を顕された「どろぶね」「道徳ふあんしー」「劇団あしあと」の皆様。本当におめでとうございました。
なお、私は今回審査員として観劇・審査するにあたり、
1/巧拙や知識の量にかかわらず、より誕生性が豊かであること
2/仮にすでに先人が同じ手法やテーマを発表しているとしても、本人たちの中でそれが生まれたのであれば誕生性と認めること
3/集団を第一の審査対象と考え、作品はその集団の生んだ結果であること
などを重要と考え、そのために私の持てる創造性と経験と知識を最大限動員いたしました。
この考えは、他の審査員の方々と一致しない部分もあるかとは思いますが、審査過程でしっかりと意見し、審査結果にも反映していただいたと認識しております。
<各作品講評>
・劇団しろちゃん「スティルインパクト」
人生の深海で泳ぎ戦い続ける巨大なクジラとイカを、荷物として梱包して引っ越し先へもってゆこうか、どうしようか。それを悩みづづけている主人公の姿に胸しめつけられます。
作者や劇団の皆が直面しているであろう、大学から社会へ出てゆく時の不安を、「引っ越しの日」という演劇世界に乗せきった、あふれる激情と詩情の作品。
その不安は、私にも、社会に出て数十年経った今もあり続けていますから、タイトルの「スティル」がなおのこと身に沁みてくるのです。
社会で誰もが参加させられる人生のレースを象徴するかのように、騎手と馬が一体化したケンタウロスのような競走馬が、何度も何度も、荷造りの場所に乱入してくる。それがまるで喜劇のようにも見えることが、また切ない。
素晴らしい幻想青春譚でした。
・社会の居ヌ「未χのチ。」
狂おしい冒険譚です。新世界を求める冒険者の行く手に未踏の荒野はなく、かろうじて冒険先になりそうな場所はすでに捨てられた旧世界だけ。そして案の定、たどり着いて目の当たりにした旧世界は、ただの袋小路として閉じてゆくところだった──という狂おしさ。
冒険とは何か。冒険者とは誰か。それはまだあり得るのか。既知の海の、恐ろしい答えの重力が生む渦流に引きずられる、心細い小舟のような切ない芝居です。それは芝居であるだけでなく、作り手たち自身も作品づくりの大渦巻に引きずられる心細い小舟でもあるという、現実の入れ子構造になっている出来事なのでした。
地球は、どこまでも航海すれば、出発した陸地に戻って来る。世界は無限であり、最初から閉じているとも言える。そんなことを思いました。
・劇団あしあと「だから今、走る」(観客賞、審査員特別賞)
この作品が観客賞に輝くことを幸福に思います。
「話を進める」のではなく、「話の解像度を上げてゆく」という、覚悟の定まった熱い一撃。主人公の心の地中をめがける巨大ドリルのような芝居です。
俳優にとって、「魅力たっぷりの天真爛漫な人物」を演じることは、自意識との戦いに傷つくことの多い、骨の折れる作業です。それが見事に実現されているのは、演出者の献身的共演と無縁ではないでしょう。脇役の「鳥人間」が大活躍するのも、大道具が主演俳優に匹敵するスターとして光るのも、すべて座組全体が互いに「手柄」を立てさせる美徳を持つからかもしれません。そうした集団のあり方も素晴らしいと感じました。
土管は、DoでありCanである。土管はそこからどかない。そんな言葉遊びを感じながら楽しみました。
・劇団ちゃこーる「アイマイミー!」
「主観」の圧倒的動かなさを描いているのに、激走する嵐のような芝居です。地雷を踏んだ主人公は舞台中央から一歩も動かない。まわりの世界が圧倒的スピードで過ぎ去ってゆく。停止感と速さ。一体感と孤独。不思議なことに、それらが同時にあります。
「主観」という孤独な乗り物から見える荒れ狂う車窓を、私は見せられていたのでしょう。その車窓はまるで、祭りという分子で形成された暴風雨のような景色だったのです。
この荒れ狂う世界を、「一糸乱れぬ」というよりは「どんなに乱れても熱くまとまる」という、6人の出演者とスタッフたちのチームワークが熱く素晴らしい。
「一旦戻ってこい、非現実に」という劇中の言葉は、私自身が今後の世界を生きてゆくにあたって、私を助けてくれる力になることでしょう。
・ベイビー、ラン「わたしたちの失敗」(審査員奨励賞)
ここ(大会)が演劇が誕生する最前線であることを実感する公演でした。真剣に観劇し、心ふるわせ、専門家として分析したつもりでも、あとからあとから新しい解釈と、作家の天才性が見つかるのです。私達先輩演劇人は、皮膚で言えば角質のような、彼らのはるか後方の浅はかな存在なのでしょう。
彼らの描く、情報と情報のすきまの夜闇の空間。そこには想いや後悔やすれ違いが、不可視のまま詰まっている。なのに共有できるのは表面の言葉という単なる「音波」でしかなく。私達が同じ何かを交わすことができるのは、例えば流行歌のような、その空間を飛び交う電波で知った共通情報を歌って踊る時くらいなのかもしれない。
そんな、切なくて救いがないようで、実際には温かいような、かけがえのないような夜を見ました。
・どろぶね「宇宙船なら沈まない」(審査員賞)
始まってわずか5秒で既に傑作であることがわかる驚き。抜群に研ぎ澄まされた演出と作劇と演技と美術なのです。
まるでデタラメと肩透かしのような無数の出来事が、楽しく、美しく、寂しく、疾走しながら並べられ、気づくと刹那と永遠の結合した、豊かな芸術が出来上がってゆきます。それはまるで稲妻や雲や星々が模様を形成するのに似ていました。どの俳優の腕も最高に良く、互いのフォローもできることがまた、「模様」の発生を支えるのでしょう。
私は観客として、「自分の人生に起きるデタラメと肩透かしも、きっとこんなにも輝いているのだ」と感じ、救われました。
客席も大いに湧き、終演後のどよめきもすさまじかった。皆、驚いていたのだと思います。またこの作品を、このチームを観たいと強く思いました。
・産業医科大学演劇部「宵闇アウトサイド」(文学座賞)
モンスターたちが秘密を告白できる場所は密室ではなく「外」である、という着想をとことん磨き抜いた、見事な見事な作品。
芝居の序盤で私は勘違いをし、様々な要素の中途半端さを作劇の未熟さと思ったのです。しかし物語が進行するにつれて、それは現実を描くために徹底的に考え抜かれた戦略的中途半端さなのだ気づき、鳥肌が立ちました。すべては、重く深刻な必然なのでした。健康や出自や遺伝的な事実も、身の安全のために秘密にし、恨みも語らず、一般社会での振る舞いばかりを話題にするモンスターたち。皮肉にも今夜は誰もがモンスターの仮装を楽しむハロウィンなのです。そんな光景を見ながら、果たして本当の暗闇はどこにあるのかと思ったのです。もちろん、答えの一つは、「暗闇は私の心にある」なのでしょう。
・劇団激男「黄ばみかけの完熟トマト、そこにちょっとのユートピア」(審査員特別賞)
追い込まれた自我の爆発、その超熱風で客席も蒸発してしまいそうな、まさに灼熱の公演。この人生ごと振り切ったような内容と演技を、学生劇団が行っていることは驚きです。どれほどの覚悟と努力とぶつかり合いをすればこの内容を演じられるのか。これこそが今誕生している原初演劇であり、同時に演劇の到達地点でもあるでしょう。
これは本来、我々審査員などが評価できるような生易しいものではありません。観客席が地底に存在するように設計された美術の中、衣服という社会性の象徴が無数に散らばった地面を踏みつけながら、全裸の男たちが身も世もなく暴れる。
演出者が「自分でもわけがわからなくなった」というところまで挑みきったクライマックスの、飛散した自我の瓦礫のような光景を、私はずっと忘れないでしょう。
・道徳ふあんしー「オートファジー・コメディアン」(審査員賞)
凄まじいものを作る若者がいるものです。
作者自身の人生に起きている事実をそのまま作品にする、ただそれだけでは、これほど熱く劇場を焼く稲妻のような公演になったりはしません。事実を描いたのではなく、事実が今、劇場で、眼の前で起きている。真実が生成されている。その様を見る我々は、生成される真実の一部となる。そういう公演でした。
「お笑い」という芸に挑む主人公たちの芸の実力を、実際の俳優たちの実力が越えてゆくすごさ。クライマックスの掛け合いの、真剣で斬りあうような、演技や稽古や打合せでは到達できない人生のすべてを掛けたような応酬。その果て、彼らは真実そのものとなって、観客の私達を置き去りにして劇場を去ります。私はその時、捨てかけた私自身の真実もまた始まるのだと思いました。