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レビュー

審査員講評 オノマリコ 氏

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総評

10回目という節目の全国学生演劇祭の審査員にお声がけいただいたことを光栄に思う。フライヤーに「ENGEKI FRONT OF JAPAN 2025」と大きく書かれたこの演劇祭は、学生演劇はすでに活躍しているクリエイターたちの後をなぞるような存在ではない、学生の演劇こそが日本の演劇の最前線なのだ、と宣言するようで、この大会をプロデュース・運営する実行委員たちの学生演劇への期待が伺えた。
演劇祭の前日、わたしは演劇の「最前線」はどこにあるのかと、改めて考えてみた。(わたしごときに演劇の最前線が見えるのか、という問題もあるが、そこは審査員を引き受けたのだから腹を括って「見えている」としたい。)
演劇の「最前線」は、考えれば考えるほど、複数地点に存在している。

・演出、演技やスタッフワークなど、表現の新しさにおける「最前線」

・近年の社会状況を鑑みて、日本に暮らす劇作家が誰に何をどのように語るのかという「最前線」

創作環境の新しさとしての「最前線」

・作演出家のワントップでの作り方を旧来の演劇と考えた時に、どういう体制で作品を作るのかという「最前線」

・演劇を「鑑賞物」として考えるのではなく、「方法」とする。応用演劇的にその地域の問題について集団で考えるなど、演劇の使い方としての「最前線」

考えていけば、まだまだあるだろう。
勘違いしてほしくないのだが、必ずしも「最前線」がいいということではない。業界としては、前線も後衛もしっかりと存在している方が豊かだ。ただこの第10回全国学生演劇祭は、日本の演劇の最前線に向かおうとする学生たちの大会と位置付けられているその位置付けを大事にしようと考え、いくつか前線地点を上げてみることにしたいかがだろうか。

いささか先に生まれた者として、貧しくなった日本でお金がかかり物的なものは残らない「演劇」をどんな形で続けていくのか、そんな悩みが影のように足元にこびりついている学生の皆さんに「日本の演劇の最前線」を任してもいいのか、と思う。その場所は腹を括った30代や40代が奮闘する場所なのではないか、とも思う。個人的な気持ちを書くと、若い皆さんには、どの地点にいてもいいから、「自分が誰で、客席と何を共有したいのか」を悩んで煮詰める時間をもっととってほしいと願っている。また、「日本の演劇の」ではなく、自分自身の表現の最前線を大切にしてほしい。

総評の最後に、選考会の場で、審査員賞が2枠になった過程についても記しておく。わたしが審査員賞に推すことを考えていた3作品は、劇団あしあと『だから今、走る』、ベイビー、ラン『わたしたちの失敗』、道徳ふあんしー『オートファジー・コメディアン』だった。審査が始まり、はじめに審査員たちそれぞれが4作品を上げることが決まった。そのため、次点としていたどろぶね『宇宙船なら沈まない』も加え、名前あげたその結果、全ての審査員が、ナンセンスコメディとして力量を見せたどろぶね他者との線引きがうまくいかず傷つけあう表現者たちを描いた道徳ふあんしーのに投票しており、この2団体の作品すんなりと審査員賞に決まった。

審査員賞は最大で枠である。なるべく多くの賞を出場団体に渡したいと思う審査員が多かったが、そこから審査は難航した。どろぶねと道徳ふあんしーの次に表が集まった作品、劇団あしあと『だから今、走る』、ベイビー、ラン『わたしたちの失敗』、劇団男『黄ばみかけの完熟トマト、そこにちょっとのユートピア』に関して、各カンパニーが何に対して挑戦していたか、表現上の既視感などについても、言葉が交わされた。作品としての完成度が高かったのは劇団あしあとだった。表現に対する挑戦というところではベイビー、ランや劇団男の名前が上がった。また学生の団体が「賞」というものを受ける、その影響力の大きさについても、審査員間で話題に上がった。その結果、現状2団体に投票が集まっていて、次点に3団体があるならば、それを今回の結果とすることが提案され、審査員全員が了承することとなった。劇団あしあとと劇団男が「審査員特別賞」、審査員間で賛否が分かれたベイビー、ランが「審査員奨励賞」となった。
観客賞の上位の組と審査員賞が異なっていたため、大賞は出ない結果となった(過去のデータを調べたところ第6回大会以来2度目だった)。このことを残念に思う対談も読んだが、さまざまな指標で異なる団体が選ばれるような、充実したラインナップだった結果だと私は思う出場した全団体に、もう一度拍手を送りたい。


●各作品講評

Aブロック
・劇団しろちゃん「スティルインパクト」

競争や殺し合いではない関係性について、希望のように描いた話と受け取った競馬場から馬がジョッキーごと抜け出して、河田のアパートにドアを壊してやってくるこの荒唐無稽な展開も、冒頭から馬たち登場していたこと、コミカルなジョッキー役の二人の演技破壊されるドアの痛快さによって受け入れられた。
個人的には、競争馬とジョッキーたち、うっすら競争関係ある河田と後輩、深海のダイオウイカとクジラ、この三つの世界の生き物たちは、もっと有機的な結びつきが可能だったように思う。小説などで使われる、マジックリアリズムのような大胆な方法を取っても可能性が広がるのかもしれない。イカやクジラが日本語を話してもいい。イカとクジラが競走馬に乗ってもいい。人間たちが深海に沈んでもいいし、競走馬を背負って走ってもいいのだ。ここに上げたのは例だが、表現可動域を広げるともう一つ、戯曲としても演出としても、自由さを取得できるように思った。
またあの大きなイカとクジラのために、数名が心血を注いで製作できること、演出部として舞台上に潜むことに感嘆したサークルの中で、アクティブに活動している人数が多い、劇団しろちゃんだからこそできることだろう。これからの活動にも期待している。


・社会の居ヌ「未χのチ。」

深海に住む人間の子供たちが、地上を目指す物語。物語を、絵巻物のようにハシゴや吊りものや衣装を変えて、ビジュアルで見せていく。その手腕を感じた。また、「冒険に行きたい」という気持ちは、どんな時代でも、本能的に備わっている人たちがいるのかもしれない。そう思えたきらきらとした上演だった。
しかし、「本能的に備わっている」と感じたというのは、旅に出る理由が乏しいということでもある。スズキ・イルカ・タチオ3人の演技によって納得させられていたが、もう一つ観客が入り込む理由がほしい。物語の推進力になるような、できれば物質的な、彼らが「地上に向かう理由」(たとえばベタだが、地上から深海に落ちてきた物や人を、地上に届けるなど)があれば、もっと大胆に絵巻物を展開できたのではないかとも思った


・劇団あしあと「だから今、走る」(観客賞、審査員特別賞) 

 マジックテープの靴と置き道具の土管をキーにして、幼い頃の自分を取り戻していく物語。素敵な上演だった。表現したいことが、観客に向けて開けていた。観客賞をとったことも頷ける。作・演出・出演の谷口さんが奮闘されたのだろうということも受け取れた。サム役の中村さんなど出演者の好演LEDテープを使う演出のためのアシストも光った今回、勝ち上がるために、どう見せていくかということをよく考えられたのだと思う。イノセンス(サム)を殺して、社会に生きていく「自分にその一部を纏わせるという物語は、大人になる通例的な過程を描いた以上に、今回の作品創作の過程そのものだったのかもしれない。上演を見てから時間を経て、そんな風にも思った。

若干、観客に向けて開けすぎていて、サムの死があからさまにすぎて冷めてしまった、そんな風に言う審査員もいた。しかし劇団あしあとの方々が想定する観客の中に今回の審査員たちが当てはまるとも限らない。皆さんは、表現のノズルの調整ができるのだから、これからも自分たちの想定する観客と何を共有するか、挑戦していってほしい。
また、パンフレットを読んで、就職しながら演劇をする道を探しているのかと予想している。老婆心ながら付け加えるが、劇団として演劇公演を行なっていく、とにかく事務作業が多くのしかかってくる。正社員として働きながら演劇を続けていくならば、この事務作業を分担できる人を何人集められるかというところが大事だ。そんな集団をこれから形成していくのか、楽しみにしたい。働きながらでも「日本の演劇の最前線」に挑んでいってもらいたい。
また追加して、劇団あしあとの方々には、応用演劇についても知ってみてほしいと思った。これからの演劇活動役に立つかもしれない。


Bブロック
・劇団ちゃこ「アイマイミー!」

ある日、地雷を踏んで、動けなくなったモモオカモモコを中心にして描かれる世界。出演者たちのアンサンブルが見事だった。アンサンブルとして振る舞いながら、一人一人の個性を見せていくことが上手で、一朝一夕ではない劇団の力を感じた。長い時間をかけて創作チームが組めているのではないだろうか。劇作の白藤さんのポップなセリフも魅力的だ。
ここから戯曲の話。モモオカモモコが踏んだ地雷が、何らかのメタファーであることは、客席には伝わっている。スイッチが押された以上、「その地雷を何とか爆発させない」、「その地雷を爆発させないように奮闘するが爆発してしまう」どちらかの物語を客席は期待している。その結果が「友だちのモモヨに電話をかけたい」なのは物語の帰結として成立しているのだろうか。個人的には、モモコがモモヨの逆鱗に触れている、もしくはモモコがずっとモモヨに言えていない破裂しそうな何かがあるなど、地雷に表現される危険性をもっと感じたかった。


・ベイビー、ラン「わたしたちの失敗」(審査員奨励賞)

日常の中にる平熱の絶望の物語として受け取った。胸を打つ上演だった感情的なものを押さえた発語、型があるような動きも、有効的だったと思う。またキャッシュレスのコンビニや万博の話題などで見せてくる少し未来であることの提示もうまい。9号館で飛び降りた人の出し方も細やかだった
また「落ちる」と言う言葉の使われ方が面白かった。熊谷の語る「落ちる」には、重量によって加速していきいつか地上にぶつかる「落ちる」ではなく、ずっと同じ速度で落ち続けている浮遊感と不穏さが感じ取れた。そこには少し、居心地の良さもあるのかもしれないと思えた。それに比べて飛行機事故の「落ちる」クラッシュのイメージを強く喚起する。未来に対する怯えが、そこから見えるようだった。
演技や言葉からイメージされるものが多くあるから、プロジェクターから出すものはそのイメージを固定化するものではない方が良かったと、わたしは思う。また次の作品があるのなら、絶望の地点から何を拾って、言葉や動きにしていくかを見てみたい。


・どろぶね「宇宙船なら沈まない」(審査員賞)

冒頭が最高だった。自動車でいとりんの2人が嘘としか思えない会話を繰り広げている。そして警察官の職質を振り切り、道路を横切る鹿とぶつかるそして、この自動車には死体が乗せられていることが語られる。どうやらこれは「テルマ&ルイーズ」のような切実な女たちのロードムービー的作品なのではないかと期待に胸を膨らませた。
それ故に、死体の正体が人間ではないとわかってからは、何を演劇の推進力として見たらいいのか、わたしはわからなくなった。ハブ十郎や山彦のパワフルな存在感に笑わされながらも、彼女らが旅に出たいと思った切実さがどこにあるのか見えなくなってしまったのだ。その切実さは、次第に いとりんの間にあると明かされるのだが、その明かされ方がセリフに頼っていたことも気になった。
上演としての面白さ、ナンセンスコメディとして見た時の面白さは十分過ぎるほどあったので、審査員賞に推薦したが、作者の渡邉さんが目指したものは、愛情を含んだ友情と自由の獲得の物語ではないだろうかと、わたしは今も疑っている。(皆目見当違いだったら申し訳ない)


Cブロック
・産業医科大学演劇部「宵闇アウトサイド」(文学座賞)

大学のコーラス部の飲み会で、輪から外れた人たち(実は怪異)が店の外の駐車場で語る40分。誰が何を語っているのか、その部分でもっとも興味を惹かれた演劇だった。産業医を目指す産業医科大学演劇部が、マイノリティとして生きることを強いられる人々を隠喩的に取り上げ、彼らの生きられる世界を守ろうとしている。そこに込められたメッセージ現代性を感じた。
特に、ゾンビであることを隠して、消化できない食べ物や酒を吐きながら人間であるかのように振る舞って生きる ひなたというキャラクターが印象的だった。現在、持病があることを隠して働いたり、メンタル不調であることを隠して生きる人々はたくさんいる。ひなたは、そういう人たちを代表しているかのように思えた。そんな彼女をケアするのが、ひなたほど生きづらくはないけれど、マイノリティ性を持つ二人と言うもの、現代の世界の縮図のように思えた。あの明るい店の扉の奥から、もっと多くの人が出てきてくれるような世界になることを願ってやまない。
と、作品には賛同するところが多かったのだが、登場人物の設定など(ひなたは飲食できないけれど肉を食べると腕が再生する?)提示された情報に詰めが甘いところが気になりもした。また講評でも話したが、アルトやテノールなど歌唱パートの設定まであるならば、個人的にはそれぞれの歌声が聴きたかった。


・劇団激男「黄ばみかけの完熟トマト、そこにちょっとのユートピア」(審査員特別賞)

幼稚園児のお遊戯会が、お遊戯会代行サービスを名乗る奇妙な男たちによって破壊されていくところから物語は始まる。この団体は、自分たちが誰かということを、劇団名で明らかにしている。では「激しい男たち」が、客席と共有したいものは何か。わたしが客席から見たのは、呪われたと感じて暴れ、表現に対して疲れている若い男性の姿だった。男として出産され、成長過程で男性の肉体に変化していくことを呪うような作品だと思った。また、見せたいと見せたくないがまだ心の中で同居する過程で、他人とは違う表現方法見つけなければいけないという切迫感も仄みえた。ただ、これは完全に余計なお世話なのだが、自分にかけられた呪いを提示するような方向に突き進んでって、自己憐憫に溺れること上手くなてほしくはない観客の心に爪痕を残す力があるのに、そうなっては勿体無い。この世にあなたたちの居場所はある。洋服の海に隠れなくても、男性性で威嚇しなくても大丈夫だから、あなたたちの砦で、隣にいる人たちと、次に何を表現したいかゆっくり考えてほしい
俳優たちは、肉体をなるべく気持ち悪く使おうと、動きやだれで奮闘していて、作品への真摯さを感じた。ノイズで表される音響や蛍光灯は、俳優や言葉の悲壮感を際立たせていた。
一点、成人が幼稚園児(設定とはいえ)にセクハラ・暴力的な振る舞いをするシーンを観客に見せるなら事前に注意喚起が必要だろうとわたしは思う。その辺りの線引きも上手くなっていってほしい。


・道徳ふあんしー「オートファジー・コメディアン」(審査員賞)

その日に解散してしまう漫才師たちの話。劇中では、二つのことが混じり合うように描かれていた。
①作家が創作をするとき、自分自身をモデルにした話であることがある。そして自分の話の中には、自分の近くにいる他者の存在が入り込んでくる。その結果、他者を物語に登場させてしまう。また物語の中で、大衆にウケるように他者を実際の姿から変形させてしまうこともある。そして登場させたことや変形させたことで、その他者が深く傷つくこともある。
②創作を2名で行うような、距離が近くストレスが大きい状況に陥ったとき、その2名の自他の境界線は非常に危うくなる。どちらかがどちらかの支配下に置かれたり、どちらかがどちらかをコントロールしようとすることもある
この二つは異なる事象だが、どちらも創作をする中で起こり得る、他者を傷つけるような出来事である。創作をする若い人が、この物語を客席に提示するのは、傷を抉るようなところがあったのではないかと思う。
戯曲は、場面転換たびに短いネタが挟まるという構成を取っていて、時間経過のスピードが早く、また見せ方がうまかった。俳優たちは自分たちの役割を理解して担い好演。劇団の解散公演だからか、今回のラインナップで唯一、ラストに舞台から客席へと俳優が去っていき、舞台が空になるという演出をとっていた。空の空間に、自分たちの永遠を刻むのだという思い入れの深さ感じた。