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レビュー

審査員講評 長谷川孝治 氏

長谷川顔写真2

全国学生演劇祭の方々へ

 誰かが必要だと感じ、演劇に対する疑義や希望を持っている者が自身を広げて誰かに問いかけ、また問われる。そのような場を作り、続けることの心意気に共感します。願わくば、多様性こそ最上の価値であるということを何度も確認しつつまた次のステージへ向かうことを願ってやみません。

 

 

  • 劇団宴夢

 コントでやれることを演劇でやる必要はない筈だ。エンターテインメントは観客をすぐに捕まえるが、観客はすぐに忘れてしまう。そもそも笑っているそばからいま何が起きているのかをしっかりと確認してはいない。目の前を何かおかしいものが通り過ぎていくだけである。それでいいのならば何も言うことはないが、香川=うどん、徳島=阿波踊り、高知=龍馬、愛媛=みかんというお決まりは崩した方がいいのではないだろうか。

 単純化、ヤンキー的なイケイケはすぐに大きなものに取り込まれてしまう。支配する側の一番嫌なことは多様性があるということである。

 香川県をうどんで押し切ることに力無く笑いながら、ああテレビだと思ってしまう。テレビに毒は絶対に出せないし、何も演劇がテレビを真似る必要などひとつもないのだ。

 

  • 劇団西―風

 2015「ピントフ」2016「ピントフズ」も見ていたかったと思う。何も起こらない芝居というのは、実は何も起こらないということが起こってしまっているのだが、この芝居は必ずどこかで静かに何かが起こっていて、その部分が全体の何も「起こらない」という主題を支えている。これはかなり高度な演出であるし、斬新さという言葉が即座に陳腐化するくらいに刺激的である。

 ものを食べるのが上手い俳優として時代劇の藤田まことをすぐに思い浮かべるのだけれど、ヘタウマを「確実に創っている俳優」が何人もいる。方法論を持っている劇団は強いし、方法論から見えてくる日本の位相のとらえ方も鋭くなる。おそらくベケットができる学生劇団はここ以外そうそうないのではないだろうか。熱狂とは秘めてられてしかるべきだし、身体的なしなやかさは通常の速度をつくり込むことで強度を担保する。

 様々な影響力を持った作品だった。素晴らしい舞台だった。

 

  • 南山大学演劇部「HI-SECO」企画 

 「愛して欲しかった」という台詞が残る。残るがしかし、愛の内容はなんでしょうかという疑問も残る。

 やっぱ嘘でしょ何もかも、と、パンフレットに書かれてあるが、聖徳太子だって死ぬ間際に「世間虚仮」と看破したのだから、ずっと昔から何もかも嘘だった訳だ。で、演劇はその嘘を必死こいて創る過程にあるわけだ。だから、これはもう人は嘘っこが好きなんだと思うしかない。舞台に上げた瞬間にすべてのそれらしきものはフィクションになる。いかなるリアリズムもリアルとは別物である。リアルでは戦闘でもリアリズムでは衝突になってしまうくらいに人はフィクイションに魅せられている。

 まあしょうがしょうがない、とりあえず死ぬまでは人は嘘と付き合っていくしかない。だから、その嘘の構造を検証していくことこそ演劇が、演劇しかできないことである筈だ。愛という言葉以外で愛の内容を伝えて欲しかった。

 

  • 劇団カマセナイ

 演じている二人にとって舞台は自己実現の場所でしかなかった。リリカルに記憶に浸るのも気持ちはいいだろうがそれだけである。

 よく舞台に出ていた俳優が楽屋に帰ってきて「今日のお客さん、いいよ」という時、大体舞台の出来は良くない。何故なら、俳優が観客と一緒になって芝居を鑑賞してしまうからである。お客さんの笑いを待ってテンポが半歩ズれる。自分の演技を観客として見ていてまた半歩ズれる。そして、どんどん観客は置いていかれることになる。

 残念ながら、未だに舞台が表現の場として成立していないきらいがある。演劇は寺山修司がいうように半分は観客が創るが、まず創る土台は演じる方が準備するのだ。それからはじめて観客との共同作業は始まる。

 

  • 劇団なかゆび

 聴覚には過去があるので論理が成立する。前とは別なことを言っているのならば、それは論理的ではないということになる。一方視覚には論理がない。何故なら、過去は見えないからだ。俳優が「世界外存在」(この台詞には意図された言い淀みや言い直し、寸断はなかった)と言った瞬間から、日本人には措定し難い超越的な存在に関わる演劇に変質していった。

 少し油断すると成立してしまう「意味」を可能な限り排除することで、演劇や劇場や世界や空間の意味を観客に思考させる。たまには観なければならない演劇である。問題はこのような演劇をたまにはやってみるか?ということである。観客に迫った思考のプラクティスが常に自分たちへも帰ってくる。潔い作品だった。

 最後に、映画の中の沈黙と舞台の上での沈黙。かくも舞台上の沈黙が美しいものであることを再確認した。

  

  • 一寸先はパルプンテ

 ダイアローグ(対話)の語源は真理を分け合うことである。プラトンの諸著作はソクラテスを主人公にしながら対話を行う形式を持っている。しかし、ソクラテスの言っていることは「自分は何も知らない」という一点ではなかっただろうか。ソクラテスのアイロニーとは現代人からみると「ヤなヤツ」で済ませてしまう類のものだ。

 人間の外側に超越的な実体、すなわち神や理性といった西洋発のロゴスを据えることに果たして日本人は向いているだろうか、と、先年なくなられた木田元氏は反哲学として問題提起していた。やはり、そのことを考えながら見てしまった。登場人物のネーミングは結構重要なもので、それに引っ張られてしまった観客も少なくはないだろう。

 

  • シラカン

 ミシン台とこうもり傘の幸福な出会いというロートレアモンの惹句がまず漂い、それから現代のダンスシーンのアポリアが逡巡してくる。そして、伏線の張り方が見事だった。「コウノトリだったのか」には誰もが激しく同意しただろう。

 コンテンポラリーダンスが混乱している状況は見ようによっては面白いし、演劇という地平からみるダンスシーンは見逃すことができない。どちらも身体とそのあり方を扱わねばならないジャンルだからだ。ベルギーのピーピング・トムを経験してしまったコンテンポラリーダンスは先鋭と崩壊の場所にいる。一見してやる気がないように見える女優の発声と身振りは意図の有無にかかわらず現在のフォーミングアーツの身体問題に抵触する。それがとても刺激的だった。

 そんな大げさなとは思わないで頂きたいと思う。ローカリティーは常にグローバリティーの一部だし、部分が変わることなしに全体の位相が新たな美を持つことはないのだから。

 

  • 劇団マシカク

 ここまでコテコテにわらかす芝居をやられるともう何も言うことはない。もう行くところまで行ってしまった方がいいだろうと思われる。マルクスの言う閾値である。量はいつか質に転化するかもしれないのだ。

 しかし、絶妙な間合いを会得している3人の俳優は、どのような役柄を演じても巧いのではないだろうか。ヤクザと娼婦の役は稽古の必要がないのと同様に、彼らの間合いはどどのような役柄でもこなすだけの質の高さがあった。

 

  • 岡山大学演劇部

 高校演劇というジャンルがある。教育的配慮のもとに行われる舞台演劇である。そこでは未来は輝き、人間には無限の可能性があり、努力すれば夢は叶うのである。それ以外は教育的な配慮を欠くものであると判断される。しかし、人間には限界があり、努力しても叶わない夢などそこらへんに転がっている。だからといって高校演劇を否定しているのではない。理想を語るのを辞める時、教育は死ぬのだから。

 問題はそこからどうやって脱却していくかである。狡くなれ、汚辱にまみれなければ演劇などできないと言っているのではない。従来の演技論、舞台論を疑うことも必要ではないかという疑義の提示である。

 

  • 幻灯劇場

 ミュージカルではなく、演劇とダンスを融合させるのは難しい。テンポとビートが違うし、ストレートプレイの台詞がロックの流れに乗るまでに時間がかかり、その逆にも時間がかかってしまうからだ。唯一それを避けられるのは台詞をすべて歌にしてしまう「シェルブールの雨傘」方式しかないのではないだろうか。すべての台詞を音楽的に響かせるためには、脚本の台詞がすでに音楽でなくてはならない。つまり、歌詞を書くのである。

 もしもそのような作業がなされていたら、さらに舞台は引き締まった筈である。トリスタン・ツァラの詩が美しいのは、歌だからだと思う。

 

 

長谷川孝治 氏 プロフィール

劇作家・演出家。1978年劇団「弘前劇場」結成。すべての作品の劇作・演出を担当。1996年第1回日本劇作家協会最優秀新人戯曲賞。現在NPO弘前劇場理事長、青森県立美術館舞台芸術総監督。日本国内及びドイツ、韓国、中国での作品上演や演劇ワークショップなどを多数行う。演劇以外に大林宣彦監督の最新映画作品、「この空の花 長岡花火物語」「野のなななのか」の原作を担当。著書に「戯曲集弘前劇場の二つの場所」(太田出版)「弘前劇場の30年」(寿郎社)「さまよえる演劇人」(無明舎出版)他多数。