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レビュー

審査員講評 武田 力 氏

武田力 ※撮影/瀬尾憲司

「なぜ面倒な演劇をわざわざ選ぶのか?」

総評としては、観客をどこに置くのかが不明瞭な作品が多かったように思えます。「自分」を演劇の劇構造を借りて語ることに懸命で、目の前の観客を「いないもの」としてしまう作品が多かった。なぜ劇場に観客は必要なのでしょうか? それはギリシャ悲劇の時代より演劇に求められてきた機能からも明らかですが、テレビやインターネットなど、手軽なメディアで溢れるこの時代にも決められた時間に劇場まで足を運ぶ行為を強いるのが演劇です(いまはオンライン演劇など、様々な手法がありますが、基本的には)。現代の効率主義や利便性に逆行するような、この演劇の手法をわざわざ用いるのなら、その面倒くささを前向きに/無視することなく扱ってもらいたいと素直に思いました。そして、こんな利便性の追求が要請である時代に演劇が為せることは、そうした制約の多い面倒くささに隠されているのではないか。つまり、演劇のそうした面倒くささをわたしは信じているし、そこに現代にも拓ける(もしくは、こんな現代だからこそ拓ける)可能性が隠されていると思っています。

 

さて、それを踏まえて今回、わたしの審査員としての評価軸は、

 

①作品を通じて、観客とどのようなイメージのやり取りを起こそうとしているのか?

 

②大学生である自分がその役を演じることで、観客にどう観られると想像して演劇をつくっているのか?

 

としました。虚構であることを前提に、現実をにじませる演劇において、観客との関係をどう意識的にデザインするのか? その上でどれだけ挑戦的、野心的な試みができているのか? 以下、拝見した順番に講評を記します。

 

 

B-1 北海学園大学演劇研究会「ラブホに忘れ物した」(映像上映)

恋愛にまつわる大学生の内面を描いた作品。端的に、安易なやりとりに安住していると思えた。脚本としても、演出としても、こちらが抱く想像どおりのやりとりに終始している。大学生が大学生を演じているのだからリアリティはあるが、視覚から捕捉するイメージを越えてくることはなかった。それは、安易に意味を重ねすぎているとも言い換えられる。演劇は人間どうしのイメージのやり取りであり、観客が抱くイメージの取り違えも含めて、演出としてデザインを施してほしい。意表を突かれたのは終盤。男女が別れるシーンで、音声を切る演出は良かったと思うが、同じくきちんとデザインしてほしい。意図のない機材トラブルのように見えてしまい、もったいない。

 

B-2 劇団Noble「晩餐」

生と死に接する戦争が日常となる毎日の中で、(いつまでも訪れない誰かを)待つ行為や、(神のいない世界でも)祈ることに言及した作品。「物質的に豊かになった近未来の日本」というト書きから始まるように、少し浮世離れした不思議な感触を時間と空間を演出することで生み出せている。雑味が少なく、綺麗に作品としてまとめられている。冒頭に挙げた「待つ」や「祈る」といったキーワードからも、民俗芸能の視座からこの作品を読み解くこともできそうだが、いずれにせよ、もっと観客との関係性を築く中でイメージを越えてきてほしい。途中に入る「ドンドン」という「儀式のような」やり取りは抽象的ではあるが、だからこそ観客の抱くイメージを飛躍させる可能性があると思えた。民俗芸能は異界へと通じる通路を作るような作業でもある。同じく呪術性を持つ演劇でも別次元へと観客を連れていく作用を起こしてほしい。

 

A-1 ふ「三時間目 死後」

死の世界から現世への蘇りを案内する天使の話。その案内する際には授業の体を取りつつ、テーマパークのガイドのようにも見える。蘇る魂が訪れるたびに何度も繰り返される案内には、虚無感や虚構感が滲む。確かにこの世でも「何者かを演じること」が常に要請されており、そのことに疲れてしまうこともままある。その点、死後の世界を舞台とすることで、現世(いま我々が生きている世界や、そこで現実に生きる演者自身)が遠望より映し出せている。

 

ただ、作・演出・出演をひとりで担う本作は、結局「自分」を描き出しているに過ぎないのではないか、と思えた。作品終盤、死んでいても生きていても同様に苦しく、無になりたい天使は、意に反して神によって転生させられる。「生きたくない、生きたくない」「存在したくありません。消してください、神様」という台詞は切実に響くが、演者自身と重なり過ぎていて、観客の関わる余地が失われてしまった。加えて、舞台空間としては全編を通じて前ツラを使い過ぎていて、劇場を劇場として扱えていない。もちろん、作品は自身から表出されるものであるが、客観性を失ってしまうと、独りよがりにも映ってしまう。独特の着眼点を持たれていると作品を通じて感じられたので、自身をよく見つめ、作品を通じて観客とどう関われるのかを考えていってほしい。

 

A-2 劇団カチコミ「蝋」

好きな女性がいて、その彼女を男友達から奪うため、「高嶺の花結婚相談所」のうだつの上がらない職員に相談する大学生の話。それこそ演劇である必要があるのか? 映像のほうが作風としては合っているのではないか? と思えてしまった。でもそれはそれでよくて、演劇は手段でもあるので、じゃあその演劇という手段をどう扱えるのかを、メンバー間でよく話して合ってみてほしいと思えた。そうすると自ずと今回の審査基準として挙げた①や②について考えることにもなると思う。でも、そんな洒落臭いこと抜きにして、自分たちが理想とする表現へと突っ走っていくのもアリかもしれない。演劇である必要なんかないと思わせる、不思議な魅力が作品にはあった(でもこれは演劇の賞なので、演劇として語ります)。いずれにせよ、良くも悪くもまだ未完成で、ぜひ思うままに走り切って欲しいと思えた。その先に何があるのか、個人的にも楽しみにしたい。

 

D-1 劇団しろちゃん「曲がったハハハハの人々」(映像上映)

自殺と見なされた床屋であった父親の死について、その娘が探偵に調査を依頼する話。…と概要を書いてはみたが、いまだに本作を掴みきれてはいない。床屋の軒先で回るあの3色ポールが本作の象徴であるように(実際、舞台上にもその3色が映し出される)、この作品もグルグルとそれぞれの登場人物が関係しながらも、決して合わさることはなく、いつのまにか物語は進んでいる、かと思いきや物語の入り口に戻っている。その複雑な構造を成立させる力がこの戯曲にはあると思える。しかし、演出の面では物足りなく、戯曲で構成した構造を、演出によって観客と共有したり、拡張したりすることはできていないと思えた。

 

上述した3色ポールで用いられる赤青白色の舞台上の映し出しや、同種のメタファーとして提示したハサミ(決して合わさることのない、永遠のすれ違い)に関する台詞など、アイディアとしては興味深い。その構造に、どう観客を関与させていけるのか? 観ている観客自身が登場人物のひとりであるかのように、この作品に関わらせるにはどうしたら良いのか? 現状の観客に見せる/受容させる演出に対して、こうした発想があっても良いのかもしれない。いずれにせよ、本作は新型コロナウイルス感染拡大の影響で、映像での視聴となった。実際にその劇空間を身を置いていたらどのような印象を持ったのか、とても興味を惹かれたし、そうできなかったことが残念に感じられた。

 

D-2 演劇企画モザイク「大山デブコの犯罪」

寺山修司の『大山デブコの犯罪』を原作とした上演。寺山による初演は1967年で、2022年の日本に生きる大学生がこの戯曲を基にどのような上演をするのか、楽しみだった。寺山は本作を通して現代における「肉体の復権」を目指したという。初演を間近に控えた天井桟敷新聞第一号(1967年5月1日発行)で、寺山はこう述べている。「現代人は、ゆたかな情念を失ってしまったようである。そのことは、とりもなおさずゆたかな肉体の喪失であるともいえる」。

 

寺山による上演から半世紀以上が経過したいま、寺山の言う「ゆたかな情念/ゆたかな肉体を喪失」してきた我々観客を前に、大学生たちが本作を通してどのような肉体を、またそこに紐づいた価値観を見せるのか興味を抱いていた。だが、寺山が本作で提示した劇構造を越えることも、反転させることもなく、批評性のないままに寺山の戯曲を扱ったことは残念だった。もちろん、自分たちが演じて楽しいことは大事だが、50年以上前の日本で寺山が行なった上演を踏まえて、なぜいまこの時代に、大学生である自分たちが、敢えてこの戯曲を演じるのか。そうした解釈を持った上で、観客として立ち会いたかった。

 

C-1 劇団烏龍茶「くだらない」

母の墓がたまたま隣あった3人の若い女性が、その墓前でくだらない会話を交わす。タイトル通りのくだらない話は、でも実は人間が出会うことであったり、大切な人が死ぬこと、そしてどう生き、どう死者を想像するか、ということに繋がっている。とぼけたかんじを演出しつつ、だからこそ人間の深淵を着実に描き出してくる。俳優の3人が自身をそのままに語るでもなく、突拍子もない何者かに成り切ろうとするのでもなく、実社会で大学生として生きる彼女たちにとっても大きいであろう母親という存在を、しかもその存在を死に預けた上で、日常の他愛もないくだらなさとともに語るという構造も秀でている。そして、いずれのイメージもほどよい距離感で以って観客と共有しつつ、観客からイメージを引き出しつつ、やり取りを紡げていた。つまり、観客が関わる余白がきちんと演劇としてデザインされていた。

 

C-2 劇団イン・ノート「賢者会議」

男子女子それぞれのトイレにて交わされる高校生の恋愛の話。完成度が高く、コメディーとしてちゃんと成り立っている。テンション高く物語は展開していくが、それでも俳優それぞれがどう観客に見られるかを想像した上で演技ができている。その意味で、審査基準として挙げた②に関しては評価できる。その一方、同じく審査基準の①から本作を眼差すと、その評価は高くなかった。舞台上で作品がすでに完成されているために、観客の想像が介入する余地があまりなかったと言える。もちろん、戯曲演出ともによく練られているし、飽きることはない。コメディーとして楽しませてもらえた。しかし、なぜ福岡まで来てわたしは劇場の座席に座っているのか、これはテレビなどでも得られる経験なのではないか、とも思えてしまった。

 

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このような評価から、劇団烏龍茶『くだらない』を積極的に推し、劇団イン・ノート『賢者会議』の受賞については反対しなかった。

最後に、賞を与えることが今回のわたしの役目であったので、敢えて優劣をつけたが、いずれの作品も各地で選ばれたに違わぬ、示唆に富んだものだった。演劇はさまざまな価値観を持つ観客が観て、思ったところを語り合う場づくりであるので、作品に対して良い悪いなんて一概には決められない。今回はわたしを含む4人の審査員が各作品を観て、思ったところを語り合ったらこうなったということに過ぎない。なので、今回の結果に一喜一憂することなく、人生を謳歌してもらえたらと思う。

 

 

武田 力 氏 プロフィール

Takeda Riki

演出家、民俗芸能アーカイバー

 

立教大学で教育学を学んだ後、幼稚園での勤務を経て、演劇カンパニー・チェルフィッチュに俳優として参加。欧米を中心に活動するが、東日本大震災を機に演出家に。「警察からの指導」「たこ焼き」「小学校教科書」など日常に身近な物事を素材とし、観客とともに現代を思索する活動を展開する。また、演劇の手法を用いての過疎集落における民俗芸能の復活/継承も手掛ける。

近年はフィリピンの国際演劇祭や中国の美術館で制作を行うなど、アジアに活動を拡げている。2016, 17年度アーツコミッション・ヨコハマ「創造都市横浜における若手芸術家育成助成」、2019年度国際交流基金「アジア・フェローシップ」に選定。九州大学芸術工学部非常勤講師。

 

※撮影:瀬尾憲司