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レビュー

審査員講評 筒井潤 氏

  • 総評

 私は点数をこうつけた。素直にまた観たい作品あるいは団体にまず3点を与え、そこにより優れていると思われた場合に加点した。一方、2点や1点の参加団体に関しては、私が観なくてもいいと思えたからそうした。彼らは私からの評価なんてなくても元気にやっていけるだろう。演劇というジャンルそのものに揺さぶりをかけるような上演があれば5点満点をつけようと考えていたが、それはなかった。

 全体を通して観て、今後の演劇の状況を考えるにあたって重要だと思えるので、演劇ユニットコックピット、劇団サラブレッド、プリンに醤油に関して触れておきたい。私は彼らが彼ら自身の可能性を信じ、とても丁寧に創作した結果としての上演を高く評価しているし、そこに演劇の未来を感じている。地域の創作者が情報・人材・お金が集中する東京に憧れて、地元で東京の演劇の劣化版を創るのではなく、その地域にいるからこそできる創作を彼らは行っていた。地域の方言で喋ったり特産物がネタとして出てきたり、といった表面的なことではない。彼らが住んでいる地域の風土が生み出すリズムや思考、稽古場で起こっていること、そして仲間たちへの信頼をもとに創っている。もちろん彼らだってテレビや映画、インターネットなどから得られた情報からも影響を受けているはずなのだが、東京発の演劇の文脈とは異なる時空間が舞台上に確かにある。それは単に演劇の上演であるだけでなく、文化人類学的視点で捉えることも可能だ。地方創生だナンダカンダと言われているが、実際には東京とその周辺に人口の一極集中がますます顕著となってきている。一方、高校野球マニアは注目選手を観るために他地域からわざわざ地方大会にも足を運ぶ。LCCなどの影響で交通費が安くなったことだし、同様のことが演劇でも起これば、演劇鑑賞ついでに観光する、という関係が各地域間に生まれ、舞台芸術環境はより奥行きの深いものとなるのではないだろうか。こういった潮流の布石として考えた場合、全国学生演劇祭の意義はあまりにも大きいと思う。

 

  • 劇団未踏座(1)

 どうして新作を提出したのだろう。次々とアイデアが生まれ、とにかくそれを上演したいという焦りにも近い感情に任せて実施したという印象があった。ただ実施することとイメージを実現することは意味が全然ちがう。昨今は若い創作者でも手堅く地道に同じ作品と長く付き合う人が多くなってきていて、それが良い結果を生んでいるケースが多く見受けられるのも、この演劇祭で再演が求められている理由なのではないだろうか。

 

  • 演劇ユニットコックピット(3)

 決して器用ではない俳優たちが、無理に器用であろうとせず、落ち着いた捌きで登場人物の体温と感情を紡ぎだす様に私は甚く関心した。彼らは稽古場での呼吸と劇場の時間を完全に信頼している。演出上の問題で死者の扱いがどういうことになっているのかがいまひとつ掴みきれなかったが、それが作品の評価を下げる決定的な欠点にはならなかった。そのことについて考えるのも、この作品の鑑賞のポイントかもしれないとさえ思えた。

 

  • poco a poco(3)

 台詞のセンスが抜群に良くてうっとりした。日常会話の中の書落としがちな微妙なニュアンスをうまく活字化した脚本、それを舞台上に過不足なく現出させ、観客を大いに沸かせた俳優の力量は素直に評価する。ただ、その台詞のセンスだけで上演を保たせたという印象は拭えない。ここ止まりなら、佐口さんでなくてもいつか誰かがやってくれる仕事だ。このセンスの持ち主であれば、もっと複雑な人情の機微を捉えられるに違いない。

 

  • 劇団しろちゃん(2)

 わかりやすさは、わかりやすいからこそ観客に先読みされる。そこに至っていない箇所もはっきりとバレてしまう。音楽のようなテンポの良さを志していた。素直になれない人間(関係)をメルヘンチックなテイストを塗しながら描こうとしていた。しかしそのどちらも、俳優がそこにいるという実際の出来事が邪魔していた。俳優が悪いと言っているわけではない。そこに俳優がいるということをみんなが忘れていたのではないか。

 

  • 劇団サラブレッド(4)

 冒頭のダンスが始まって、それが計算なのか本気なのかで全てが決まると思ってダンスが終わるのを待ち、計算だったことがわかった時点で何が起きても信頼しようという気になった。「dis-communication」ってそんな意味だったろうかと思いながらも、そんなことはもうどうでもよく、心底楽しんだ。描かれていることが典型的過ぎるが、典型的だからこそ伝わる面白さがあった。とにかく清々しい上演だった。

 

  • 劇団ACT(4)

 生きている人間の背景がきちんと存在する作品だった。背景を描くために登場人物を行動させているわけでもない。そしてその背景は観る者を包み込んだ。鳴り続ける音楽に批判もあったが、あそこまで本当に鳴り続けていると、音楽が止まったときへの期待が膨らむ。しかしその瞬間に配慮があまりないと感じ、惜しいと思った。…彼らへの評価は少し悩んだ。全国学生演劇祭という場における評価軸で計って良いものかどうか。

 

  • かまとと小町(1)

 彼女たちは文脈が違うように思えた。“関西ローカル”というメディアを目指しているのではないか。テレビに出ている彼女たちを週末の昼間にきつねうどんをすすりながら観る日も近いかもしれない。と、大阪に住む私が彼女たちの出場を冗談めかして言うのは愛ゆえのユーモアだが、いかにも大阪らしいとする声を他所から聞くと正直困惑する。どのような審査を経てここに来たのだろうか。違う場所で彼女たちと会いたかった。

 

  • 創像工房 in front of.(1)

 プロレスという虚構の世界のリングに現実的な暴力を持ち込まれ打ちのめされた主人公が、神を信じる心でめでたく復活したという話だが、再びリングに上がって対決しても結局同じことが繰り返されるのではないだろうか。また、何があっても神を信じるという心の奥底に敵対者への憎しみはなかったのか。あったにしろなかったにしろ、そこには絶望的な現実を見るしかないのだが、その意図が伝わらない溌剌とした演出だった。

 

  • プリンに醤油(4)

 演出がとにかくハイセンスでお洒落だと思った。多くある演出の方法から自分たちに見合うものを駆使して、彼ら自身が最も輝く形で上演していた。お互いを深く信頼し合っているこのチームは存在自体が奇跡と言っても言い過ぎではない。ただ、エンディングでいかにもの「演劇」にがんじがらめになった感があり残念だった。演劇の態を成さないと出場できないと思ったのだろうか。だとしたらそれは別の深刻な問題を孕んでいる。