レビュー
- 第9回 – 2024年
- 第8回 – 2023年
- 第7回 – 2022年
- 第6回 – 2021年
- 第5回 – 2020年
- 第4回 – 2019年
- 第3回 – 2018年
- 第2回 – 2017年
- 第1回 – 2016年
- 第0回 – 2015年
審査員講評 山口茜 氏
はりねずみのパジャマ
『楽しみましょう』
オープニングの演出が思わせぶりで素敵でした。ただ、椅子を4 つ横に並べた舞台美術に、
何か意味があるのかなと思いましたが、最後までわかりませんでした。
(今でもわかりません)
台本を読んだ時の不条理な面白さ、思わせぶりとくだらなさ、が、
俳優の肉体を持って立ち上げた時に、完全に消えてしまっています。
例えば女性二人が劇の中盤で、お互いのことを結構下に見ているということが
わかるシーンです。
前もって二人がとても仲良しである、そういう関係が見えてないと本音が見えた時に
面白く感じることができません。道上が友達をレンタルしているという面白さも同じで
「まさかレンタルだったとは」と驚けるほど親密である
という前提があって初めて成立します。
前提の関係性を演出面で整理し表現すれば、
もっと台本の面白いところが伝わったと思います。
車椅子の老人とメイドの存在が最後まで謎で、それはそれで面白いのですが、
サスペンスの面白さに持って行きたいのか、それとも「ただ謎」という
ナンセンスな面白さを立ち上げたいだけなのか、どっちつかずの印象を受けました。
総じて言えることは「伝わってこない」ということです。
伝えたいことは、どれだけ意味がなくても、ナンセンスでも、良いと思います。
ただそれを伝えるにはやはり技術が必要で、
一人でカバーできなくても、俳優と話し合ってどうすれば伝わるかを
試行錯誤する時間を取って欲しかったと思いました。
南山大学演劇部「HI-SECO」企画
『蝉時雨、ある少女の夏』
非常に個別具体的な内容のお芝居を、抽象的な演出でもって
体現しようという意欲が素敵でした。また、正方形の縁を
色々なものに見立てて使ったり、図書館の動きをマイムでやったりと、
舞台美術なしで絵が見えてくる演出も良かったです。
ただ冒頭、夏美と晴太の声が音響に負けてほとんど聞こえない時間がありました。
こういった演出で音楽に台詞がかき消されてしまうのは致命的だと感じました。
また、配役の難を感じました。女性二人が医者や児相職員や父をやるのに比べ、
夏美と母がそれぞれ単独の役だけをやる必要性を感じませんでした。
理由としては夏美の存在意義がないこと。(のちに詳しく述べます)
また、母の想定年齢と演じる方の年齢差の問題、などです。
また、では男性が晴太と父を演じるのは良かったのかというとそれも疑問で、
晴太と父の顔が似ていて、母にとってはもはや同じ人だからということで
一人の男性が演じるのだと思うのですが、それも、アイディアとして面白いのに
消化しきれていない印象を受けました。この話は、夫が母を殺したように見えて、
現実は息子が母を殺したという話に落ち着くのですが、実は物語中では
なぜ息子は母を殺したのかがいまいち説明されていないのです。
ありえないとは思わないのですが説明が少なすぎます。その説明の少なさに加え、
母を殺した男の子に夏美が「今、幸せ?」と聞くことにも違和感がありました。
王道パターンとしては、母が息子を守るために夫を殺したと思ったら、
実はそれは夫でなく息子だった、というあたりでしょうか?
母の精神状態がずっと良くないことが冒頭から明示されているので、
特に説明なく受け入れられるパターンです。王道が良いとは言いませんが、
王道を超える強度のあるアイディアでないと、
カウンターを狙う意味がないかなと思います。夏美の存在意義について、
彼女をどうして人間にしてしまったのかと見終わって思いました。
この話の主人公は明らかに、晴太です。
作家としては、あくまで主人公を照らし出すためだけの存在として
夏美が必要だったのだと思います。その役割に「人間」は不適当だと感じました。
最後に、母と父、息子、のDV シーンや殺人シーンは、私には直視しづらいものでした。
生身の人間が眼の前で演じるという手法と、DV の相性が悪いように思います。
京都のダンスカンパニーで昔本当にお腹を蹴っているパフォーマンスを
見たことがありますが、その威力には勝てません。
例えばもっと本質的なことを表現することはできないでしょうか。
例えば殴られていると、どんどんと感覚が麻痺して行って、その痛みに耐えるために、
どんどん心と体が乖離していきます。その様子を演出できないでしょうか。
あるいは、等身大の人形をボコボコにするなど。あくまでも観客には目をそらさず
「見て欲しい」わけなので、目をそらせるような手段を取るのは得策ではないと感じました。
fwtp(フワトピ)
『Dreamy Null Another』
台本を読んだ段階では、これは相当難しいぞと思いました。
話される内容がほぼ抽象的で、手触りのあるやりとりがほとんどないのです。
それでも台詞にインパクトがあれば良いのですが、
それ自体は割とあっさりしたものが続き、端的に言えば
テキスト面では「感情」というものを取り扱っていない印象を受けました。
ただ実際に舞台を見ると、演出が非常によく練られていて、
ショーとしてはかなりの部分が演出にフォローされていました。
俳優たちの身体は的確に制御されており、衣装や舞台美術もテキストの世界観とも
よく合っていたと思います。むしろこれがやりたくて、テキストを書いたのかな?
という印象を受けました。だとしたら今回の大会にはそぐわなかったかもしれませんが、
既成の台本、すでに評価の定まっている台本を取り扱ってみても
良かったのかなと思いました。あるいは別の作家に執筆を頼むこともできたと思います。
ここで余談ですが「演出のしやすいテキストを書く」というのは
どういうことなのでしょうか。
これはあくまで想像で、フワトビさんがそうだと断定しているわけではないので
ご注意いただきたいのですが、もし時間があればフワトビさんも他の団体さんも、
一度、台本と演出、その順序について考えを巡らせていただければと思います。
演劇を作るのに、スタートのルールはないと思います。あの俳優に惚れた、
この演出を真似してみたい、あの小説を舞台化してみたい。色々と動機はあると思うのですが、
そのときに動いているものは何か、というと、それは自分の感情だと思うのです。
自分の感情を揺さぶってきた何かを、自分も作ってみたい、と思ったなら、
やっぱりそれは自分がそうだったように、客席にいる誰かの感情に
干渉していく覚悟が必要です。必ずしもそれは涙を誘ったり大笑いさせたりする必要はなくて、
ちょっとしたワクワクとかも全て「感情の揺れ」と言えます。
演劇を演劇たらしめるものは「観客」です。
客席のお客さんを含めて演劇はやっと完成です。その辺りまで想像して
創作できると良いなと思いました。
劇団ひとみしり
『りかちゃん』
終始ガチャガチャと忙しく動き、楽しませながらも、
うっすらと浮かび上がってくる儚いもの、というか、絶望的なもの?
要するに楽しさとは真逆のもの、というのが、テキストにも舞台上にも確かにありました。
大量のテキストを猛スピートで消化する。何度も何度も同じシーンを繰り返す、
それでもなぜか面白く見続けられるという点で、圧倒的でした。ただ「雑という面白さ」に
頼りすぎていて、大事にするべきところまで雑に流れている印象を受けたのも確かです。
でもきっと、その「大事にすべき」というのは、私がそう思っているだけで、作家や演出家は
意図的に雑に扱ったのだとしたら、それは成功していました。
それがこの作家の手触りだという意味で、です。終始漂うルサンチマンな空気が、
私のルサンチマンな部分を刺激して、最初本を読んだ時はちょっとイラッとしました。
それは演出が施された舞台を見ても同じだったのですが、自分の息子がこれを作ったと
思い直して舞台を見つめてみました。するとどんどん愛おしくなってきたのです。
なるほど、私は可愛い女の子たちが
楽しそうに舞台上で輝いていることに嫉妬していたのです。恥ずかしながら。
未だにどうやってあの台本を書いたのか、どうやってあの演出をつけたのか、
私には想像が及びません。それが才能なんだと思います。
睡眠時間
『◎』
まず上演台本が優れていると思いました。本質的な台詞と、個別具体的な台詞、人間関係が
バランスよく配置されている台本で非常にレベルが高いと思いました。
ああいう台本を書けるということは、作家の中にかなりの蓄積
(それは本でも漫画でも体験でもなんでも良いのですが)があるように思います。
本の時点であれだけ完成していれば、そのあとはどうであろうが時間なんてあっという間に
過ぎて行くんだなと思った40分でした。実際には俳優さんたちも十分、
魅力的だったのですが、仮にとても下手でも成立したんじゃないかと想像しました。
お話には妊婦さんが登場するのですが、なんとその妊婦さん、
この40分の間に妊娠がわかり、陣痛がおき、出産までしてしまうのですが、
その間に一度も妊婦である私は「そんなわけあるかーい」と思わなかったのです。
それって実は当たり前のようでそうでもなくて、
その辺りがやはり台本と俳優の力なんだなと思いました。
体験していないことでも作家は書けるし俳優は演じることができる。
改めてそれを認識しました(体験してたらごめんなさい)
あえて言うなら、演出はもっともっとこれから磨かれていくのかなと思います。
風呂のシーン、走るシーンなど、公園の二つのベンチと同じところで
やらざるをえなかったのは、コンクールというたくさんの制約がある中で
仕方がなかったのかもしれませんが、できればその制約を逆手に取って
演出して欲しかったと思います。今後、一度でも良いので全然性質の違う演出家に
台本を上演してもらったら、さらに自身の台本の奥行きに驚くことになるかと思います。
デンコラ
『幻によろしく』
台本を読んだ時点では、ねるとん紅鯨団世代の私は「ちょっと待った」オチが懐かしく、
なんて(良い意味で)無駄な前半部分だったんだ、と好意的に受け止めていました。
ただそれが舞台化された時に、オチに消化しきれてなかったのがとても残念でした。
台本、演出、俳優、ネタ、それらが全部机上に並べられているだけで、
有機的に絡み合ってそれ以上のものになっていない印象を受けました。
例えば主人公のビニ男に中茂さんを据えたことは面白いと思いました。
友達の役で出ていた佐藤さんも柾明日花さんも人としてとても魅力的でした。
でもそれぞれがそれぞれのキャラを一人で立たせているだけで、
お互いを生かしていないストレスがありました。そういうことが、
全てのキャラクターの間で起きていたように思います。
人間は、一人きりで演じることもできますが、共演者がいるのであれば、彼女ら、彼らと
手を携えどのようにその場を作っていくか、ということにチャレンジしても
良かったのかなと思います。舞台美術にしても、試行錯誤の跡が見られません。
例えばすごく適当で雑に見える選択が、ものすごく魅力的に感じられることがあります。
でもそれは、外にそう見えているだけで、実は無数にある選択肢の中で、
最適の一つを選び出す、という作業を行っているのだと思います。
そういった一つ一つの細部へのこだわりが、立体的なうねりを生み出します。
そこまでして作ってきたものが、「ちょっと待った」という非常に矮小なオチに
まとめられてしまうさまを見てみたかったです。店長の描き方については
講評会でも大変厳しく伝えてしまいましたが、自分が知らないマイノリティのことについて、
ぜひ積極的に興味を持って欲しいと思います。
でいどり
『ありふれた白に至るまでの青』
台本を読んだ時は面白いと感じました。ト書きに「彼、形を失い始める」などとあって、
これどうやって演出するのかな、という興味が湧いてくる台本でした。
実際に演出された作品を見ると、整理されていないということで混乱している状態が
伝わってはくるのですが、それが観客に届かない感じがありました。
例えば俳優同士が向き合って喋らないこと、あるいは紙袋を被ってしまうことで
対話が不成立になってしまうこと。ちょっとしたことで観客は置いてけぼりになります。
また、音楽が流れると全く声が聞こえなくなる瞬間が結構あって、それも残念でした。
ただ、演出家が台本を読んだときに受け取ったノイズを精一杯表現しようとした爪痕は
確かに残っていました。主人公の女性は、台本通りこのまま結婚すると
産後うつになるんだろうなと思いました。自殺するか、子供を殺すか、どちらにしても
ろくな結末が見えない。それでも結婚しちゃう。
観客は、手を伸ばせば助け出せそうな距離にいる生身の男女が、
ブラックホールに吸い込まれていくのをただただ見つめるしかない。
これはホラーという意味でとても有効で、同時にリアルでした。誰も殺人に至ると確信して
結婚する人なんていないですもんね。実は最初はちょっと厳しめの点数をつけました。
ところが他の審査員が次々に良い点数をつけていくのです。それで気がつきました。
私は近親憎悪でこの作品をダメだと言っている可能性があるということに、です。
そして同時に、この作家の苦悩を見過ごせないと強く感じておられる審査員が
複数おられたことに、私はとても嬉しくなりました。じめじめした女の苦悩を
ストイックな演出で見せられるなんてたまったもんじゃないよ、もっと観客を楽しませろよ、
という無言の圧力に20年間さらされてきた私としては、画期的だと思いました。
本当は楽しいだけじゃダメなんです。少なくとも抑圧されている者たちの声は、
心地よくなくてもちゃんと届けなきゃいけないし、受け取らなきゃいけないんです。
それをわかっておられる審査員の方々に、私は間接的ながらとても励まされました。
でもこんな特異な方々はまだまだ多くはありません。もし演劇を続けられるなら、
作家さんも演出家さんも、自分たちの作品を、演劇的手法を使ってどうやって届けていくか、
試行錯誤を続けて欲しいと思います。
遊楽頂
『ヒトリ善がり』
台本も演出も俳優も、これが面白い!と信じる、ぶれない強さを感じました。
俳優個人個人が皆、魅力的で精力的で体も使えて、とても素敵でした。
8団体の中で一番、音響のボリュームが観客に適切に配慮されていたと思います。
映像や小道具などの使い方も、非常に効果的で、そういった隅々まで行き届いた
おもてなし感というか、要するに演出力なのですが、それが群を抜いていました。
ただ手の内が少ないというか、知っているものが少ないような印象を受けたのも確かです。
特に演技と映像について、それを感じました。少人数で、劇場の隅々までパワーを届けたい、
という気持ちはわかるのですが、その俳優としての気持ちだけが伝わってきて、
実際にはドラマがそこで生まれていないというストレスがありました。
それが「わざと」なら良いのですが
(もちろんわざとならなぜわざとドラマをなくしたのかがわかる必要がありますが)
どうもそうは思えませんでした。例えば演技で言えば、葛藤している「という演技」、
喜んでいる「という演技」、怒っている、落ち込んでいる「という演技」を
その時その時、瞬間的に繰り出しているように見えました。
映像も、なぜそれを選んでいるか、ということがだんだんと「わかってきてしまう」。
すると早々に飽きる。観客としては「わからなくても何かあるのだろう」ということで
見続けられると言うことがあると思うのです。特に映像というポジションでは
それを実現しやすいのかと思います。
また、葛藤といえば、「実は薬を飲まされ何度もリセットされていた」という物語の構造上、
主人公の中で葛藤が積み重なっていかないのは仕方がないのですが、
その構造上の致命的なデメリットを作家や演出家が自覚して逆に活用するというところまで
いかなかったせいか、40分がやや冗長にも感じました。
もっといろんな演劇を観るチャンスがあると思うので、
ぜひにじみ出るほど貯めまくって欲しいと思います。