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企画

審査員講評 熊井 玲 氏

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劇団宴夢「ルーモ1.255」

 

ビックバンのような幕開け。薄暗闇の中で2人の登場人物が数字で声を掛け合う。その掛け合いがやがて言葉へ、そして仕草としてのキャッチボールへと展開し、バレーボールをしたり、望遠鏡で宇宙を見たりと空間を広げていく様にワクワクした。そんなはるか遠くへと思いを馳せる一方で、遠くに行けない、一緒にいることもできない自分たちの現状に直面し、やがて「一緒に進もう!」と思いを変化させていく──。作家の卑近で具体的な状況設定に依ることなく、コロナ禍における人の気持ちの揺れを大きく描きだそうとしたところは、非常にチャレンジング。ただ、冒頭の抽象的な世界観が、途中でどんどん具体的になっていくことで、俳優たちが一体どういう存在なのか、彼らが人なのか、あるいは人ではない何かなのかがわからなくなってしまった。また描こうとしている世界観に対して上演時間が20分程度と短かったので、徹底して抽象性を貫き、俳優たちの身体と距離感、照明の変化だけで劇世界を描く、というアプローチもあったかもしれない、そういう「ルーモ1.255」も観てみたいと思った。

 

 

 

ポケット企画「ここにいて」

 

舞台の中央に四角い布か紙のようなものが敷かれ、その中央で女性が1人、何かを見つめながら座っている。女性が見ているものは臍の緒。何やら締め切りに追われているらしきその女性は、臍の緒は母親のものか、子供のものか、と傍にいるもう1人の女性に話しかける。劇中では特に語られないが、台本によれば2人は卒業を目前に控えた美大生で、2人は“作品を生むこと”“これからの進路”について語りつつ、やがて子供を産むこと、自分とは何かということへと思いを巡らせていく。キーボードの生演奏や俳優の“足あと”で作る舞台美術など、ライブ感を生かした演出に取り組み、積極的に演劇のフィールドで遊ぼうとしていたのが本作の特徴の1つ。また台本で読む限りは明らかに友人関係の2人が、上演で観ると母と娘、妊婦と胎児、あるいは自分ともう1人の自分の対話のようにも見えたところに大きな可能性を感じた。しかしだからこそその点は、もっと演劇の力、観客の想像力に委ねて、現実から飛躍しても面白かったのではないかと思う。

 

 

ごじゃりまる。「こうふく♡みたらしだんご」

 

たった40分程度の時間に、よくぞここまで、というような多くのエピソードを盛り込み、序盤のテンションを最後まで貫いたのがごじゃりまる。だ。本作は、根本フウカを主人公とするアニメ「みたらしだんger」の最終回、という大枠の中で語られる。何にでも頑張りすぎるアヤネは、寝食を忘れて会社のために大奮闘。しかし会社の闇を知り、それを暴いていき……というベースストーリーはあるものの、あまりにいろいろな事件が起きるので、途中からストーリーラインを追うことよりも、1つひとつのエピソードの顛末や次々と変わる人間関係を楽しんで観た。ごじゃりまる。の大きな魅力は一貫したテンションの高さとスピード感だ。しかしその一貫性がゆえに単調さを感じたのも事実で、この狂騒的な物語の深層に、登場人物たちのどんな“業”が潜んでいるのかが描かれるとさらに良かった。また激しい動きと聞き取りやすい発声の両立には技術も必要で、身体の使い方やセリフの言い回しなど、俳優の鍛錬が加われば、作品の魅力が増すのではないだろうか。

 

 

 

ゆとりユーティリティ「満塁デストロイ」

 

参加9団体中、もっとも奇想天外、かつ無謀なチャレンジに挑んだのが本作だ。将来を嘱望される人気野球選手、半神シャークスの4番・鮫島と、上司に叱られてばかりのサラリーマン・山田が、あるとき道端で正面衝突。するとなぜか鮫島は山田の右手に“サメ”として入り込んでしまい、2人は行動を共にすることになり……という設定からして非常にユニーク。さらに後半、登場人物がますます増えていくこの物語を、約45分の一人芝居として上演しようというのだから、演じきった俳優に拍手だ。劇中、イマジネーションがどんどん膨らんでいく様はよくできた新作落語を聞いているようで、展開の面白さに引き込まれた。気になったのは暗転の多さで、シーンの区切り方には暗転以外にもう少しバリエーションがあってもよかったのでは。また(状況として致し方ないのだが)この作品こそ、俳優の疲労していく身体、声の繊細な使い分けなどをオンラインでなく客席で観たかった。

 

 

 

あたらよ「会話劇」

 

舞台上に3箇所照明が当てられ、その光の縄の中に、セックスフレンドの男女、恋人関係の男女、そして1人の男の姿が浮かび上がる。彼らはトランプやジェンガ、ドミノをしながら、恋について、あるいは日常の退屈さや自分の“欲”について語り始めるのだが、その言葉は誰かに届けようというより、SNSに書かれた独り言のように、発した瞬間に空中分解していくような不確かさを孕んでいる。語られる言葉はステレオタイプで難解さはひとつもないのだが、行為と感情、感情と言葉の間にできた溝の中に、届かない思いが沈んでいく感覚を綴ろうとしていくところがスリリングだ。

今回の参加団体のうち、あたらよが唯一、言葉への不信感を持って言葉を描いていたのではないか。また、多くの団体が、世代を問わない普遍的な感覚に寄っていく作風だったのに対して、言葉に対するこの乾いた感覚は、二十代の彼らだからこそのリアルなのかもしれない。そもそもこの作品のタイトルが「会話劇」だというところに、彼らの言語センスが表れている。

 

 

 

おちゃめインパクト「キャベツ」

 

ほとんどの団体がブラックボックスか、抽象的な空間で上演している中、おちゃめインパクトは、リビングのようなテーブルと椅子のある、具象的な空間を選択。大学生のハルはある理由で実家に帰省するが、実家では姉と、なぜか従姉妹が暮らしていた。久しぶりに会った3人は他愛無い会話を繰り広げるが、実はそれぞれに、会社でのセクハラや将来に対する不安など、人に言えない思いを抱いていて……。序盤の呑気な会話とは裏腹に、シリアスな問題が明らかになるストーリー展開、「キャベツ」というシンプルなタイトルの意味がワッとクリアになる瞬間と、意外性のインパクトが連続し、最後まで引き込まれた(という点で、ユニット名に偽りなし!)。大団円というわけではないのに観劇後の爽快感は随一で、そこには俳優3人の魅力が大きく関係している。気になったのは、テーブルを挟んでの対話が多く、空間を使い切っているとは言い難かったこと。空間の見せ方にはまだ検討の余地がある。

 

 

 

東北連合「深夜、パーソナリティが消えた。」

 

暗闇の中から、小さなテーブルに向かって、原稿を読み上げる声が聞こえてくる。ラジオパーソナリティのようであるが、そこはスタジオではなく、「いかにも」な一人暮らしの部屋。主人公の山瀬は、大学生活を謳歌できずにいる自分の話を夜な夜な1人、自嘲気味に語っているのだった。そこへ男のファンだという隣りの部屋の長谷川が訪ねてきて……。発信されないラジオ、深夜の来訪者とスリリングな要素がそろい、次はどうなるのかと展開の面白さに引き込まれる。ただ、こちらの想像ほどには物語がスリリングな方には走らず、同志かと思った長谷川が、実は自分がもっとも嫌いな“リア充”大学生だった、というところで話が終わってしまったのは少々残念だった。もっと現実から離れた展開も、十分できる下地があったと思う。その一方で、他人だったはずの2人が急速に距離を縮めていくときのスピード感、長谷川に失望し山瀬がトーンダウンしていく様子はビビッドで、演出の力を感じた。

 

 

 

劇団Noble「灯火は遥か」

 

音と照明による演出で一際目を引いたのが、劇団Nobleだ。電車に揺られている少女と青年が、現実から水中、宇宙、過去、未来と遠くへ思いを馳せていく様が、さまざまなシーンのパッチワークで描かれる。劇中、中島敦「山月記」や宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、川端康成「雪国」、カフカ「変身」など多数の小説からの引用が挿入され、それぞれ瞬間的に強烈なインパクトを与えるが、ベースとなる少女と青年の物語の引力が弱く、冒頭からラストへの大きなうねりが感じにくかった。また異なる作家の異なる文体を並べつつも、音と照明のバリエーションに比べて、セリフの発し方や空間の使い方などに大きな変化がなく、全体的に単調な印象だったのは否めない。例えばセリフのない身体と照明だけで空間を満たすシーンを作ったり、各文体が与える印象の違いをラップや動きを封じることで感じさせるなど、演出面で魅せることができれば、劇中にもっとドラマを感じることができたのではないか。

 

 

 

ふしこ「木青屋服呉」

 

今回の参加作品の中で、まったく毛色が違ったのが、ふしこ。何もない空間に和装の女性が1人現れ、行燈を灯すことでそこを一瞬で劇空間に変えた。舞台には3枚の座布団を並べられ、女たち3人が他愛無い会話を繰り広げる。話の端々から、3人が呉服屋の女将と女中、そして貿易商という関係性であること、女中の奉公がそろそろ終わること、呉服屋の主人が最近、どうも人が変わったようであることが見えてきて……。衣装や口調から少し前の時代の話かと思って見始めたが、作品の設定自体には最後まで確証が得られなかった。設定が必ずしも重要だとは思わないが、本作においては、例えば劇中に現れない“妻の洋装を好まない厳格な夫”と女将の関係性を想像する上で、女性たちが社会的にどんな立場に置かれているのかが想像できたほうが、より作品世界を広げたのでないだろうか。また作品全体のそこはかとない印象に合わせ、「最近様子の変わった夫が実は狐である」というオチをセリフで語らず、演出で“匂わせる”手もあったのではないか、と思う。