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第2回全国学生演劇祭 結果

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の報告

2017.3.1

2017年2月24日〜27日まで開催されました、第2回全国学生演劇祭の結果をお伝えします。

各受賞団体と、観客投票のそれぞれの平均点を掲載します。審査員からの講評については、3名の講評が出揃いましたらこちらにも掲載させていただきます。

 

大賞

シラカン(東京代表・多摩美術大学)

「永遠とわとは」 脚本/演出 西岳

第二回全国学生演劇祭ゲネプロ写真_170224_0016

撮影:脇田友

 

観客賞

シラカン(東京代表・多摩美術大学)

「永遠とわとは」 脚本/演出 西岳

 

審査員賞

シラカン(東京代表・多摩美術大学)

「永遠とわとは」 脚本/演出 西岳

 

劇団西一風(京都代表・立命館大学)

「ピントフ™️」 脚本/演出 福井裕孝

第二回全国学生演劇祭ゲネプロ写真_170224_0018

撮影:脇田友

 

劇団なかゆび(京都代表・同志社大学)

「45分間」 脚本/演出 神田真直

第二回全国学生演劇祭ゲネプロ写真_170224_0011

撮影:脇田友

 

  • 観客投票 結果

第2回全国学生演劇祭、観客投票の平均点になります。
※小数点3位以下 四捨五入
※一寸先はパルプンテと劇団マシカクは、小数点4位以下 四捨五入
※(  )内は、ペナルティによって減点されている数値です。

 

Aブロック
劇団宴夢 3.43
劇団西一風 3.2
ハイセコ企画 3.07
劇団カマセナイ 3.44

 

Bブロック
劇団なかゆび 2.76
一寸先はパルプンテ 3.645
シラカン 4.45

 

Cブロック
劇団マシカク 3.636
岡山大学演劇部 2.44(0.4)
幻灯劇場 4.06(0.3)

観劇レポート 村木みたかさん

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2017.3.2

村木みたかさん

東京で小劇場の制作業務とかやってます。
高校生の頃から小劇場界にハマり、大学生の頃には生意気にもプロのスタッフを名乗って、それ以来、未だにこの世界から20年以上卒業が出来ていないどうしようもない人です(笑)
全国から色々な才能を持った人たちが集まるこの学生演劇祭は、普段、東京スタイルに毒されている私にとっては、新鮮だったり、目から鱗だったりという事も多く、とても楽しみに見れるだけでなく、大変勉強になることも多く、全編見せていただいた甲斐がありました。

10作品全部見るとお尻が痛くてしょうがない椅子は来年は改善の課題ですね(笑)

観劇日2月25日(土)

 


午前Cブロック

  • 劇団マシカク 自憂空間

狭いシェアルームで繰り広げられる、全米が震撼して泣くような広大なスケールなんだけど、たった3人だけのお話。
名前より、着ているちょっと不思議な衣装の色で、呼んでる名前より、真面目な青君、熱血な緑くん、心は乙女?な黄色くんと呼ぶほうがしっくりくる、見るからに分かり易いキャラクターさん達がそれなりに広い舞台を、とても狭そうにうまく演じています。

冒頭、いきなり不条理系の不思議な芝居が始まるのか!と思いきや、彼らが日常繰り広げている迫真に迫る「ゴッコ」ゲームから始まる、なんでもアリの空間で、就活の悩みを抱えつつ、この先の漠然とした不安と、各自それぞれ複雑な恋心を抱え込んだ3人の感情が大爆発状態で繰り広げられるあっという間の45分です。

その昔確立された、アニメや漫画の世界を借りてきて、すごい勢いでバンバン、シチュエーションコントにしてしまう技法も、個人的にはそろそろ飽きてはいるのですが、安定のクオリティーは出せてはいるので、まあ安心して楽しめました。音楽や効果音のキッカケが絶妙で巧く、素敵を越してカッコイイ!レベルに仕上がってますね。

ここまで話が暴走したら、もう収集がつかないレベルになってしまうところですが、そこは安心して納得できる安定のオチもしっかりあって、演劇というより、長編コント芝居としても楽しめますね。就活を抱えた、共同生活を送る男子のフクザツなキモチを体験するのはちょっと面白いです。

今回、デビューしていきなり解散との事ですが、一発屋的なこういうスタイルやり逃げではなく、毎回安定のクオリティーでこの世界観を深めて行けたら素敵なのになあとも感じました。
今回のこれだと、勢いと感覚で仕上げたのか、実力として作り上げてきたのかが、ちょっとわかりにくいところはあります。

 

  • 岡山大学演劇部 山田次郎物語

尖っていて実験的で挑戦的な作品が多い中で、ある意味正統派な作風の作品という印象の、山田次郎を軸に、周りを取り巻く世界が繋がっているという、心がホッコリするお話。

良くも悪くも高校演劇路線の延長のようなスタイルで通しているので、商業演劇や東京の小劇場みたいなのが好きな人からすると、ちょっと系統が違うので評価が分かれるかもしれません。

11人の登場人物が、セットとして振舞ったりして、全くセットを使わないマイムパフォーマンスで全編を演じるのはなかなか見所がありますが、キレとかストップモーションの美しさを追求するほどの練習時間はなかなか取れなかったのかもしれません。

壮大なテーマはなかなか見所があり、あえて繰り返される営みで出てくるセリフとか結構重みがあって良い感じですが、全体的に動きのキレとか転換とかがもっとメリハリ効いていたら、とてつもない長さの時間に流されていく山田次郎の人生がもっと深みのあるものとして出せたんじゃないかなあ。とか感じました。

壮大な時間の流れと人生の重さをしっかり出して行けるかが結構重要なポイントになりますが、全員同じ20代前半の出演者さんだけで、子供から老人までの広い幅を演じるのは実は結構大変なことなので、そういう事を考えると学生演劇って、年齢の幅を欲張って大きく取らない作品の方がまとめやすく、評価も得られやすい傾向が出てきてしまうと思うのですが、そこをあえて挑戦したところには心意気を感じます。

音楽も思い入れたっぷりに選曲したのだと思いますが、音響操作が雑だったり技量が低いと台無しになってしまう例のようになってしまっていたのが、ちょっと残念でした。
出演者全員が本当に楽しそうに演じていたのは印象的で、学生を卒業してもライフワークとしてずっと演劇を続けて欲しいと思います。

 

  • 幻灯劇場 DADA

おおお、久々に見たアングラ系!近頃こういうのはすっかり減ってしまっていますが、今の時代にマッチするようにアチコチがモダンになっていて、こういうの初心者でも拒絶反応を起こさず、楽しく見ることができる構成力がステキです。

本番が始まる前のセッティング中から、何やら怪しさ全開のオブジェや、要塞のように組み上げられる、生演奏エレキギターのエリアなど期待が高まってしまいます。そしてこのギターのみの生演奏による音楽と効果音がすごくイケてます。プレイヤー(音楽担当演者というのかしら?)の、演奏しながら陶酔しきった顔とか、演技かもしれませんがもうお約束って感じでとっても痺れます。

内容はもう、さっぱり訳解らない系に分類されるように思いますが、キーワードとしてのオブジェや名前などがうまく気になるように散りばめられていて、一晩寝て思い起こしてみたら、支離滅裂で訳わからない話ではありますが、見てる最中は勢いと雰囲気でなんか解らないまま納得させられてしまうパワーを秘めています。

キーワードになるコインロッカーの作りと使い方がなかなか面白く、見ていることらとしてはこの華奢な木造オブジェは3日間無事に壊れず持ちこたえられるのかしら?というところが心配でしたが、下手な美術セットを構築したり散りばめるより効果的に感じました。

45分という、一本まとめるにはなかなか大変な短い尺の中で、破綻したり尻切れトンボにならずに、それなりに見せてくれる構成力や演技力は素晴らしかったです。
なんか目の下にクマのメイクした変な人たちが踊ったり襲ってきたりするけど、そういうの一々意味とか考えないで、そういうものだと思って浸りきって見ると、嘗ての寺山的な世界の気分をちょっとだけ味わえるかもしれませんね。
好き嫌いが分かれる作品だと思いますが、私はこういうの好きです。


午後Bブロック

  • 劇団なかゆび 45分間

意欲作と言えば意欲作。単体で上演するのは、お金を頂いてという上演形式だったら、まずダメでしょこれは。というところにあえて挑んできているので、このようなコンクール形式なら受賞に一番近いポジションを狙えるような作品には感じました。

ただ、審査員から何らかの賞はいただくだろうけど、観客からはだいぶ低い評価しか得られないだろうなというのも瞬時にわかってしまうような出来でもあります。
観客が不快感を示して低評価というのは、それこそ彼らの思うツボですが、そこまで到達せず、ただ残念な演目にしか見えないという危険のほうが多い演技でした。

学生演劇ということで、商業ではなくすごく尖った所を追求している心意気は立派ですが、その割にはセリフや振る舞いが雑すぎて、観客が確実に腹を立てるところまでしっかりコントロール出来ているとはとても思えない演技に、腹が立つのではなく、ちょっと残念な気持ちになります。

だいぶあざとい、わざとらしい構成で始まって、ああこういうのが来たかと思ってしまいましたが、不快感の中に湧く微妙な期待感を感じさせる演技とは程遠く、一本調子のスイッチがオンかオフしかないような底の浅い演技の方が気になってしまってしょうがありません。
そして観客を敵対視している彼に全く優位性が感じられないのです。なので、この作品に興味を示すというのは、見たことない生物が吠えているのを鑑賞するような感覚を覚える人もいるでしょう。

演出の小道具として、座席に座布団を配置して、観客みんなが舞台に座布団を投げ込むぐらいの気持ちにさせてくれたら彼らの勝ちを認めても良いですが、そこまで高揚する気持ちより残念感のほうが大きかったのが正直な気持ちです。
ただし、こういうスタイルをやるという事自体が学生演劇の実験的要素としてはポイントが高いので、こういう作風で作って受賞するのは確信犯的だったのかもしれません。

 

  • 一寸先はパルプンテ 境界

近頃、差別用語や放送禁止用語が自主規制でどんどん増えていっていますが、そういうタブーとは全然関係なく自由奔放にあえて挑発気味にそういう言葉を使って、それなりにエグいところに切り込んで来る姿勢は学生演劇ならではのエッヂが立った感じでなかなか素敵です。

開演前のセッティングでカラフルな養生テープが張り巡らされて、どんな事が起こるのだろうと期待していたら、そんなに深い意味はなく、セットの代わりの色の模様だったというのはちょっと拍子抜け感はありますが、ベタではなく、タイトでキツいスポットを主体とした狭いエリアの照明で、それなりの広さの空間を引き締まった感じでうまく使えていると思いました。

このどこでもない場所、どこでもない時間のような空間は結構昔に流行った感じではありますが、イマドキだと装置やセットを多用するのが流行りになってきているなので、このシンプルさは逆に新鮮に感じました。

そして、共感が得られるかどうかより、しっかりした主張がベクトルがブレることなくストレートに繰り出されてくるパワーに、普段は賛同できない考えでもこれを観劇中は、そういう考えもアリかもという気にさせてくれるだけのパワーはあったと思います。
なので、オムニバスで語られるエピソードは結構エグい物もたくさんありますけど、拒絶反応を起こすようなこともなく、目をそらさずにはいられないという事もなく、それなりにジワジワと入ってきた印象です。

個人的には、一見なんの繋がりもないエピソードのオムニバスをビジュアルイメージで思わせぶりで見せておいて、それが終盤にはどんどん繋がって来て、でも一番最後は色々考える余地を残すと言うような手法は、その昔話題になった、第三舞台を思い出して観ていました。

 

  • シラカン 永遠とわとは

不思議ちゃん達3人が繰り広げる、彼らにとっては不思議でも何でもない日常。

この現実離れした感覚が客席にもだいぶ好印象だったようで、確かに安心して楽しんで見れる作品だったと思います。

昔から個人的に多摩美の人達とは色々お付き合いがあったのですが、演劇をやっていない普通の学生さん達でも、学内にこの芝居の中に登場するようなキャラクターのような人達がウジャウジャ居て、この作品の中に出てくる思い込みが激しい男女3人が繰り広げるている光景のようなのは普通にあったりしていた気がするので、そういう意味ではぶっ飛んだキャラクターをこの芝居の為に創造したのではなくて、彼らは結構自然体で演じているのではないかと思うんです。

なので、細かく分析的に見ていくと、色々辻褄が合わないことが多かったり、コウノトリの意味とか考えても考えるだけ無駄かもしれなかったり、いやだって、普通そう思うでしょ?って言われちゃったら何も言い返せないような、そういうぶっ飛んだ思考で出来上がっているように感じますし、無理をしていない自然体なので、流れに無理がないのかなと。
良くも悪くもこれが多摩美テイストで、他の多摩美の劇団さんもこういうベクトルのところは少なくない印象です。

劇中印象に残ったのが、地味に衣装を早替えして違う服装になって登場する所。それで時間の経過とか時期の前後を表そうとしてるのでしょうけど、その割に地味で効果があまり無いような。衣装なんて一切変えなくても演技力で押し切っちゃえばいいという考えもありますが、彼らは細かく衣装をかえて変化をつけるというこだわりを取ったのでしょう。
また、テーブルの作者が、彼らとは付き合い切れないと電話を切ってしまうとか、そういうシーンをあえて入れてるということは、彼らにも不思議ちゃんの自覚症状は多少あり、ちょっとそれを自虐的に出している感じに取れたのも面白かったです。

最後に大量のオブジェが出てくるのも圧巻ですが、なんでこんなに大量にぶちまける必要があるの?って聞いたら、きっとその方が絵になるから。という答えが返ってくるんじゃないかと思います。理屈じゃなくて、感覚で感じる芝居でしょう。感じられない人には評価が低くなると思いますが、観客として足を運んでいた演劇に興味がある人だと、受け入れられる率が高いのでしょう。


夜Aブロック

  • 劇団宴夢 大四国帝国

四国をリスペクトしてるのか、バカにして楽しんでいるのか、どこまで本気なのか?いや、全て本気なのか?

擬人化された4つの県が、大統領と名乗る男にそそのかされて、独立を図るが、アメリカから攻め入れられちゃって、あっという間にボロボロに負けちゃうんだけど、まあそれも悪くないか。
って、筋を書くとこんな風に身も蓋もなくなってしまいますが、実際馬鹿馬鹿しさ全開で、30分という短い尺をコントのように楽しむことができます。

擬人化されたキャラが皆濃くて独特で、実際に色が濃い人物も居ますが、それぞれの県の特徴をよく出しています。日本全国から見ると影が薄い四国の4つしかない県の中で、さらに影が薄い徳島県は、うどんで有名な香川県とうまくバランスが取れていたようにも見え、これが例えば九州で6人とか出てきたら、皆押しが強くて話がまとまらないでしょうけど、四国は4人の力関係やバランスが絶妙にいい感じです。

これも、一体何者なのかよく分からない大統領というアジテーターが居るおかげなのかもしれません。私のカンではこの大統領は四国の人間ではなくて、アメリカCIAの工作員かなんじゃないかという気もしますが、皆大統領の言うことはよく聞き、ちゃんと付いてきますので、彼が4人を特定の方向に流れるように仕向けているようにしか見えませんが、その流され感からして、日本のどこでもない四国っぽさが醸し出されているようにも感じます。

そして、全編を覆うやたらチープな雰囲気がいい味を出しています。大統領の演台は愛媛みかんのみかん箱。ずっと無表情で果てしなく忙しく小芝居を演じ続ける秘書は、これでもかと安っぽいみんなが抱いているステレオタイプなイメージをひたすらビジュアル化するために、変な格好や道具を纏ってこれでもかと脇でアクションをしています。これだけ見ていても面白いぐらい。
全編が嘗てどこかで見たようなシーンだったり雰囲気だったりするのも、完全に狙ってやっているので嫌味がありません。むしろそれが見たかった!と拍手したくなります。そしてお約束の安定のラストのオチ。ここまでズレた金髪のカツラが似合う人達はそうはいないでしょう。

そして驚きなのが、この芝居、北海道の劇団が京都で四国の話をやってるのです。カナダ人がイタリアでベトナムの話をしてるぐらいメチャクチャです。でも北海道からだからこそ見える、客観視された四国というのも確かにあるのでしょう。それが日本全国レベルで誰が見ても楽しめる作品に仕上がっている秘訣なのかもしれません。

疲れて深夜家に帰ってきてテレビつけたら、たまたまやってたんだけど、つい最後まで見入ってしまって、見終わった後で、ああこんなに面白いなら録画しておけばよかった。的な作品です。

 

  • 劇団西一風 ピントフ

開演前の準備で、何やら物物しいセットがどんどん組まれて行って、一体何が始まるんだろうという期待が高まる中、物語は拍子抜けするぐらいに淡々とどうでもよさそうな、でもちょっと非日常的な作業場の風景を語り出します。

説明や意味が分かるような描写は一切なし。次に何が起こるかも全く読めない展開ですが、期待を裏切ってというか、期待通りというか、ホントになにも起きずに淡々と話は進んで行きます。進んで行くというのも適切ではない感じで、終盤になるまでどこが終わりなのかもわからない。

この手の話は、この訳の分からない世界を構築できたら勝ちというか、そのために実はセリフなどのディティールなどに細心の注意を払って構築されていたりするので、噛んでいるうちに味がジワジワ出てくるスルメのような味わいがありますが、ドラマ性や劇的な話が好きな人にとっては拷問に感じる人もいるかもしれません。

今回のこの話は尺が30分というのを活かした確信犯的な作りでよく考えられていると思いますが、このままこれが1時間以上続くような状態だと、ちょっと難しかったんじゃないかなという気もしました。また、装置や小道具やギミックが魅力的ではありますが、マテリアルに頼りすぎた感も多少感じてしまいました。

キャラについては語るのではなく感じるのが重要で、観客の方で勝手に構築したこの登場人物たちの人間関係が思った通りに進んだり、フェイントをかけられたりするのを楽しむ的なところもあるでしょう。なので見る人次第で評価にだいぶ幅が出そうな気もします。

現在この雰囲気のスタイルを確立しているプロの劇団も幾つかありますが、表面だけを真似して不思議な世界観で勝負しようとしても、演劇ではなくパフォーマンスを楽しみに見に来る、意識高い系の人達からだけしか評価が得られないと言う厳しい現実もあったりします。そこを自由に色々実験的に取り組める学生演劇では、より刺激的な作品を生み出したりできる可能性も大きく秘めていると思います。
今後このスタイルを貫き通して、2時間の長編でも、ひたすら淡々とジワジワ来る作品を作れるようになってもらいたいと強く思いました。

 

  • 南山大学演劇部「HI-SECO」企画 絶頂終劇で完全犯罪

学生演劇ならではというか、普段なかなか触れられないタブーなテーマに挑んだ意欲作。

ただ、学生演劇だとなぜかこの手のテーマが多い気もして、周期的な流行とかスタイルがあるのかなあ?とも思ってしまった次第。

テーマについては理解できるんだけど、その流れるテーマのクライマックスとしてこういう構成として持って来たのか、30分だからこういう仕上がりになってしまったのか、前半とその後での繋がりがあまり良いとは言えず、華々しく巻頭カラーを飾った漫画がいっぱいテーマ用意していたのに、そこに到達する前に読者から理解不能を突きつけられて、慌てて連載打ち切りになるような尻切れトンボ感を感じてしまいました。

とは言え、多分法廷に立たされているのであろう主人公の独白はなかなか雰囲気があり、セリフで聞いた以上の虐待を受けていた感がしっかり伝わってきて、観客もそれならそういう行為に及んだのも無理はない。私は理解するよ。という気分になるぐらいの気迫やパワーがあったと思います。

全編に渡ってのシャープで暗くてどこでもない感が漂う照明も、雰囲気とか世界観を構築する助けに大いに役に立っていると感じました。白と黒の衣装の対比もいい感じ。

30分という小作品を欲張ってしまって消化不良になってしまうなら、あまり複雑だったり気負った設定は潔く捨てて、その場の勢いで観客には納得させてしまった方が演劇だったら、そっちのほうがお得な感じがします。そしたら、スピード感とキレがあって勢いがある20分ぐらいだけど密度感バッチリな話になったかも。とか思ってしまいました。

 

  • 劇団カマセナイ ナインティーンコスプレーション

この世から、ある日突然姿を消してしまった人への気持ちを、どう整理していくのかの葛藤のお話。

ここは学校なんだね。とすぐ解るセットは最初から最後まで変わることなく、どこか活気がない雰囲気をうまく醸し出しています。時間はみんながオフになっている放課後なのでしょう。誰もいない場所にいる二人。
制服を着てるけど、どこか雰囲気が合わない男の子と、いかにもそのまんまな女の子。
何度かアクションは繰り返され、我々観客はだんだんそれの意味がわかってきます。

高校生がリアルに高校生として悩む話ではなく、そこから精神的にある程度成長しているんだけど、過去の想いも引っ張っちゃっている微妙なお年頃の大学生になっている二人が繰り広げていく、という話の筋がなかなか素敵です。この話だったら、この二人を演じるのは30歳過ぎのベテラン役者さんが大学生をやっても、もっと深みが出てワクワクする話に仕上がったかもしれません。
尺の短さもこの湿っぽい話に観客がウンザリしたり、付いていけないよ。とはならない、程よい切り上げ感で、救いが出来ているように感じます。

一人二役を演じる女の子は、小山リツコを演じる時は、あえてイケてない雰囲気を強調する髪型や振る舞いをすることによって、もう一人の、今はこの世には居ないチイちゃんが、どれだけ綺麗で可愛くて性格もいい子だったかを観客の想像の中にしっかり植えつけてくれます。少なくとも今目の前で演じてるような女の子とは対極の方向の子だったんだろうなと。それを高橋ユウタ演じる男の子が補完するようにイメージにしっかり肉をつけてきてくれるので、見ている私達も悲しみがより強くなってくるのでしょう。

そして羨ましく感じたのが、全体に漂う大阪感。別のどこをどうと強調してるわけじゃないのに、東京や他の地域とは明らかに違う、独特の雰囲気がしっかり醸し出されていました。
あべのハルカスっていうすごく高いビルがあるのは東京者の私でも知ってますが、彼らの会話の中でさらっと出てくるこの単語には、彼らしか感じられない素敵な世界がたくさん詰まっているようにも感じられて、ちょっと悔しい気すらします。
この先も、他の地域の人達ではなかなか出していくことはできないだろう、この素敵な大阪感をしっかり出して行って欲しいなと思います。

観劇レポート 一人静さん

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2017.3.1

一人静さん

その昔、劇団ACTという劇団に所属し脚本と演出を担当していました。

好きなものは映画と海外ドラマ。今食べたいものはチョコクッキーです。

 

Aブロック

  • 劇団宴夢「大四国帝国」

 最初の驚きは北海道の団体が四国をネタにしているということでした。もしかすると団体の中に四国出身の方がおられたのかもしれませんね。そのような楽しみも全国学生演劇祭の楽しみであり、あるいはこの公演の楽しみの1つだったのかもしれません。

 国を擬人化した作品と言えばヘタリアが記憶に新しいですが、今作では四国4県の擬人化に加え、それぞれの県に新たに特性(徳島がヘタレ、神奈川がうどん屋、愛媛がギャル、高知がオタク)が追加されていました。そうした中で鑑賞していてどうしても疑問になったのが、最初の設定である県の擬人化とその後のキャラ付けがうまく機能しているのか?ということでした。結果から言うと、うどん役の女性(彼女は素晴らしかったですね)以外は擬人化という部分で台詞以外で設定が生かし切れていないことが少し残念でした。

 四国が独立し、どういうわけかアメリカが侵略してくる。そこからそれぞれの県の特色を生かして解決策を模索するまで盛り上がった勢いが、いざ「アメリカとの決戦」という最大の見せ場ではあっさり片付けられたのは見たかった最大の見せ場がスキップされてしまったように感じました。設定の突飛さに対して、結末はどこか宿命論的である意味「リアル」と言えなくもないですが(四国が独立するということが現実的であるかどうかは別として)広げた想像力を急速に萎めているように感じました。

しかしながらそれぞれの役者は愛嬌があり、稽古も重ねられたのだと感じます。北海道の団体が四国のネタをするということも含めて軽快なコメディだと感じました。

 

  • 劇団西一風「ピントフ™」

 同名の公演を2度(2015年の西一風の公演、2016年の京都学生演劇祭)見ているので再再演と思いながらで観劇していました。初演時には今作で見られたような「面白さ」(コンセプトのようなもの)に必ずしも焦点が当たっていたわけではなかったように思います。しかし上演を重ねる上でこの作品の持つ「面白さ」に作家が自覚的になり、それを確信犯的にやっている。そのことが今回の公演の面白さであり、他の団体との明らかな意識の違いであったと思います。

 今作では作家の視線は前面に押し出されて主調されることはありません。言い換えるなら大声で主題や社会的な問題を提起することがないということでもあります。ただ我々は工場にやってきたある新人の初日を通して、工場らしき一室で行われる「ピントフ」という得体のしれない(しかも後に登場する「パンタモス」との違いなど全く分からない)装置を経緯に繰り返される「消費的イリュージョン」を垣間見ることになります。

 舞台前方に設置された運動性を持った舞台機構や、背後の絵画、樹木、上手のデスクなど空間への配慮がなされていた点も良かったと思います。また一室にずらっと一列に並ぶ役者が(いい意味で)全員パッとしない。交わされる台詞もどこか上の空で、会話も相互に興味を持って行っているようには到底思えない。また後半にかけて登場する機器(ルンバ、加湿器など)に比べ工場で働いている労働者の作業が単調で、並列に鑑賞できると言った視線を投げかけてくる、その様々なレイヤーの背後にある「既視感」が今作最大の魅力だと思います。この作品から我々はそのどこか既視感を持つ情景に様々な思いを巡らせ、そしてどこまでも想像を膨らませることができるでしょう。舞台上の狭い空間をより広い視野にいざなうその手付きは見事だったと感じます。また再再演の今回の上演においては中国人労働者の女性と主人公が交わす以下の台詞が個人的には白眉だったように思います。

「退屈ですか?」「ハイ」

―西一風と、そのメンバーに賛辞を贈りたいと思います。

 

  • 南山大学演劇部「HI-SECO」企画「絶頂終劇で完全犯罪」

 名古屋代表と言うことで、今年もコメディの作品を上演されるのだろうかと予想していたらいい意味で期待を裏切られる作風であり、名古屋演劇界の底知れなさを感じます。以前、前述した西一風が名古屋学生演劇祭で公演したこともあったので地域間の交流がこうした作品を(もし)生み出すきっかけになっていたのだとすれば演劇祭はとてもいい交流になっているのではないでしょうか?と、余計なことを思ったりしました。

 さて、そのような前置きは横に置き、今作がどうであったかと言うと、正直あまり感心出来るものではないように感じました。白黒の衣装、ぐるぐる回る演出、裁判、仮面、神、罰、性、近親相姦など(何故か)学生演劇で良く持ち上げられるモチーフではないかと思います。そこで考えるのはそれ自体のテーマを選ぶことが悪いことではなく、どうしてそのテーマを扱うことにしたのか、また何を面白いと感じているのか、公演として何がやりたいのか、ということです。哲学も学生演劇では散見される主題の1つですが、それを自分のやりたいことに繋げているのか、それとも哲学という主題自体を面白く思い、それを扱っているかどうかでは話が違うと思います。それは穿った捉え方をすれば「弁証法って面白いじゃないですか?ほら、これ弁証法だよ?弁証法?」というような無邪気な姿勢ではありながら、聞き手からすれば「いや、弁証法?知ってるけどそれが何?」なんて、もし最初のデートで言われたりなんかしたらそこには冷たい沈黙が訪れる惨事になりかねないのではないでしょうか。もしかするとこのような場合においては「弁証法ってのがあるんだけど、そういえば昨日さ…」と自分なりの文脈や物語に繋げて話していれば相手の関心を引き出し、幸せなひと時を過ごすことができたかもしれません。

 前置きは長くなりましたが、今回の公演ではそのような「それが何?」という場面が多かったです。冒頭で提示されたテクノブレイクの突飛さから始まり、白い服の男のモノローグも近親相姦のワードの破壊力の前で高い拒絶感を感じ、距離感を感じます。もしかすれば、その拒絶感や忌避の感情を喚起させるものだったのかもしれませんが、どうにも提示される言葉がそれ以上の意味を持って届いてこないので、言葉の羅列で終わっているように思いました。また母の失踪を契機に父が子に母の面影を感じ近親相姦に及ぶ。最終的には子が母に変装(もしくは同一化)し、父を(間接的に)殺害する一連の話のオチが「どうして愛してくれなかったのお母さん!」という絶叫で終わることは果たして良かったのでしょうか?このような凄惨な結末を迎える原因となった母への同一化をしてまで最後まで母への無条件の愛を求める、彼の異常なまでの母への執着とは何だったのでしょうか?

 

こうした疑問や道筋の中で作家がやりたかったこととはなにか?と考えた時に「意味などない」という主張は正解のように見えて、存外に作家や演じ手の隠された欲望を意図せず露見させているのではないかと思います。脚本を書き、上演するというプロセスの中で一種「自明」の元とされ、そのまま観客の前に提示されたものの中には作り手の世界観や無意識の欲望が(本人の意思とは関係なく)垣間見える瞬間があります。もしかすれば今作もそうしたものが垣間見えていたのではないでしょうか。しかし、それが事実であるか本当のところは誰にもわかりません。ただ、多くの人にとってそうした欲望を自分の意図しないところで暴露させられるのは大変不愉快なことだということは変わらないと思います。それが事実であれ、そうでないにしろ「自分すらも気が付いていない欲望」を他人に観察されるのは苦痛です。そうして理解された気になられ、消費されるのは耐え難い感情ではないでしょうか?

ではそうした中で作り手はどのように描いていけばいいのでしょうか。もしかすればそれはある意味で、迷宮を作るような作業ではないでしょうか。物語という高い壁を持った迷宮を建設し、その最奥に謎を巧妙に隠す。迷路にはそれを解きたいという欲望と、絶対に隠しておきたいという二つの欲望が交錯しています。そしてそのような迷宮は往々にして非常に魅力的です。今回の作品もそうした迷宮を作り上げることによって魅力的に人を誘う作品になったのではないでしょうか。

 

  • 劇団カマセナイ「ナインティーン・コスプレ―ション」

小山/ちいちゃんを同じ女優が演じつつ、ちいちゃんを巡る死の真相を巡る前半のサスペンスに比べ、その後にほぼ永遠とも思えるほど続く感傷のシーンには正直、辟易したと言うしかありません。鑑賞していた体感としてはサスペンス:感傷=8:2ぐらいでしょうか。3年前に死んでしまった同級生の死というテーマは確かに人生に暗い影を投げかける重要な事件だと思います。そこに疑いの余地はありません。しかし今回の公演では2人の登場人物があまりにも「ちいちゃんの死」の感傷に浸ることによって寧ろその事件に対しての入り込めなさを形成し、疎外感を感じさせ、観客に冷めた視点を持たせずにはいられませんでした。前半で直ぐに回収されてしまう黄色の点字ブロックなどは示唆的でとても有用な舞台美術だったと思いますし、前半のサスペンス部分を増やし構成を調整していれば、もしかすれば「ちいちゃんの死」という題材はもっと違った印象に感じられたかもしれません。

話は少し変わって、今回の公演でのこのような長い観賞において劇作家はいったい何をやりたくて、何を面白いと思っているのだろうかと良く考えます。今回の公演においては「亡くなった死者を悼む」ということがその第一義的な主題だったのでしょうか?私には単純に(たとえこれが作家の身近に実際に起こった事件だったとしても)「私のことを忘れないで」という願望に支えられた、作家の自己保存的な願望に基づいているのではないか?と邪推してしまいます。これは本当に嫌な言い方で、コイツは何を言っているのだという感じだとは思いますが、今作においてはそのような作家の姿勢が剝き出しで舞台上にさらされていました。それはある意味で、自身の大切な記憶すらも簡単に消費されてしまう様な状態になっていたのではないでしょうか。劇中にも描かれていたように人の死は突然に、そしてほとんどが理解できないものだと推察します。大切な思い出を消費させない為にも、記憶に対して自分がその記憶とどのように付き合っていくのか?一時的な悲しみに囚われるのではなく、創作という形で記憶を昇華させる、そのような視点が含まれた時、個人的な感傷の記憶も人の心を動かすことになるのではないでしょうか?

 

Bブロック

  • 劇団なかゆび「45分間」

何も面白いとは思いませんでした。それが全てであり、この劇(と便宜上は呼ぶことにしましょう)を「見て」それ以上の意味を汲み取る気もほとんど起こりません。眠たいと思いましたし、実際に寝ていました。個人的な営みとして睡眠はとても有意義であり、このような長時間の観劇体験において眠りはとても魅力的であり、事実、快楽的です。

その短い睡眠時間の中で(事実、眠ることが許されている時間は45分間しかない)私は夢を見ました。夢の中で私はとても幸せな甘美な情景を回想していました。美しい情景です。それは形容のし難い、一種観念的な美の様なものであったのかもしれません。それは静かな海のようでありながら、同時に深い森を思わせていました。

 

  • 一寸先はパルプンテ「境界」

 いくつかの不幸な物語が語られ、最後には「シュプレヒコール」「革命」と言った言葉が用いられる。経済的・人種的・社会的・宗教的等、様々な不和に対しての是正の眼差しが提示される内容でした。それは見上げるべき主張であり、疑いようのない高潔な姿勢だと思います。しかしながら鑑賞していて主張に対して万人が同調できるか、共感できるかと考えると個人的にそうではないと思いました。それは主張に対する反発ではなく、方向性を伴った作品の特質なのではないかと思います。ある一方の方向に向けて作られた作品はある意味プロバガンダの様な作用を持つ場合があります。今作の個別の主張の正しさとは別に、鑑賞後に出口が見えてしまうことはそれが社会的に容認すべき事態だとしても、そこに乗り込めない人をかえって阻害してしまうことになるのではないでしょうか?

 劇中に語られるエピソードは強烈です。気分を害する人もいたでしょうし、今回の様な結末を持たなければヤバイと言う意識を(もしかしたら)作り手が持つこともあり得るでしょう。また観客においてもこのようなラストがあるからこそ、それまでのエピソードは(感情的に)チャラにされ、救済されていると思うかもしれません。

しかしながら、そのような凄惨なエピソードだけを見せつけられるだけ見せつけられ、一切の救済もなく終演を迎えた場合においても、結末の主張と同じような感覚を(逆説的ですが)観客はより「自発的」に見出だすことができたのではないでしょうか。それは圧倒的な社会的な悪を目の前に、それまで関心のなかった対象に良心が痛む、という風に。

 

  • シラカン「永遠とわとは」

 抜群に素晴らしかったです。例えるならまるでドッグフードのクッキーにチョコレートコーティングした物をバレンタインに用意して「食べて!食べて!」と無邪気に勧めてきそうな、そんな印象を持ちました。

 人間なので好みもあるとは思いますが、こうした作品を観ると、正直「面白さ」の様なものをイチイチ順序立てて人に説明するよりも「面白さ」をポケットの中にしまい込み、いざ自分が面白い話をするときにこっそりと取り出して、さも自分が考えた物のように丁寧に偽装したくなります。ですが面白いと感じた人間の1人として、ささやかながら簡潔にその魅力を紹介していきます。まず、個人的にこれは凄いと思ったのが、その「力んでなさ」だと思います。無理しているところはほとんど感じられず、無理のないセリフがポンポンと繰り広げられます。これは並大抵にできることではありません。これには確かな語感や、期待を裏切る言葉選びのセンスの様なものが必要とされているでしょう。しかしながら今作からは無理をして台詞を言っていると言った印象がほとんどありません。しかもほとんどマジックの様なレベルで。そのことが大変に素晴らしい。

 話の構造や、主題、こういうことをすると面白くなるかなというような期待感は確かにありますが、それを差し引いても45分間3人のラブコメ(+鳥と机)で集中してみることのできる作品は稀でしょう。また役者がそれぞれ大変魅力的で自律的に舞台に存在し得ていることが強烈でした。あまり多くの言葉を投げかけると、それを巧妙に吸収されそうな薄暗さを感じるのでそろそろ結びにしたいと思います。

――今後の活動に大いに期待を寄せると伴に、最大限の賛辞を贈りたいと思います。

 

Cブロック

  • 劇団マシカク「自憂空間」

『こんな話をしないでくれよ、面白さはそこじゃないだろ?』という声が聞こえてきそうですが、やはり最後に同性愛的な主題を出した意味が謎です。それを「面白いから」以上の解釈で捉えることができません。別にそれをすることは自由ですし、そうした内容が面白いと感じているのも個人の自由です。ただそれは言い換えるなら「同性愛的なギャグをすればウけると思うし、実際に自分も面白いと感じている」と意図せずアピールしているのともあまり変わりません。怒っているわけではなく「なるほどそういうことが面白いのか」という、それだけの話であり、人によってはそれが全てです。

 多用されるアニメや特撮の文脈を用いて45分間の劇が成立させ「分かりやすさ」を武器に展開される公演は親しみやすい作品だったと思います。そこに含まれる就職、非モテ、そして同性愛をギャグにする(そして客席も実際に笑っている)、その全てが既視感を持ち、普段の生活の中に溶け込んだワンシーンであるという発見が痛々しく、初々しかったです。

 

  • 岡山大学演劇部「山田次郎物語」

 「山田次郎」という架空の人物を想像してその誕生から描いていくという壮大な仕掛け(それは複数の役者が群舞的な躍動を伴いながら演じる)に対して、目の前で展開される「山田次郎」の存在感の希薄さが否めません。1人の人間の人生が抱えるエピソードは平均的寿命から考えてほぼ無限に等しいバリエーションで様々な出来事が起こるのではないかと思います。そうした中で今作の中で提示されていた「山田次郎」の人生の各場面の既視感が「山田次郎」を平面的で、存在の希薄な人物にさせていたのではないでしょうか。もしかすれば「山田次郎」という人物と観客の中に共通するエピソードを見つけさせることが目的だったのかもしれませんが、どの話もあまりにも単純化され、交わされる会話が「ぽさ」のようなものを追求するあまり、題名にもなっている「山田次郎」その人に興味を持つことができませんでした。

 ところで邦楽の音楽をかけ、オープニング、ダンス、既視感のある話題、というのはアニメによくみられる一種「形式」だと言えなくもないのではないでしょうか?言い換えるなら「お約束」です。その中でもそれぞれのアニメには特色があり(アンチなどに)「アニメなんてみんな一緒じゃん?」みたいな失礼なことを言われても、毅然と言い返せるような魅力が詰まっていると思います。ただ中には「まあ確かに強く影響は受けているかな…」と答えに窮する作品も、きっとあるでしょう。そうした中でも「このエピソードは!」という様な魅力的な話を1つ持つだけで印象は変わり、そこから新しい物語も生まれるかもしれません。

話がそれましたが、1度きりの上演に留まらず、再演を繰り返す中で新しい物語の発展を期待する、そんな淡い期待を持たずにはいられない魅力的な作品と団体だと思います。

 

  • 幻灯劇場「DADA」

 幻灯劇場の「DADA」は個人的にあまり面白いと思えませんでした。45分間という時間、舞台を注視することができる充実は確かに存在していました。個別の役者の技量(中でも作劇の藤井君、鳩川七海さんは素晴らしいことは言うまでもないです)もあり、程度の差はあれ熱量を伴った役者が躍動するオープニングはその才能を決定づける演劇祭屈指の美しい情景でした。

ただ、頂けなかったのは単純に話がよく分からなったと言うことでした。「よくわからない」というよりほとんど「崩壊」に近いような気もしていました。いくつかのレイヤーが交差していたように思いますが、それぞれが群像劇として上手く機能しているとも感じられず、かえって混乱をきたしているように思いました。幻灯劇場は(僕自身過去の作品を観劇して―僭越ながら―指摘してきたことですが)長らく野田秀樹との作風の比較の中で語られることが多かったように思います。今作はそのような影は以前より後退し、より作劇の藤井君のやりたいことが(ミュージカルであること、ちりばめられたジョーク等からも)如実に表れているように感じら、真摯だなと思いました。それは「演劇人・藤井」の素顔が現れ、その分「粗さ」の様な部分も出てきているのだと思います。ただ今回は「その粗さ」がほとんど邪魔なレベルで出てきていたのではないでしょうか。

 残念ながら1度しか拝見していないですし、戯曲に目を通したわけではないので実際のところはわかりません。しかしながら「物語」としてこれを云々と言うのはやはり(初見だけ)では無理がありました。それは戯曲だけでなく、役者の台詞回しだったり、技術的な問題だったり、その他の問題があったのかもしれません。もしかすると物語的なものは諸要素であり、単純に役者の躍動や音楽がこの公演の主眼だったのかもしれません。ではなぜこのようなことを言うのかというと、ラストの一連のシーンは確実に物語ありきでの美しさがあってこそのシーンだったのではないでしょうか?構図や、音楽だけではない軸があるからこそ決まってくる瞬間に(少なくとも僕には)物語が追い付いていないと思います。これまでの幻灯劇場の作品では45分の中でもその現実的な時間以上の想像力を喚起させる取り組みがなされてきたと思います。しかし、どうにも今作では今までの作品の様な印象を持つことができませんでした。

一体何故でしょうか?それは学生演劇で散見される「宗教」「性」「想像妊娠」(想像妊娠がこれほど頻出の題材として扱われるのは一体何故なのでしょうか?)といったある意味「学生演劇」(ないし学生の造る創作)に特有の頻出のテーマを扱っていることが(もしかすれば)関係しているのではないでしょうか?技術やテクニカルな部分では明らかに学生との一線を感じさせてはいながらも、主題がどこまでも「学生的」であり、凡庸なことが気がかりでなりませんでした。作家が本来的にこの題材に興味があって物語を紡いでいるのでしょうか? それは形式的に題材を借用するのではなく、そこから個別の物語の扉を(それこそロッカーの扉のように)開く意思があったのでしょうか?

あくまでも個人的に、私の眼前のロッカーは終始閉ざされたままでした。

観劇レポート 徳泉翔平さん②

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2017.3.1

徳泉翔平さん

高校三年間、そして大学四年間を演劇に費やしました。劇場はなくなっても学生が挑戦し続ける限り、京都の演劇は死なない!と信じていますので今回、「ロームシアターという場所で上演されること」を一つの尺度として観たいと思っています。

……というわけで、全てのステージを観せていただきました。
地域性、そして多様性の感じられる演劇祭になったと思います。
僕はこれまで京都学生演劇祭の意義を評価する一方で、全国学生演劇祭の意義については懐疑的でした。
しかし、今回の演劇祭を観せて頂いて、一定レベル以上の作品が揃った学生による演劇の賞レースというものが非常に興味深いと思いました。
来年以降も続けて欲しいと切に願います。
もしも僕が審査員で賞を選出するとしたら、劇団なかゆび・シラカン・幻灯劇場の3つを推薦するだろうと思います。
審査結果を非常に楽しみにしております。
また今後の皆様のご活躍を心から願っています。
 
 
  • 劇団マシカク
ルームシェアをしている3人。
1人は真面目にバイトをしているが、2人はほぼニート、生活破綻者。
ほぼ頼りっぱなしの毎日だ。
彼らはきちんと就職をするために、自分たちのやりたい仕事を考えてみる、
妄想する、この部屋は「自憂空間」だという 。 
基本的には終始ベタなギャグを散りばめたコメディ。
客席も受けていた。
最初は風船をなぜ使うのか分からなかったが、風船を割る仕草も多く、すぐに壊れてしまったり、必ず終わりのある夢や安住の地を表現しているのかと思った。 
展開のリアリティ、行動への動機や感情の機微といった細部の作り込みはどうしても弱いところがあるが、彼ら自身がやりたいことをやりたいようにやる、というのが最大の目的であると思うので、その点では成功していたと思う。
 
  • 岡山大学演劇部
男女十数名による「山田次郎」の一代記。
山田次郎の人生はこれといった特色はなくどこかで見たような風景だ。
描かれるのも祖母との死別、初恋の人の引越し、娘の結婚、退職など離別を描くものが多い。 
徹底してなんの変哲もない人生を描く。
伝えたいことはおそらく我々の認識していない、あらゆる人の辿ってきた人生、ストーリーへのリスペクトだろう。
ただ演出のあり方はもうやり尽くされたというか優等生にすぎる。 
ぼく自身この評価の言葉はとても嫌いだし、自分自身が言われたら絶対に腹をたてるが、これが高校演劇の大会ならある程度の評価があるだろう。
しかし、大学生で有料ということになるならさらなる挑戦と研鑽が必要ではないか。 
 
  • 幻灯劇場
コインロッカーベイビーの母親が訪ねて来るというモチーフ自体は現代の創作物では複数存在すると思う。
今回は序盤よりロッカーと歌手としての「ロッカー」をかけることに始まり、藤井君独特のギャグセンス、時として野田秀樹みたいと例えられる作風が展開。 
聖母マリアの姿を重ねるのも創作としては優等生。
ある意味模範解答的である。
僕が評価したいのは劇伴を入れてまで歌った曲がいい意味で非常にナンセンスだったこと。
緊張と緩和、後半の引き締めに効果的であった。 
それから、ロッカーの箱を救いの箱舟に繋げたのも、物語の締め方としては綺麗。
綺麗だけども物足りなさを感じたのも事実。
おそらく創作の上で45分間というハンデがついたのではないかと思う。
長編での再演を望む。 

  • 劇団なかゆび
演じるということは何か、劇場という場所はどこかということにとことん思索を巡らした作品
「45分間」というタイトル、弾かれない楽器、静寂の中で強調される衣摺れや咳払い、鼻すすりからジョンケージ「4分33秒」を思わせる。 
しかし、彼らの伝えたかった、やりたかったのは別にそこではなく、劇場という場所で45分間与えられれば何でも出来てしまう、そのことの危うさとある種の引力を明示したかったのではないか。 
そして彼らは、こういう風な具合に僕のような学生風情が偉そうに観劇レポートを掲載することを、彼らが言う所の「神」による裁きとみるのだろう。
彼らは「神」に対して叛逆し、抵抗しようと試みた。
そして愉しんでいる。
根っからの愉快犯だ。 
 
  • 一寸先はパルプンテ
6人の哲学者、最初は不在のソクラテスを除いた5人が人類のあらゆる諸問題について討論する。
内容は性差、人種、貧富などあらゆる人間の差別や偏見に関するもの。
遅れてやって来るソクラテスはそれらを不正義と断ずるも共感は得られない。 
最後は印象的なシュプレヒコールで終わる。
ただソクラテスでなくていい、プラトンでも良いから自分自身の言葉で、といった割にはこの劇が語るのは一般的な正義論であり、どこかで聞いたことのあるような主張だ。 
僕は彼らがそういう正義を声高に叫ぶタイプの人間を揶揄するような表現をしたかったとはあまり思えないので(そうだったらごめんなさい)だとしたら効果的にメッセージが伝わらなかったと思います。
笑いのオンオフが上手じゃないのかなと思います。 
 
  • シラカン
まず物と人との恋愛というモチーフは過去にも複数みられると思う
今回はそれをただの人外への恋愛というエンタメ要素ではなく、人が物に感情を持たせる=他人への感情・他人からの感情を簡単に自分の都合で捻じ曲げることの表現として使われていた。 
そして後半乱発される謎の赤ちゃん、それは感情のままに衝動のままにされたたくさんのインスタントセックスにより望まれず生まれた子たちを指しているのではないか。
途中まで鳥とか目先のギャグでこの作品の目指すところが掴み難かったが、最後は合点がいった。
人間の感情の筋の通らなさ、理屈の効かなさにきちんと向き合ったところが好感が持てる。
人間の感情を理論だって説明しようとする演劇は数あれど、分からないことを素直に認めたことを高く評価したい。 

観劇レポート 蜜柑さん

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2017.2.27

蜜柑さん

観劇専門・観劇歴3年目の20代女性

 

 

  • 劇団宴夢

四国を影の薄い存在をぞんざいに扱っていると、四国が独立帝国を作ってしまうかもしれないというコメディでした。

北海道から遥々京都までやって来て、四国の宣伝というのがずいぶんハチャメチャだなぁと思いました。もっと対等に扱って!私たちだってやるときゃやる!という叫びは、まさに四国県民の、いやいや日本のなかで都会と比べられ、影が薄いと揶揄される県民全員の心の叫びでもあるのでしょう。演者のルックスや体型を、プロトタイプ的な性格特性とリンクさせていたので、すっと頭に入りやすかったように思います。

 

  • 劇団西一風

セットアップ・道具類は一番大がかりでした。タイトルのピントフは霧吹きのことでした。ピントフを使って流れ作業をする工場が舞台。ただただ流れ作業。ひたすら流れ作業をしながら地域事業の話をする所長と従業員。所長はコストを気にする癖して、新しいものは勧められるがままに購入。購入品のひとつであるルンバ(?)が始終舞台で動く様はひたすらシュールでした。こんなにシュールな演劇を三本立てでやっているというのだから驚きです。所長の購入品に労働を搾取されようがされまいが、こんな会社が本当にあったらすぐ潰れてるだろうなと思いながら見てました。

 

  • 南山大学演劇部

最愛の妻を亡くした悲しみゆえに、父は自分にたいして暴力を振るう毎日。ある日父は主人公のなかに妻の面影を見つけ、愛情の対象として見始める。そんな父は主人公にとって支配者でしかなかった。自由を求める主人公はついに父を殺める。

結局、愛してくれない父を殺める方法はなんでも良かったんだと思う。現実世界では有り得ないテクノブレイクという殺めかたは、最後まで自分を認めてくれなかった父、妻のことで頭が一杯で、主人公のなかにある妻の面影を抱く父を報復の意を込めて殺害するのに手頃だったというだけで。それにしても、壊れたテレビのような効果音(突如鳴る&かなり大きい)、赤い照明はかなり怖かったです。

 

  • 劇団カマセナイ

3年前に自殺をしてしまったちぃちゃんと、ちぃちゃんを忘れることのできない小山と高橋というシンプルな構成。

ちぃちゃんのことを引きずっているということは共通していても、いつまでもメソメソ泣いてばかりで、泣き止みたいと願う小山と、悲しいはずなのにひとつも泣けなくて、生前に交わした「ちぃちゃんが死んでしまったら泣く」という約束を果たせずにいる高橋が対比して描かれていました。

高橋との会話のなかで、一ヶ月後には学校の机には花瓶が置かれることになる、とさらっと口にしていたちいちゃん。自殺の理由は語られていませんでしたが、彼女は親友にも相談できずに、一人心のなかに一体どんな闇を抱えていたのでしょうか。また、自殺に踏み切ってはいなくても、その瀬戸際で揺れる「ちぃちゃん」は、日本に何れくらいいるのでしょうか。

台詞はひとつも噛むことなく、台詞の抑揚や発声等々の基本的な技術力は、さすが大阪の学生演劇祭を勝ち抜いただけあるなと感じました。

 

 

 

  • 劇団なかゆび

共演予定だった相方が当日バックレたので自分一人で45分をしのがなくてはならなくなった。という内容は、事実ではなく演出だろうとは思われました。が、「それでは始めます」と言ったきり、誰も舞台に出てこずに5分10分ただ照明に照らされた小道具だけが目の前にあり続ける光景は「もしかしてガチなの?」と思わされてしまいました。それでも誰一人文句を言わずただ待ち続ける観客は偏見かもしれませんが「日本人だな、、」と思っていました(大人しく見てた私も立派な日本人)。理不尽なことにも文句を口には出さずにいる態度は、当事者からすれば「折り合いを付けている」こと。そうやって理不尽を感受する「観客」は、舞台に上がる彼にとって至極つまらないという。

よくある「考えさせられる演劇」ではありませんでした。

パンフレットを見ると、「劇場の<外>への訴えを常に持つ」の文字。今回もご多分に漏れずの設定でした。

 

 

  • 一寸先はパルプンテ

男女という枠組みに悩む10歳の子供2人。日本国籍はあってもハーフで海外在住期間が長いということで日本代表と認めてもらえない女性。富が富を生み、貧困が貧困を生む教育格差…。差別・区別といった「境界」をオムニバス形式で取り上げた演目でした。境界は人為的なものにもにも関わらず、普段から無意識に大多数が認め、行動の基準にしている。 そんな境界に疑問を投じるというわかりやすい内容でした。境界をただ周囲が認めているから、文化だからといった理由で無批判に受け入れるのではなく、時々でいいから立ち止まって考えてほしい。そういったメッセージがわかりやすく伝わりました。

 

  • シラカン

三人+一羽の演者による演目でした。喋らないでいてくれる机が恋人だというヒカリと、「自分には目もくれずにヒカリのことが好きだというソウタ」が好きだというレンコ。ちょっと変わった愛情をもつ二人の女の子と一途な男の子一人、という印象でした。が、話が進むにつれてカオスとしか形容できない展開になりました。他者から見れば「変わっている」「常軌を逸している」考え・言動・愛であっても、当の本人にとってはそれが唯一無二の正しい世界。演劇のなかではあからさまに描かれていましたが、他者に理解してもらえようが貰えまいが構わないという自分の世界は、現実にいきる私たちも多少は持ち合わせているのではないでしょうか。

年配の方には付いていきづらい内容であったかもしれません。しかし、そんな「若者ならでは」こそが、学生演劇祭の実行委員長さんが挨拶で述べていた、粗削りながらも「既成概念を打ち破る」ことに繋がっていくのではないかと感じました。

 

 

 

  • 劇団マシカク

男性三人によるコメディでした。

演者が三人、そして過去や未来を行ったりすることもなく、ということでとてもわかりやすい内容でした。

スマ×スマ、ハリポタ、ドラゴンボール、コナンなど私たちが生活していて実際に関わる世界と上手く絡めていて面白かったです。

私は普段あまりテレビを見ないので、もっとそちらに普段から接している方々はより面白おかしく見れたのではないでしょうか。

男性三人が秘密にしていたこと、最後の一人は御曹司だったということ?

デビュー講演で演劇祭出場を決め、そしてその演劇祭が解散公演ということでしたが、高い演技力や飾らない真っ直ぐな脚本ゆえに惜しまれます。

 

  • 岡山大学演劇部

人々の人生が巡りゆく様が、短い時間にぎゅっと詰め込まれていました。観客自身、生まれてから死ぬまでの人生を俯瞰的に見ることを迫られる内容でした。

例えこれと言って取り上げることがなくても、語り継がれることがなくても、一生を生きぬくということ。迷いながら、自分の不甲斐なさに落ち込みながらそれでも自分が自分として生きていくこと。

大地球という規模で見ると小さい世界かも知れないけれど、自分にとってはそれがいまの自分に見えるすべて。そんな世界でもがきつつも、人生を歩んでいくのだろう…と、演劇終了後には思わず「生きること」について思いを馳せてしまいました。演技を魅せつつも観客も上手く世界観へ誘う演目でした。机や扉・ベルやベンチなどの静物さえも人で賄っていたのが目新しく面白かったです。

 

  • 幻灯劇場

若い、の一言につきます。性、生演奏のギター、バンドに狂う人々、力で押し切ろうとするところ、ミュージカル・ダンス・演劇を45分に詰め込んでいるところ…全てが若いと感じさせられました。

抽象的・非現実的な世界を多く扱っていたのであまり自分に引き付けて考えることができず、共感出来る点は少なかったです。そういった意味で、不快に思われるかも知れませんが、発表会を見ている気分になりました。雑多なものを一纏めにして並べて、見せる・見せつける演目に感じたということです。

「既成概念を打ち破る」というよりはプロフェッショナルを目指している最中のアマチュアであり、いささか独り善がりになってしまっているという印象を受けました。

観劇レポート 平井寛人さん③

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2017.2.26

平井寛人さん

FUKAIPRODUCE羽衣 作家部在籍中。

全国学生演劇祭に、期待を寄せています。演劇界が新たな人々により動き出していく中で、その予兆を察するために優れた劇団が集まっているよう予感します。

私自身20歳の学生として、本委員会の夢ある表明に同意します。この興奮の中で僭越ながら、滾って私自身寄与できるようなレポートを届けたく存じております。全団体へ期待します。

 

  • 劇団マシカク『自憂空間』

「逃避の跡に残る、単色の連続と生々しさ」

単色の球が多く転がり、舞台上を満たすと演じられる事柄はまったく非現実的な物事になる。役者もそれぞれが衣装によって単色を担っており、性格や役割に対して単純明快な差別化を行使しているようだ。

不用意な言葉や安易なギャグを入れ込む事で、人は舞台でおこなわれている事をどうにも信頼出来なくなっていく。すると演技という奇行をしている役者を浮かび上がらせてしまう。引用されたようなギャグの数々や唐突なパロディーーその時、役者自身の生活感が生々しく押し出されてくる。共同住居での生活感というより役者の諸々が見えてくる。

役者が生々しく見えてくると、ここで私(に限らず客席にいた人々)はそれらを愛らしく見るかどうかの選択を迫られる。こうした事態に対し、『自憂空間』の役者は巧みに努めていたよう私には感じられた。言葉遣いを自分の身に引きつけ、等身大の姿で演じようとする強さには心惹かれた。

ただ、それぞれが「俺が俺が」と出ている以上、意識を及ばせていないとコミュニケーションが上手くいっていなく見えたも事実だ。お互いが相手の目を認識するようになって、そうしてて事を運ぼうとすればより良かったのではないか。

こうした事を思っている時でも、舞台上に多く散乱する単色のさまを見ていると、こうした事でさえ繋がりを持った大仰な事ではないのかもしれないと思わされた。現実逃避をしているニートたちの、嫌だ嫌だという悪小僧じみた思いつきの連続だけが、ここでは再現されていたのかもしれない。しかし細部への自覚が足りているようには思えず、まだ欲しがいがある作品だと感じた。

 

  • 岡山大学演劇部『山田次郎物語』

「捲られる日々と優し過ぎる説明」

言葉も丁寧が過ぎると無礼になる。相手への気遣いが行き届いていない状態である。何か詩的な内容を伝えようとする時にも、あまりに優し過ぎる説明では子供騙しじみた演目になってしまう。

『山田次郎物語』は一つ一つ思いを持って日にちを綴っていこうとする繊細さは持ち合わせていながらも、一方で自己本位な話ぶりをしている側面を持っていた。媚びが付着しており、結果不親切で、相手の理解を省みられていない、そうした危うさを私は感じた。

すっきりとした型に隙なく丁寧に嵌め込まれていながらも、話の展開にダレが生じていた矛盾に私は靄を感じてならなかった。

はっきりとした喋り方、明確な動き、等々どれもが入念に検討され、広く染み渡っている。そうした好ましい表現がなされていた。

山田次郎という人物への姿勢も良い。日を繰る中で温もりと共にある生涯を伝えようと役者が総員で役割を分担し、時間と手間を捧げている。時間を横断しようとする野心もあったと見受けられた。

分担しようというところに、歯車意識を私は覚えてしまったのかもしれない。玩具が起動し、ショートカットをおこなえずに律儀にすべてを立ち上げる感じは、現代の人々とは距離を置いてしまう。いつまでも演劇それ自体が面白く、慣れられていないものではありえない。若干の古めかしい表現というのも、ここでは無批判に認められた。

もっとも、面白くないわけではなかった。捲られる日々と、それを精一杯誠意を持って届けようとする優しさには心打たれた。

止まる時間がもっと効能に意識的にあると、良いのかもしれないと感じた。

 

  • 幻灯劇場『DADA』

「高いテクニックと、溺れる陰」

学生演劇がプロの演劇より背が低いというのなら、全団体において最も背を伸ばして観客に何かを届けようと、クオリティを高めようと心していたのは『DADA』であっただろう。

良い言い方を選べば、客を巻き込むショーチックである。

美的なシーン、状況の作り方にはいたく共感する部分がある。

人を誘い込むセンスに疑いようはないだろう。ただ、目につくだけというだけでは底が見えるので、底の計算を放棄したところから始まる根底の規律があるとさらなる飛躍があるのではないかと感じた。

コンサート、ライブ、ショート形式、それらにはパワーがある。ただしそれらを利用するだけ利用して、「どうそのパワーを助長し人を引きつけるか」という工夫が無ければそれは思いつきでしかない。意地悪く言えばこの舞台は思いつきの連続であり、テクニックを陳列した抜け目なさが御輿を担いでいると思った。

私は、巻き込まれず、そもそもプロと比べたら十分な用意が出来ない舞台でもありながら、既存のプロの舞台と比べられるところしか『DADA』からは感じられず、不満ではあった。

相性の問題ではなくここで否定できないパワーを省みた時、しかしそれらはコンサートっぽさの部分のみであるように感じられ、何かを切り裂くような鮮烈さやそれを補ってトランスさせるドラマとの一体感はほぼなかった。

思いつきと、何かを発掘しようとして出てきたものは決定的に異なる。『DADA』およびに幻灯劇場の野心に求められるのは、幻灯劇場に対しては推測でしかないが、何か可能性を発掘しようとする荒々しいまでのエネルギーではないか。すると『DADA』はパワー不足甚だしかった。

面白くはあった。ただ、ドラマ性にしても「ソーワット?」なところが否めない。幽霊が溺れる陰が、人の陰でしかないなら、お遊戯らしさが浮かび上がってしまうと感じた。

観劇レポート 平井寛人さん②

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2017.2.26

平井寛人さん

FUKAIPRODUCE羽衣 作家部在籍中。

全国学生演劇祭に、期待を寄せています。演劇界が新たな人々により動き出していく中で、その予兆を察するために優れた劇団が集まっているよう予感します。

私自身20歳の学生として、本委員会の夢ある表明に同意します。この興奮の中で僭越ながら、滾って私自身寄与できるようなレポートを届けたく存じております。全団体へ期待します。

 

  • 劇団宴夢『大四国帝国』

「腹が座ってバランス感覚も良い」

絶妙なバランス感覚によって、演じる事とキャラクターを優れた距離感で再現している。ときにはシニカルな視点を用いながらも、キャラクターの持つ愛らしさを損ねず、媚びているわけでもない。

どの役者の演技も良かった。特に香川県を担当していた方の気のふれたくらいのストイックらしさには、見ていて癖になる部分があった。バカはするが徹底的なバカにはならず、冷静な秘書が常に角にいるのもそうなのかもしれないが部分的に冷めた目線を忘れていない、やり取りの中の人物配置に極めて好印象を覚えた。

伝わるところまで伝えられれば良いやというような、潔さが良い。中にはくどくなっているセリフやユーモラスな言動の箇所もあったが、伝わるかどうか分からないが、もしもそれらをくだらなさを隠すための保険として防衛本能的に入れてしまっていたのなら、必要なかったのかもしれない。より一層、堂々と出来れば格のような恰好がついただろうと感じた。それらは折角のテンポを妨げているものでもあるようにも私には感じられ、観劇中に更なる洗練さを欲しがってしまっていた。

どの部分においても、全力というか、諦めという事をハナから放棄しているようなパワフルさが、私に対して高い好感ポイントを促している。うどんのゴリ押しを聞くと、うどんがある意味ファッションのようになって私はうどんと触れ合いたくなった。そういう舞台だった、と思う。この舞台においては皮肉くさくないのが、観客を付き合わせる要因として機能していた。

 

  • 劇団西一風『ピントフ™』

「自由自在に見えるような、何も無いような」

在るのか無いのか分からない緊張感が常に漂っている。その隙間を、結局リアルで本気なのか非リアルで冗談なのか明確にならないうちに、言葉がぬるりと分け入ってきて客席に際立って届く。

これらは何かを縫うように私たち観客の知りえないところで進行していき、やがて事件を予感させるので、次から次へと起こるイベントに気を引かれ続けた。

不用心なようでいて確かに計算的な描画が舞台上でなされていると私は感じた。不発したようなギャグもどこまでも自然で、「ここはこうあるべきだ」という作家らしい、哲学のような、諸所への批評的な狙いの数々が、むしろ私たちに距離を取らせながらも自由にシーンを探索させた。

重要なのは、それでいて作者の顔・哲学が自由奔放に反映されつつも、観客が考察の余地を持ち続けられる点である。セリフの一つ々々は思えばわざとらしい、悪戯心らしい思惑を感じるところだが、それによって破壊されない世界の強度がすでに築かれていた。

すると作家は思うがままにギャグを挟め、つまり直接的な観客とのやり取りを行いながらキャラクターたちの生活を、鮮色的に一列に描いていた。何をおろそかにするでもなく、『ピントフ™』は終始観客との探り合いに結実している。面白かった。

もはや玩具として機能していたような、舞台装置の嘘か本当か分からない飄々とした具合は、もはやイタズラ的で恨めしい。

ただ壮大な何かを立ち上げる過剰さが不足しているよう感じた。もう一展開最後にパーティが必要だったのかもしれないし、交響曲的な作品として若々しい挑戦へと一歩が必要だったのかもしれない。もっとも、高尚さでも理不尽さでもない、ディスコミュニケーションをふんだんに用いた作風が心地良かった。

 

  •  南山大学演劇部「HI-SECO」企画『絶頂終劇で完全犯罪』

「大胆なワード選択か浅薄なパワー」

コントロールが上手くつけば、より高いエネルギーをもたらすと感じた。可哀想なキャラクターだから同情されて気を引けると考えているのなら、多くの場合で間違いである。話を聞かせようとする工夫に事欠いていないようには感じられず、説教臭さだけがあると変な剥き出しになってしまう。その生々しさは、最初の部分では好ましく、後にいくに連れて仕様もなくなっていった。

後半の部分で、折角のエネルギーが良く分からない、閉鎖的な型に閉じ籠ってしまって勿体がない。才気はそれなりに発揮されようとある舞台であるふうには予感された。そうした未然の予感らしさがあまりに顕在されていて、私は観劇中随時心もとなく感じていた。

下品な言葉といったものを刃物のように扱うだけでなく、相手をくどき落とすような、低い格式から見た切実な本物として演出する事が出来たなら、『絶頂終劇で完全犯罪』は更なる愛おしさを持たれる、あるいは拒絶される見応えある作品になったのではないかとぼんやり思う。

また、大きな声を出していても存在感が稀薄で、役者が観客から下に見られてしまうような状態になってしまうのはどうしてだろうか。鼻についてしまうし、こちらから応えられない。『絶頂終劇で完全犯罪』に限られた話ではないが、私たちの大きな課題であると思った。

 

  • 劇団カマセナイ『ナインティーン・コスプレーション』

「気色わるさと静かな祈り」

決して愚弄ではないのだけど、45分程度の『ナインティーン・コスプレーション』の中で、チーちゃん(の容姿のどうこうは関係なく)の額に「ブス」と書いていて欲しい。

それは思い付きにしても、この劇からはそういったレベルでの不穏さがかもされていた。不穏な舞台は本来客席に働きかける力が強く、前半部分特に気色に優れない。

多くの、説明がいらないコスプレーション、コンプレックスは確かに胸を打って有用に働いていた。それらは演者と観客の病の共有体験のようで、どこまでも鮮烈だった。優れたセンスとコントロール能力を感じた。

ただ長い。不用意に長いと軽くなる。やり取りがただ二人の惰性的で、くたびれたような依存し合ったようになった時に、対策をこうじていないと溺れてしまう。溺れた演技に客席から無視されない何かが必要だったのではないかと私は感じた。

この孤高らしさにネタバレは必要だったのだろうか。ネタバレて以降、感傷的なものに現代人は恐らく浸ってくれないのではないか。慣れられてしまっている。何者かを静かに想い、祈る表現姿勢には強く共感する。ただ、自分が良いと思って始めた味わいには最後まで責任を持つべきであるとも感じる。

自分が好きだと思ったところから移り変わって、纏めるため、温くや甘くなってしまうのでは作家の真面目な性格を怯えて示しているふうにしか出ない。嫌われる勇気を推す。

また、役者が二人とも良かった。もっと自分勝手にやればより良いよう感じる。面白かった。