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第5回全国学生演劇祭 審査員講評

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2020.3.28

第5回全国学生演劇祭

審査員の皆様から、講評文が届きました。

以下のリンクよりぜひご覧ください

 

審査員講評

 

または、【企画】タブからご覧いただけます。

観劇レポート 観劇オバケさん

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2018.3.16

第3回全国学生演劇祭の演目を観劇し、舞台の模様を広く伝える”劇評/レビュー”を書いていただく方を募集しレポートを書いていただきました。

 

観劇オバケさん

2014年から小劇場を中心に観劇を重ねています(4年連続100公演以上観劇,3年連続200公演以上観劇)。2016年からは学生劇団,2017年後半からは専門学校の公演にも足を運んでいます。過去に演劇をした経験は全くなく演劇についてはズブの素人です。数年前まで自分が芝居にここまでハマると思ってなかったですし。ただもともと物語を読むのが好きだったので今は芝居を観て物語を楽しんでいるといった感じです。「物語が好き」と先に書きましたが,文学作品で言うなら芥川賞系の作品よりも直木賞系の作品の方が好きなので演劇作品でも大衆小説作品的な作品の方が好みです。特に不条理系・抽象系は苦手なので最近は観るのを意識的に避けています。また短編や中編はキレがないと面白くないと思いますしどちらかというと長編の方が好みの作品が多い印象です。普段,良いと感じる作品は直感的に思うのですが敢えて言葉にしてみると,

①脚本が良い(ストーリーがうまくできていて欠陥があまり無いと私が感じる、共感できるetc.)。

②演出〔になるのかな。。〕に関してはテンポが良い、間を上手く使っている。配役がばっちりハマっている。

③役者の台詞回しが良い。私は台詞回しが好きみたい。あと声質。

④発声や滑舌。やはり台詞が聞き取りにくいと話が追えないのでストレスを感じます。

⑤価格対満足度もありますよね。一時期高級料理店に行くのがマイブームだったのですが高い金出して旨いのは当たり前なわけで(笑)またサービス料取られるのにそれほどサービスっていうほどサービスしてもらってないよな~、とか思って最近は安くて旨い、というのにハマっていますが演劇も同じことで。別に有名人好きなわけでもないし(笑)

⑥その時の体調とか気分。観た順番なんかにも左右されるんじゃないかなぁ。

 

という感じですかね(笑)かなり公演を観ているもののドンクサい方なので「わかってないなぁ」とか「アホやなぁ」とか「浅い観方やなぁ」とか思われたりするかもしれません。特に題名と作品内容の関係を理解するのが苦手な方だと自覚してます(苦笑)

 

 

≪はじめに≫

今回,観劇レポートを書くにあたって断っておきたいことが一つあります。募集要項には「演劇祭の作品を観劇し、舞台の模様を広く伝える“劇評/レビュー“を書いていただける方を募集します。」とありますが私は演劇論など学んだこともないですし劇評(批評)なんていう偉そうなものはできないし,する気もさらさらありません。募集要項には観劇「レポーター」や「レポート」という言葉もあります。レビューは①評論。批評。書評。(『大辞林第三版』)のことですがレポーター【reporter】〔リポーターとも〕は①報告者。②連絡係。③テレビ・新聞などで、取材をし、その内容を伝える担当者。(『大辞林第三版』)とあり,レポート【report】は(名)スル〔リポートとも〕①研究・調査の報告書。学術研究報告書。②新聞・雑誌・放送などで、現地からの状況などを報告すること。また、その報告。レポ。「現地から-する」(『大辞林第三版』)のことです。募集要項にも「『第3回全国学生演劇祭』の作品について、各200字程度で観劇レポートを書いていただきます。」とあるので「レポーター」や「レポート」の文字どおり,私はあくまで観劇好きな一観客の目線での現地(劇場)からの報告という形を取って書くつもりでいます。神田氏の言われるような「愚かな客(無教養な観客)」になってしまうかもしれませんが知ったかぶらずにわからないことは「わからない」と書く所存です。

 

 

 

観た順番に

 

[Bブロック](2018年2月23日10時30分~上演時間約150分)

 

〇ヲサガリ(京都工芸繊維大学)

『ヲサガリの卒業制作』京都学生演劇祭推薦(京都学生演劇祭賞受賞)

あるアイドルグループのコンサート会場でメンバーのリョウが卒業発表をする場面から作品は始まる。そしてコンサート後のリョウファンのオフ会。大学院生のオカダ(岡田眞太郎),唯一の社会人で東京から遠征している30歳のユリ(葛川友理),女の子と話すのが苦手だったが友達に誘われてアイドルコンサートに行ってから女の子と話せるようになり,今はユリの仲立ちもあってサオリという彼女がいる30歳のヤマシタ(山下耕平)。オカダの同級生でヤマシタのコンビニのバイトの先輩だった現在大学6回生のイシダ(石田達拡)。ドラマーのオガワ(小川晶弘)。もともとそのアイドルグループのオノミサという娘の推しだった点も〔全員ではなかったかもしれないがほぼ〕一致しているみたいだ。先に書いた各人の経歴のようなものは本人もしくは他の役者が前に出て話すという形式で進められていく。もちろん全員が参加しての会話場面もある。「僕が応援した娘は卒業する」みたいな台詞を言っていた人もいたな(笑)最後はリョウの卒業コンサートで5人が応援する場面で終わる。

 

この日がこの劇団初登場の上,朝一番だったせいか出だしは発声や滑舌が良くないと感じたが後半は良くなった印象。最後のオカダがバック転したり,ユリがジャグリングしたりするなど全員がヲタ声をあげながらアイドルリョウの卒業を応援するヲタ芸シーンが中々(笑)アイドルリョウは最後まで出てこない。あくまでリョウファン5人のみが描かれている。【作品紹介】に「早く大人になりたいと思っていた。ら、すぐになった。人気者になりたいと思っていた。けど、なれぬと気づいた。自分の才能を信じていた。のに、信じられなくなった。居心地のいいこの場所に、長く居すぎたかもしれない。」とあるように,モラトリアムの期間を生きる大学生や大学院生,もしくは30歳になり何者にもなれなかった彼らがアイドルを応援することに人生の意義を見出していく,もしくは何者にもなれなかった自分たちの果たせなかった夢をアイドルに仮託している作品という理解で良いのかな。。と書いたがそんな小難しいことを考えながら観ていたわけではない。私も縁があって昨年国民的アイドルグループのコンサート会場に3回足を運んだ(アイドルのコンサートに行ったのは人生で初めて)が40代,50代の男性ファンの姿が目立つ。作品中の彼らの年齢からするとちょっと早いような気がするが40代以上の男性で若い子(娘)の頑張っている姿を応援したい,という人は多いようだ。出演者の中にアイドルヲタの方はやはるのかな?学生劇団なんだ,と思っていたのだが小川晶弘さんなどは結構京都の小劇場界で活躍されている役者さんですよね。綱澤氏や於保氏,両新美氏がレポートにあげられている5人がラインをする場面などを中心として結構ウケていたように思う。『ヲサガリの卒業制作』という題名はアイドルリョウがアイドルを卒業するにあたって応援するヲタ芸を作ったことを指しているということでいいのでしょうね。

 

 

〇喜劇のヒロイン(日本大学)

『べっぴんさん、1億飛ばして』東京学生演劇祭推薦(実行委員部門大賞受賞)

カナダ(新美惠子氏は「アメリカ」と書かれている。私の記憶違い?)に留学していたカオリが帰国。探偵のマナブに依頼するところから物語は始まる。留学中のカオリのもとに家族の写真が送られてきたのだが2年前の写真と比べると弟のダイゴロウ〔の顔〕が別人になっている(入れ替わったダイゴロウは「メシまだ~?」「猫がいい」しか言わない)。帰国したカオリがそのことを母のユキエや妹のシマに指摘しても2人とも逆に「カオリがおかしい」と言う。だから「本物のダイゴロウを探してほしい」というのがカオリの依頼なのだが,そのうち探偵マナブが長期出張中の父親になり代わってしまったり,あげくのはてには飼い犬のポチが猫のタマになってしまう。シマはポチがタマになった段階でようやくおかしいと思ってくれるがユキエは相変わらずわかっているのにわかろうとしないのか本当にわかってないのか態度は変わらない。カオリはダイゴロウを探して商店街に行ってコンビニで働いたりティッシュ配りのアルバイトをしているダイゴロウに似ている人物を訪ねたり,カオリが直面している上に書いた状況とそっくりな作品を発表して文学賞を受賞したべっぴん三太郎というダイゴロウそっくりな人物に会ったりする。その合間にカナダ時代の彼氏?マイケルが日本に追っかけて来たり。。

 

まずは苦情から(笑)意図があるなら仕方ないですがキャスト(配役)の名前は劇中登場人物で書いてもらいたい。後からどの役をどの方が演じているのかわからない。作品についてふれると,会話のテンポが良くて観やすかった。役者さんの能力も劇団としての魅せる能力も高いと思います。シマ役の方が関西小劇場で活躍されている女性役者N・Kさんに「容姿も声質も雰囲気も似てるなぁ」と思って観ていました。また全作品を読んではいないので詳しくないのですがカフカ的な作品だな,というのが直観的な印象。『べっぴんさん、1億飛ばして』という題名と内容との関係性はわからなかった。

 

 

〇砂漠の黒ネコ企画(九州大学ほか)

『ぼくら、また、屋根のない中庭で』福岡学生演劇祭推薦(大賞/俳優賞受賞)

胸に草が生えている男(以下,「胸男」と書く)がベンチに座っている。そこに足に草が生えている男(以下,「足男」と書く)が杖を突いてやってくる。ベンチに座って「メダルを探しているが見なかったか?」と。胸男「見なかった」と答えるが,足男は「ここしかないはずだ」と言いはり,胸男が座っていた場所に挟まっていたメダルを見つける。メダルは町内のマラソンでとった銀のメダルだそうだ。しかしこの後足男は「メダルは自分のじゃない」と言ったり胸男に「メダルをあげる」と言ったり〔したような〕。胸男が〔確か〕メダルを投げ捨てるとちょうどそこに来た眼に草女(宮地桃子。以下,「眼女」と書く)がメダルを踏んでしまう。足男は眼女が自分のメダルを踏んでいることを咎める。眼女は眼を治してもらいに先生の所に行く。眼女が出てくる。眼が治っているが怒っている,というかパニクっ(混乱し)てヒステリック(錯乱状態)になってる感じ。曰く「見えていたものが見えなくなった」(この台詞は何となくは覚えているが明確に覚えていたわけではなく於保氏のレポートを参考にした)と。眼女が去った後,足男は胸男に「メダルを返して」と言う。この後も続きますが想い出せない。。すみません。

 

まずは苦情から(笑)重ねて書くが,意図があるなら仕方ないですがキャスト(配役)の名前は劇中登場人物で書いてもらいたい。後からどの役をどの方が演じているのかわからない。基本的には静かな劇で淡々と進んでいきます。時折,爆発シーンがある。しっかりと作品は作られている感じ。ただ観た順番が悪かったかなぁ。。朝から観劇の上,3番目の上演。疲れてきているし静かな部分が多いと眠気も誘ってきますから。。なおかつ直前に観た喜劇のヒロイン『べっぴんさん、1億飛ばして』の評価が個人的に高かったので。。「何を伝えたいのかなぁ」と思って観ていて最後は集中力がキレたかな。。胸に草が生えている男がどこが悪いのか最後までわからなかった。心臓なのか心(気持ち)なのか。う~ん。【作品紹介】にも「落としものを探す足の悪い男、目の悪い女、そしてもうひとり男がやってきた。」としかないし。。もう少しわかりやすくすれば作品としての大衆支持率も上がると思うし面白い作品になる要素は秘めていると思いますけどね。私は観ていませんが『シャニダールの花』という映画(予告は観ている)を想起しました。『ぼくら、また、屋根のない中庭で』という題名と内容との関係性はわからず。。

 

 

 

 

[Cブロック](2018年2月23日14時30分~上演時間約150分)

 

〇三桜OG劇団ブルーマー(仙台三桜高校演劇部OG)

『スペース.オブ.スペース』とうほく学生演劇祭推薦(大賞/観客賞/俳優賞受賞)

出だしはぐっさん(千石菫)・ガイ(熊谷美咲)・ノッチ(鈴木綾乃)・パルコ(相田千遥)の4人の女の子が〔合宿所を思わすような〕布団など敷いた散らかった部屋の中でジェンガのようなゲームをしている。〔確か〕パルコはチキンのようで中々ブロックを積めない―結構ここは時間を使っている―他の娘が「別に人生ゲームとかオセロで決着つけてもよいんだよ」とか「不戦敗でいい?」と言ってようやく置いたと思ったら,その瞬間にわざと崩す。この勝負は人数分に1個足りないスーパーカップアイスを誰が食べるかの勝負だったようだ。結局は分けあって食べたりしているのだが(笑)U(高畑希)が先に書いた状況の途中に風呂から戻って1人増えて5人になっている。アオバという隕石が落ちて地球が滅びる最後の日だそうで元地学部の女の子達が隕石を観測しつつここ数日一緒に暮らしているのかな。。「ミヤタ先輩に告白した」という話や『アルマゲドン』や『インデペンデンス・デイ』といった隕石が地球に落ちることや異星人が地球に襲来してくることを描いた映画のDVDを視たりしているようだ。レポートが明日までに提出なんだけど「地球滅びるからいっか」とかDVD返し忘れて延滞料金取られるけど「明日来ないからいっか」みたいな話をしたり。大統領の演説のマネをしていた娘もいたな(笑)時折隕石を観測する場面が描かれる。

 

世界最後の日のはずなのだがダラダラとした生活が描かれる。どう着地するんだろう?と思っているうちに集中力がキレたかも。。私は寝オチだと思ったんですが,於保氏や新美博康氏のリポートによると火鉢(新美博康氏によると七輪)があったそうですね。観逃していた。。新美惠子氏の書かれている「オープニングの心臓の鼓動を思わせるようなパフォーマンス」や於保氏の言われる「しかし、結末に近づくにつれて、時折みせる不気味で、不可解な表現に気がつきます。演劇の最初、音楽にのせて、肩を不気味に上下させるシーンがあります。」は覚えているんですが。。火鉢(七輪)を観逃したせいか繋がらなかったですね。『スペース.オブ.スペース』という題名と内容との関係性はやはりわからず。。「スペースコンマオブコンマスペース」なんですよね。。

 

 

〇LPOCH(京都教育大学)

『溺れる』京都学生演劇祭推薦(審査員特別賞受賞)

小学校の先生をしている油野(生きて届かない乳酸菌)は子供のころ人とうまく話せなかった。蛯名(田浦佑海)という女の子が転校してきて隣の席になる。蛯名とは普通に話すことができた。油野がシロツメクサのネックレスの編み方を蛯名に教わってきたときに乾電池が飛んできて油野の頭にあたり油野は頭から血を流す。油野が病院へ行った時も蛯名は詳しい状況を見ていなかったのだが油野の代わりに説明をする。次の日油野は医者に行ったため2限目から登校。教室に入ることが中々できない。蛯名が内側からドアを開けて迎え入れる。油野夢から覚める。この日偶然13年ぶりに蛯名と再会。蛯名は土建屋で働いてる。蛯名は油野が小学校の先生になっていると知って「油野学級か~。すごいね。」と。上記の中にオランダ出身のアメリカの絵本作家レオ・レオニ作の絵本『スイミー』の文章を油野が朗読する場面が時折挿入される(小学校の授業中?)。油野には常にユノ(青倉玲依)が守護霊のようにつきまとっている。時折油野は息苦しそうな顔をする。言葉が出てこない感じ。最後は蛯名が「私が話してばっかりだね。今度は私が聞くね。」と言う。油野は「僕が学校の先生になったのは僕みたいな子を救うため」で了だったはず。カーテンコールの時に場面緘黙症という症状のことが簡単に説明される。

 

当日パンフレットと一緒に場面緘黙症と緘動(かんどう)について書かれた封筒が附いていました。封筒の中の説明書?によると,場面緘黙症とは「ある特定の場面や状況で話すことができなくなる精神疾患」。緘動とは「極度の緊張のまま身体がフリーズする。動きが鈍くなったり、全く動けなくなってしまうケースも」あるとのこと。個人差はある(原文は「人それぞれですので、全員が全員上記の通りとは言えませんが。」とある)との但し書きはありますが。。場面緘黙症の例としては「親や家族には口達者。でも,学校では全く話さない」というものがよく挙げられるらしく。。「少しでも、少しでも多くの方に『場面緘黙症・緘動』という特性を知ってもらいたく演劇というフィールドを使用し、伝達を行いました。これをきっかけに、油野のような人が世の中にいるんだなぁ,と感じていただいたり、興味関心等抱いてくださりますと幸いです」とのこと。私自身午前中に医者などに行って学校に遅れた時に教室に入るのに勇気がいったり,普段ペラペラ話しているくせに肝心なことは言えないところがあったりしたのでその辺は共感できましたね。。ただ観てる途中はずっと「ユノは何なんだろう?」と思ってました。言葉が思うように出てこないことを「溺れる」と表現したのだろうが観劇中はちょっとわかりにくいと感じたかな。。最後の場面で〔確か〕油野がユノをドケるような場面があったはずですがそこで漸くわかった感じ。何で主人公の苗字を「油野」にしたんだろう?油は水に浮くからかな?というのは考えすぎ?(笑)『スイミー』が挿入されるのは,兄弟がみんな赤い魚だったのに,スイミーだけが真っ黒な小魚だったことが自分だけ他人と違う,疎外感があることが油野と重なるからでしょうね。そしてスイミーが自分自身の居場所を見つけたように油野も最後は自分の居場所を見つけた,という理解でいいのかな。。

 

 

〇はねるつみき(岐阜大学ほか)

『昨日を0とした場合の明後日』名古屋学生演劇祭推薦(大賞/観客賞/審査員賞受賞)

稽古場のようなところに男が1人と女が2人。そこに女が入ってくる。入って来た女が「何かおかしくない?」と言うがみんな無視してる。入って来た女はしつこく何回か言い「何で無視するのよ」と絡んでいく。絡まれた人間は「アタシに言ってたんだ」みたいな返しをしている。そして全員が徐々に衣類を脱ぎ散らかしていく。

(転換)

二人の人間が生き残った。幸いにも男と女。生命を生み出すことができる。生命を作り二人の子孫は「カミ」と呼ばれた。あるところ。ハラダトモカとヨコチンと呼ばれているハルカが「ディスティニーランド行った?」とか「今のこの星の人間は最初の二人から分かれたんだから全員神の子孫じゃね?」とか話している。トモカ・ハルカはデモに行こうとする。男(山本慶)が「デモに行くの?」と声をかけてくる。「デモなんて行くなよ」と。トモカ・ハルカは男に取り合わずデモに行く。トモカはボルダリングで18階建てのカミの住まいに侵入。トモカもカミも二人とも18歳ということがわかり意気投合。その頃ハルカは男に声をかけられ誘われて男の部屋について行った。男の部屋を出るときに男は「俺達付き合ってるよね?」「え?」「付き合ってないなら何で俺の部屋来たの?」と。ハルカは今いる彼を振って付き合うことに。男は「デモなんて行くなよ。みっともないよ。毎日僕の勤め先から君がデモをしている姿を見ていた」と言う。原田は神千可という名のカミのところへ。数年前に行われた神千可が神に就任する式典で千可は4歳の時に父親が殺されたことを明かし「私もいつか殺される。」と発言する。トモカはハルカをデモに誘うがハルカは断る。ハルカは「男に翌日フラれた」と。しかしまた男に「付き合って」と告白される。なぜか男の言いなりになってしまうハルカ。そんなハルカに憤るトモカ。神千可は自分の彼氏とトモカをシェルターに送りウルトラスーパーミサイルを発射する。世界は滅びる。

(転換)

場面が最初の稽古場らしき場所に戻る。脱ぎ散らかしていた衣類を着ていく。女が「何かおかしくない?」と言っているのはこの場面が前にもあったよね,ということ。そしてまた70億年前と同じ歴史が繰り返される。2回だけではなくこの星では同じ歴史が何度も繰り返されている。

 

まずは苦情から(笑)重ね重ね書くが,意図があるなら仕方ないですがキャスト(配役)の名前は劇中登場人物で書いてもらいたい。後からどの役をどの方が演じているのかわかりにくい。観終わった後に想起したのは手塚治虫の『火の鳥 未来編』。「ディスティニーランド」というのが会話で出てきたはずだが直訳すれば「運命の土地」。ディズニーランドのパロディなのはわかるのですが内容のことも考えて「ディスティニーランド」としたのかな?新美博康氏が「脱ぎ捨てられた服を着てまた脱ぐように、僕たちは人類創生の頃から、同じ歴史を繰り返しているんだろうか。」と書かれていたのには「なるほどなぁ」と。『昨日を0とした場合の明後日』という題名と内容との関係性はわかるようなわからないような。。昨日が終わって(リセットされて)明後日は加算(プラス)されるのかされないのか。仮に乗算するなら0に何をかけてもずっと0。何も変わらない。。ということ?

 

 

 

[Aブロック](2018年2月23日18時30分~上演時間約170分)

 

〇劇団宴夢(酪農学園大学)

『熱血!パン食い競走部』札幌学生対校演劇祭推薦(最優秀賞/審査員賞/一般審査賞受賞)

出だしはパン食い競走部のエース梶原(梶原正樹)が吊ってあるメロンパンに届かないところから始まる。すっかり意気消沈して諦めてしまう梶原。そんな梶原に熱血指導を行う監督(高橋永人)。部員は東北からパン食い競走が盛んな北海道(北海道でも梶原と小松の2人しかしていない)にわざわざやってきた小松(松田弥生)とマネージャー(阿部七菜子)。そして先生を殴ってペナルティで入部させられている森本(森本周平)。森本はあまりのくだらなさに「やってられるか」と一度その場を去るが監督は「必ず帰ってくる」と予言。なぜなら監督が森本から財布を盗っていたから(笑)帰ってきた森本は財布を返してもらおうと監督を殴ろうとするが「殴ればまたペナルティだ」の監督の言葉にやむなく入部を受け入れる。監督の熱血指導は「パン食い競走部たる者,米を食べるな」と食生活にまで及ぶ。梶原と森本は苦しみ悩みながらも手に持っている大きな握り飯を地面に置くが,穀倉地帯東北地方出身の小松は肯んぜず逃走する。結局ぐるぐる巻きにされて連れ戻されるのであるが(笑)監督は「最後の〔愛情を込めた気合い入れの〕パンチだ」と言って梶原を殴る。監督のその想いと部員たちの応援を背中に受けて梶原は最後にメロンパンに届くのであった。しかしその感動的なシーンの後,無情にも「翌日パンくい競走部は廃部」とナレーションが流れる。これがオチ。教育委員会などが廃部を決めたと言ってたはず(笑)

 

観ている途中「審査委員賞は取れない内容だな」と思った(笑)ストレートすぎる(笑)前の上演劇団との転換中に主にスポ根アニメの主題歌が流れており,雰囲気は1970年代(昭和40年代~昭和50年代)のスポ根アニメや熱血教師ものの感じでした。上演中も結構ウケてましたね。私の周りの客も「これはわかりやすいな」「こういうなんもないとな」と上演後に話したはりましたし(笑)出演者全員太く眉を書いて田舎っぺな感じも出したはりました。北海道民は公演中おもしろくても笑わないと北海道の劇団の方に聞いたことがありますがこの作品はどうだったんでしょうね?主人公の梶原の名前は漫画『巨人の星』や『あしたのジョー』の原作者の梶原一騎から?他の部員の名前も何か意味があるのだろうか?

 

 

〇フライハイトプロジェクト(早稲田大学、東京藝術大学ほか)

『今夜、あなたが眠れるように。』東京学生演劇祭推薦(審査員部門大賞受賞)

舞台美術は中央にベッド。ベッドを囲んで四隅に椅子。時の経過や緊急性を表しているのかベッドの周りを全員が走る場面が何度かある。出だしは「余命一年」「十月十日」という言葉から始まる。ゆり子(谷生彩菜)と母の八重(増田野々花),ゆり子の夫のたかひろ(前田達之介),由里子とたかひろの娘わか葉(椎木優海)の物語。時系列というわけではなく断片的なシーンが演じられ徐々に物語が繋がっていく。ゆり子は母八重との母子家庭で育つ。ゆり子は八重に迷惑をかけまいと国立大学に進学し卒業。社会人となる。その後交際しているたかひろを家に連れてきて八重に紹介,ゆり子はたかひろと結婚する。しばらくしてわか葉が生まれる。わか葉が小学生の頃,たかひろの一家は八重の家に同居することになる。わか葉は転校することになった。機嫌よく学校に行っていたわか葉がしばらくして学校に行かなくなる。ゆり子が無理やり行かそうとしてわか葉と溝ができたみたい。それ以来,わか葉はずっと母親のゆり子と寝ていたが祖母の八重と寝るようになる。八重が倒れて入院。お見舞いに行くゆり子とわか葉。最後は八重が亡くなる。

 

転換の際に開演が遅れた。遅れてきた客待ちだったみたいでイラッとしていたのだが舞台上に出て来て四隅に座って待機している役者さん達の佇まいを見ていると「これは良くなるな」と感じたことを覚えている。【作品紹介】には「八重から産まれたゆり子。ゆり子から産まれたわか葉。三代にわたる、女性の姿。物語は八重の最期の日を描き出す。時間とともに変化していくこと。時が経っても変わらないこと。母から子へ、繋いでいく想いとは。」とあるが「そんな大げさなものではない」とは思った。ただもう少し時間を延ばしてわか葉が学校に行かなくなった理由などエピソードを追加すれば長編作品としてそれなりにおもしろい作品にはなりそう。「余命一年」「十月十日」という台詞などが被っているが八重が死んだと同時にわか葉が生まれたと誤解されないかな?とは最後の場面で思いましたね。一瞬混乱したというか。〔確か〕八重が言った「わか葉とゆり子は似てる。」という台詞が妙に記憶に残っています。ゆり子(谷生彩菜)役とたかひろ(前田達之介)役の方の配役が合ってると感じました。神田氏の言われるような『あゆみ』のパロディとは思わなかったな。。オリジナルの『あゆみ』を観ていないので何とも言えないですが。。(私が観たのは2015年5月31日(日)の劇団しようよ『あゆみ』と2016年4月23日(土)に観た同志社小劇場の『あゆみ 長編ver』。劇団しようよのは走ってるというより舞台をぐるぐる歩いてたのが記憶に残っている)私が過去に観た作品では2月7日(日)に『大大阪舞台博覧会』で観た南河内番外一座「ヤング」『父帰る』に似てましたね(走るところが)。

 

 

〇元気の極み(大阪府立大学×大阪大学×神戸大学)

『せかいのはじめ』大阪短編学生演劇祭推薦(最優秀賞/スタッフ賞/観客投票MVP賞/審査員MVP賞受賞)

中尾多福の一人芝居。客席から登場。中尾が演じるのははじめという女の子。兄が母親の胎内で死んだため兄につけられるはずだったはじめという名前が妹につけられた。生まれる前に父が死んでしまった(これは観劇後に記したメモにあったが記憶が今はない)。はじめの誕生日(一歳のかな?)のお祝いをしているが「おれはまだ眠いんだ」と言ったり。中尾が自分自身を演じる場面っぽいこところがあったりはじめの話と現実の話が交わったりしている。また堀口大学『メーテルリンクの青い鳥』や太田省吾『更地』,ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』などの戯曲の台詞がその時々に合った台詞として中尾の口から語られる。映像をかなり使ってました。

 

「説明読んでいてもよくわからない」と上演前に周りで話しているお客さんがいた。確かに【作品紹介】の「ここ、ロームシアター京都は2016年にリニューアルオープンしたそうです。私は1998年に生まれました。この演劇祭は今年で第3回目だそうです。……いつか終わりは来るのかな。私はこの劇場で、この演劇祭で、演劇をする。わたしはそうして生まれ、そうして死ぬ。せかいのはじめ。」を見ても何をやるのかわからないですよね?(笑)大阪短編学生演劇祭の時はロームシアターではなくてシアトリカル應典院だったらしい。やはり上演した会場をネタにしてはるんですね。少し長かったかな。。20分くらいの方がスッキリ観れたかも。ちょっと後半飽きた感じ。。脚本/演出の中村奏太氏のTwitterに「全国学生演劇祭、全団体観ました。参加側ですが、個人的に好きだったのはフライハイトプロジェクトと喜劇のヒロイン。・・・単純に、今回僕が泣いたところと笑ったところです。」とあったり「その作品の深いところを見たり、価値を発見したりするところまで、じっくりと観劇出来る力はなかったので、直感的にというか、心も身体もまかせてその世界に浸ることができたのが、この二団体でした。スマートめなのが良かったのかな。」と書かれていたので今回の参加劇団の中では私の評価の高かった劇団と好みが同じなんですが御自身が脚本/演出される時にはわかりにくいものを作られるな,とおかしかったです(笑)役者の中尾さんは存在感ありましたね。劇団六風館を観に行く楽しみができた。

 

 

〇楽一楽座(徳島大学)

『Say!Cheese!!』四国学生演劇祭推薦(第1位獲得)

作品の中に劇中劇が私の勘定では八作品(お互いが繋がっているものもある)も出てくるという煩雑さ(笑)登場人物の名前だけでも覚えるのが大変(笑)出だしは戦場もの。クレージーファンタジーミヅキ(小笹優歩)の名前がやたら覚えている(リョウスケ隊長とかもいた気が。。)。5分くらいで〔確か〕全員死ぬのかな。。で,これが劇中作品でこの後まだ脚本を書けていないと脚本家が言う。劇団コペルニクスの公演なのだが脚本家は御祖母ちゃん子らしくて他の男性劇団員が責め立てると隠れてしまう。「劇団員が裸踊りしたら出てくる」とか言っている。で,この後脚本家は

①卒塔婆背負って「吐瀉物南無阿弥陀仏」と葬式でラップを歌うお坊さんの話。

②性欲について。サタンを呼び出すんだったかな?「エロイムエッサイム」と唱える話。

③バンドをしている2人の男と1人の女。男2人とも女のことが好きみたい。女は片方の男が好き。それがわかった好かれていない方の男が好かれている男に走り去った「〔女を〕追えよ!」と言う青春バンド物語。

④グランドマザーという星を被っている女性が登場。被ってる星が〔確か〕爆発した話。

⑤バンドのコンサート。リーダーカンタが新バンド名を発表。「マシカク」と。そこにメンバーのヒナコとミヅキが自分たちの結婚を発表。ミヅキには新しい命が宿っている,という話。

⑥セイテン(このメモが思い出せない)僧シュンカイを仏は「シャンハイ」と呼び間違える。蜘蛛の糸の話。

と書き上げて劇団員達に「飯食いに行こう」と言う。真面目な男性劇団員は「待てよ!このままやるのか?真剣な部分も入れよう」と。それを拒否する脚本家。実は脚本家の御祖母ちゃんが亡くなっていた。「御祖母ちゃんが笑えるものを作りたかったんだ」と言う脚本家。裸踊りをする真面目な劇団員。で,この後

⑦人生拷問中,とメモってるのでもう一芝居してるんですよね(笑)最後は最初の戦場芝居に戻ってリーダータケシがクレイジーファンタジーにペンダントを託す。「あなたがいない世界でもこの子の名前はタケシ」と言って終了だったはず。

 

出だしに若干,滑舌悪くて何を言っているか聞き取りにくいところがあったかな。。【団体紹介】の「劇団マシカク」や「月刊コペルニクス」を劇中に使っていましたね。『Say!Cheese!!』はカメラを撮る時の「はいチーズ!!」という意味。。狭い意味では御祖母ちゃんに「笑って!!」ほしい,広い意味では観客の皆さん「作品を見て笑って!!」という意味で良いのかな?

 

 

 

 

 

≪総括≫

神田氏が「全作品を観終わって、どうやら現代の学生たちのなかには『世界を終わらせたい』という欲望が潜んでいるように思えた。」と書かれていたので思い出したのだが「終末を感じさせるモチーフが多いなぁ」と感じた時があった。どこの時点で思ったのかな?たぶん[Cブロック] のはねるつみき『昨日を0とした場合の明後日』を観終わったときかな?「よく似てるモチーフが多いな」と。あと,綱澤氏が書かれていたので私が誤解していたことに気がついたのですが最初三桜OG劇団ブルーマー『スペース.オブ.スペース』の隕石の青葉とフライハイトプロジェクト『今夜、あなたが眠れるように。』の娘わか葉をどっちもワカバと思っていて「被ってるやん」と(笑)後述しますが激烈な腰痛の上,各公演中の合間にメモをしたものを参考に書いているのですが記憶違いも幾つかあるかもしれません。失礼があったらお許しを。ご指摘いただければありがたいです。

 

役者については,演技がやはりまだ若いな,と思うこともありました。特に滑舌や発声,もしくは台詞を言う時に聞かせたい台詞が流れてしまってるということを感じましたね。もちろん,皆さん上手いのですが上には上がやはりますしより上位の役者と比較するとそういうところがあったかな,と。偉そうにすみません。

 

観客賞順位(得点)は

 

1 喜劇のヒロイン4.37

2 フライハイトプロジェクト4.19

3 LPOCH3.94

4 ヲサガリ3.85

5 はねるつみき3.84

 

だったんですね。私は最初から5をつけないことを決めていて,フライハイトプロジェクト『今夜、あなたが眠れるように。』と喜劇のヒロイン『べっぴんさん、1億飛ばして』だけが4点(フライハイトプロジェクト『今夜、あなたが眠れるように。』の方が個人的には総合的に好みでした。ただ神田氏が「題材がありふれたものである場合、提示の方法を魅力的なものにしなければならない。しかし、提示の方法もたとえば演出によって(『意図的に』という意味で)役者の個性が死んでいて、長くは耐えられない。同じような場面を少しずつ変化させていくが、その変化は我侭な観客の眼を惹くほどのものではなかっただろう。」と書かれているのも「なるほど」と納得),それ以外の劇団は3点をつけました。期せずして(私は上演前に基本劇団の情報やあらすじなどは読まないし読んだとしても忘れるようにしている)東京の劇団が4,それ以外の劇団は3になりました。以前,観劇好きの方と話していた時に「東京の劇団はどこもスゴイい(しっかりしたものを作っているという意味)が関西は一部の劇団だけでしょう」と言われていたのを思い出しました。少なくとも私の感覚に総合的にあったのは東京の二劇団でした。3位と4位に京都の劇団が入っているのは地元票もあるのかもしれない(失礼な言い方になっていたらすみません)。

 

結局観客が思うことは同じなのかもしれない。わかりにくい話よりもわかりやすい話の方が好きなんですよね。でもわかりやす過ぎるとやや不満が残る。自分が共感できるものや若干ヒネりがきいていて「やられた」と思わせる作品に人気が集まるような気がします。

 

以上,『第3回全国学生演劇祭』会場のロームシアター京都 ノースホールからの報告でした(笑)

 

あらためまして参加劇団,スタッフの方々お疲れ様でした。そして観劇させていただきありがとうございました。拙いレポートですが読んでいただいたり参考にしていただければ幸いです。

 

最後に私事ですが。。観劇前日に激烈な腰痛に襲われ,キャンセルしようかと思ったのですが何とか全作品観劇することができました。座席にフワフワのシートのようなものが敷いてあって助かりました。また,しばらく腰痛が続いたため長時間着席することができずレポート提出が遅れたことをお詫びいたします。事務局の沢大洋氏,並びにスタッフの皆さんをお待たせして御手数おかけすることになっているかもしれません。あらためてお詫び申し上げます。

観劇レポート 新美博康さん

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2018.3.6

第3回全国学生演劇祭の演目を観劇し、舞台の模様を広く伝える”劇評/レビュー”を書いていただく方を募集しレポートを書いていただきました。

 

新美 博康さん

三重県東員町。NPO法人むうの木監事。

現在はまだ本格的な活動はしていませんが、活動の一環に劇団活動もありまして

将来的に舞台製作を考えています。ここ数年、高校演劇など多数の演劇鑑賞を行い

日本の演劇活動並びに演劇の素晴らしさを伝えていきたいと思っております。

 
 

 

Cブロック 三桜OG劇団ブルーマー

「スペース.オブ.スペース」

 

アオバが本当に地球滅亡のカウントダウンと思っていたが、

舞台奥に赤黒く光る七輪を見つけた時、

僕には、これは女学生達の集団自殺なんじゃないかと思った。

 

この先どうせ死んでしまうなら、自分達で人類最期の日を面白おかしく演じてみないか、と。

 

ともかく、現実に明日が自分にとって最後の日なら、自分ならどうするかと考えた。

確かに欲望のままに自暴自棄になる自分もいたがそうでない自分もいる。

そう考えたとき、この舞台から終末の1日、世界中の1人1人がどうするのか、と。

 

来るべき最後の日まで、獣のようになるか、人としての品格を持って生きるか。

 

女学生達が明るく振る舞えば振る舞うほど、その悲哀が深く増長されていく。

広く、深く考えさせてくれた作品でした。

僕的に今回の観劇で最高の作品の一つです。

 

あ、そうそう。

スーパーカップの話でひとつ。

舞台観劇前のある日、ある人と話しているときにスーパーカップの話になって。

僕が知ってるスーパーカップはラーメンの方のスーパーカップで。

その人はアイスの方のスーパーカップと思って話していて。

なんか話が噛み合わないなと思っていたらお互いがお互いにもう片方のものを

知らなかったっていうオチでした。

おかげで僕は今回のスーパーカップがアイスのそれを指していることを学習して

観劇日当日に来ることができまして(笑)

そういう人、いますよね。

 

 

Cブロック LPOCH

「溺れる」

今回観た6作品の中で、唯一感動した作品。

教育大学さながら、場面緘黙症というものを分かりやすく知ってもらうには

どうしたらいいかという思いが伝わってきました。

 

僕も似たようなところがあったりして、

周りとのかかわりあいは苦手なほうなんですが

同じ境遇だからこそ理解できるという意味でとても共感しました。

 

滴の落ちる音から始まる、油野×ユノの「溺れる」瞬間は秀逸だったし、

エビナさんのあっけらかんとした性格は一層油野の心の輪郭をはっきりさせていた。

手首につけた手甲の色はそれぞれの性格を顕し、

またその長さは水の流れる感や心の惑いを上手く伝えていた。

シロツメクサの冠は、都会ではない田舎の広い野原を想像させた。

当初、エビナさんが油野を溺れる境界線から引き上げたと思っていたが、

エビナさんも油野に引き上げられていたこと。

最後にユノが1人の生徒になり、油野がマスクを外し大丈夫だからと

やさしく語りかけるシーンは今までの自分からの解放を想起しました。

 

LPOCHの皆さん。

頂いた封筒、しっかり読みました。

ありがとう。しっかり伝わりましたよ。

 

 

Cブロック はねるつみき

「昨日を0とした場合の明後日」

 

岐阜大かあ。ふと、そういえばと思った。

 

昨年の全国高等学校演劇大会に出場した岐阜県加納高校の

「彼の子、朝を知る」を思い出した。

というのも内容が類似している訳ではなく、

正直僕には難しく、分かりにくかったという意味で。

 

脱ぎ捨てられた服を着てまた脱ぐように、

僕たちは人類創生の頃から、同じ歴史を繰り返しているんだろうか。

 

変わらない現実を理解した今日という日を踏まえ、明日を描こうとする行為。

意味のある答えを求めても所詮はその繰り返し。

漠然とではあるけどそんな今日という日の無力感から、

明日貴方はどう生きるかと問われている気がした。

 

アーチピローを頭につけたかみ。

18階をボルダリングでよじ登ってくる女。

スクリーンに映される「爆」の文字。

首を絞めると感度が良くなるからと勝手な理由をつけ、女を殺そうとする男。

ねえ、おかしいと思わない?

 

うーん…わからないなあ。

 

とりあえず、ウルスラルで世界リセットしてもいいですか?

僕も神の子なんだから。

 

 

 

 

Bブロック ヲサガリ

「ヲサガリの卒業制作」

 

僕が中学生の頃、今で言うところのゲームおたくやアニメおたくみたいな

小グループの集まりがあったのを記憶していて、

僕も含め、当時はちょっとキモい存在で敬遠されていたように思う。

それから30年。

マイノリティなオタクのレッテルがこうも変わるとは、予想もしなかった。

 

これはでも、今ご時世の舞台だからの面白さがあると思う。

気がつけば年も重ね、アイドルを一途に追っかけ続けた自分に、

推しメンの卒業は、社会から現実逃避をしてきた、

そんな自分の現在を振り替えさせる。

いやそんなことはない。決して今までの僕らのやってきたことは

間違いではないんだと。

 

まあアイドルの存在をロックスターに挿げ替えたとしてもやってることは

遠かれ近かれさほど変わらないのかもしれない。

そういう意味ではもともとそんな卑下されることもない。

 

携帯メール(おそらくLINE)を読み上げるシーン、笑わせてもらいました。

最後のサイリウムでのダンス?シーン、真っ正面から見させていただいたんですが、

舞台上に立つアイドルから見える光景を垣間見れた気がして面白かった。

ちょっと普段では見れない貴重な体験でした(笑)

京都で人気の舞台「GEAR」をオマージュしていたのかジャグリングやバック転も

GEARに行かなくても観れました(笑)

 

ちなみに普段の様子そのままを舞台で披露したわけではないですよね?

それはそれでリアリティのあるものが観れてよかったと思いますが(笑)

どっちにせよ、声を大にして自分が好きなものは好きだと公言できるっていいなあ。

 

 

Bブロック 喜劇のヒロイン

「べっぴんさん、1億飛ばして」

 

昼下がりの午後、お腹も満たされて眠気がピークに達したこの時間。

ウトウトしていたせいもあり、内容が十分に掴めなかった。

 

どうしても、姉の記憶が正しいという目線で見てしまい、話しが進めば進むほど

どちらが本物のダイゴロウなのかというジレンマに苦しんだ。

いつも当たり前の事が当たり前じゃない。人ってこんなに廻りの人に依存しているんだ。

 

探偵が母と結婚して父になっているのも奇想天外な話しだが、

そもそも始めから割烹着を着た男母が吉本新喜劇に出てくるような役者なんだから、

もう何でもあり。面白く見るしかない。

 

ウトウトしていた自分と掛け合わせ、「そうか全ては夢だったんだ」と言いたくなったが、

前ダイゴロウ。君が本物のダイゴロウであって欲しかった(笑)

あと、妹役の役者さん、普段もあんな感じで笑ってそう。凄くナチュラルでした。

もう一度見たい作品の一つ。

 

 

Bブロック 砂漠の黒ネコ企画

「ぼくら、また、屋根のない中庭で 」

 

脚本がそう思わせたのかもしれないが、とても学生たちが演じてるようには

見えなかった。三者三様、色を上手く表現していた。

 

始まりから、静かに淡々とした調子で進んでいった感があった。

「僕は、足が悪いから」

繰り返されるこの台詞が記憶に残った。

 

それぞれの身体に絡まる蔓が、傷んだ体の箇所を想像させた。足、目、心…。

心の役どころの意味するところがわからない。

わからないながらの帰り道、ふと思った。

これはこの3人で、1人の人間の心の動きを表してるんじゃないか、と。

 

自分に言い聞かせるように、エクスキューズを繰り返し、

見えない世界を都合の良いように自分色に塗り替える。

 

居心地の良い庭が決して良い訳じゃない。

そんな葛藤を僕らは繰り返している。

それが、人生なのか。

観劇レポート 新美惠子さん

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2018.3.5

第3回全国学生演劇祭の演目を観劇し、舞台の模様を広く伝える”劇評/レビュー”を書いていただく方を募集しレポートを書いていただきました。

 

新美 惠子(ニイミ ケイコ)さん

三重県

特定非営利活動法人 むうの木

理事長 新美 惠子

法人内にて、「劇団 むう」に於いても、代表を務める。

“設立趣旨/私たちは、演劇活動を通じて創造性や道徳心を育み、人と人とのコミュニケーションを大切にし、豊かな心を育てる事を目的とします。

この度は、演劇レポートをさせて頂きありがとうございました。

厚かましくも色々書かせてもらいましたが、本当に楽しかったです。

私のレビューが、少しでも学生演劇界のお役に立てますように。

 

 

C block1

Name 三桜OG 劇団ブルーマー

Title スペース・オブ・スペース

 

レビュー

今回一発目の観劇でした。

C、Bと最終組まで観て、帰りに心に強く残ってたのは、この作品でした。

採点では 4ランクを付けてしまいましたが、今更ですが5ランクをあげたいです。

先ずは、オープニングの心臓の鼓動を思わせるようなパフォーマンスは、今から何が始まるのか!という、観客までものドキドキ感がありました。

そして、直ぐに何処ででもある様な女子会トーク、ギャップが良かったです。

ぐっさん、ガイ、ノッチ、Uコ、パルコ、ひとりひとりのキャラもシッカリ立ってるので、入り込みやすかったです。欲を言えば、ダンスとか歌とかのシーンを少し減らして、女子会トークで一、二度は爆笑をとれたら、最後の寂しさがもっと増して、涙が誘えたのではと思いました。でも、ラストへの持っていき方良かったです。

惑星アオバの激突は現実なのか、一酸化炭素中毒集団自殺する為に創りあげた妄想なのか、謎のまま終わったけど、そのあたりは私の好きな終わり方でした。拍手。

 

C block2

Name LPOCH

Title 溺れる

 

レビュー

場面緘黙症という障害のことを初めて知りました。

大体の人は心あたりのある感覚なのでは無いでしょうか。

しかし残念ながら、私は持ち合わせていない感覚だったので、始めの方はしっくり来ませんでした。でも、お芝居と“水の音”が組み合わされることで、ストーリーが進むにつれて、湯野の苦しみが伝わってきました。これは、演劇という生の舞台でしか伝え難いモノでは無いかと思いました。青倉玲依さんが体験された事だから、この表現方法を思いついたのでしょうね。素晴らしいと思います。

湯野役の方も、演技がとても良かったです。蛯名役の方も、キャラがしっかりしていました。湯野と蛯名の正反対キャラがしっかり際立っていました。

衣装もスイミーというイメージも付いた設定と色でわかりやすかったです。

設定が判り易いと、より深く内容に入っていけます。その点では素晴らしく良かったです。

自分の障害の経験は、後に出会う人の力になって行く!

素敵なラストの表現でした。拍手。

 

C block3

Name はねるつみき

Title 昨日を0とした場合の明後日

 

レビュー

タイトルからは、何も想像出来なかった。

唐突に、脱ぎ散らかされた衣類や靴を着ながらと、スクリーンに映し出された言葉や(爆)の文字。展開が理解出来ぬまま、ストーリーは続く。

「新キャラです」と呟きながら、“カミチカ”として登場。少し会場から笑いがおこって。

ここまで来ても、何を表現したいのか、まだ解らない。

女子二人デモの参加。それを止めさそうとする男。

女子一人ヨコチンは男に誘惑されて、デモから外れる。

デモ、なんの?ミサイル反対?

もう一人女子トモコは、カミチカにこの世界を終わらせた後も生き延びる選択を迫る。

カミの就任式、オタ芸ダンス。

そして“ウルトラ・スーパー・ミサイル”がカミチカの手で発射され、世界が終わる。

のちに、生き延びた者たちにより、また世界を創り出す。

ラストでまた舞台を始まる前の状態に戻した(衣類や靴を脱ぎ散らかした状態)

と、私は書きながら、作品を思い出していくと何か掴めるかと思いましたが、やはりそれ以上のモノは出て来なかった。

「人類が何億年もこのサイクルを繰り返しているのだ」と言っているのだろうか。それにしては、深さと広がりが無さ過ぎる。

残念ながら、観ていて彼等の伝へたいモノが理解出来なかった。

申し訳ない。

 

 

B block1

Name ヲサガリ

Title ヲサガリの卒業制作

 

レビュー

アイドル“リョウチン推し”のオフ会。

折角のオフ会が、リョウチンの卒業オフ会になってしまったという、“んなことある?”って、なんか悲しいけど“あるある”の設定が親しみを感じる。

ひとりひとりのキャラ設定、しっかりしていた。出来れば、もっと単純に判りやすい友人同士の繋がりの表現法が欲しかったかな?折角の設定が伝わり難いと思いました。

アイドルオタクの世界って全く解らなかったけど、時間やお金を費やしても夢中になれる思いを、少し理解出来た事が、観てて嬉しかった。

「負け惜しみCongratulations♫」のオタ芸、ジャグリングやバク転などのシーンは、楽しかった!

それと、なんと言っても、言葉でLINEを表現するシーンは本当に凄かった!

今は映像でメールなどを表現するシーンは結構あるけど、舞台でしかもスタンプや画像を表現するのは新しい!このシーンはもう一度観たいと思いました。拍手。

 

B bloc2

Name 喜劇のヒロイン

Title べっぴんさん、一億飛ばして

 

レビュー

これは、最初から面白かった。

妹シマの笑い声は最高でしたね。

アメリカに留学中の姉かおりの元に送られて来た家族写真から、事件は始まった。弟ダイゴロウが別人になっている設定は、起こりとしては面白い。

ダイゴロウが何故、どこですり替わったのか、なぜ母や妹は気付かないのか、面白すぎて釘付けになりました。

コンビニ店員や、作家になってるダイゴロウ。謎が増す。

さらにスケベな探偵がまんまとお父さんになってるし、時々登場するかおりの恋人のアメリカ人。出番の空きで入れ代わりしてこなしてたところもアイデアですね。1名役者を増やすより、全然良いです。

ポチがタマに変わった時は、ポチに同情心さえ湧き悲しくなりました。

ラストの終い方も、完全に夢では無く、曖昧に終わらせた感じが私は好きです。

ところで、ダイゴロウ、本当はどっち?

 

B block3

Name 砂漠の黒ネコ企画

Title ぼくら、また、屋根のない中庭で

 

レビュー

胸に草花をあしらえてる男

片足に草花をあしらえてる男

両目に草花をあしらえてる女

その草花のあしらえてる場所に欠陥があるというのであろう。

衣装の表現法は目を引きました。常にそこに心の眼が向いていると感じられて、ストーリーが理解し易い。

三人ともとても演技力があると思いました。特に足の悪い男の方の見えてるものが、自分にも見えて、舞台に立ってるような感じさえしました。

彼等にとってメダルとは、過去の栄光。

何でも治してくれる先生に会える中庭は、唯一安堵できる場所。

でも、そこから一歩踏み出す勇気は無い。

しかも、両目を治してもらった女は気がふれてしまった。

足の悪さも現実逃避の理由にしているのか。

しかし、一番恐くて危険なのは、見た目では解らない心を病んでるモノだと、改めて感じさせられた作品でした。

そして、欲を言えば、もっと深く闇を掘り下げ、アイデアにて意外性のある作品に繋げていける作品ではないかと思いました。

観劇レポート 於保匠さん

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2018.2.28

第3回全国学生演劇祭の演目を観劇し、舞台の模様を広く伝える”劇評/レビュー”を書いていただく方を募集しレポートを書いていただきました。

 

於保匠(おほたくみ)さん

 京都大学工学部一回生の学生です。大学に入って、観劇の面白さに気がつき、暇さえあれば、小劇場に足を運んでいます。演劇部に所属したことはないので、演劇に関して全くの素人です。とにかく思った事だけを、書かせていただきました。

 
 

①Aブロック 劇団宴夢 

「熱血!パン食い競走部」

 パン食い競争に命を懸ける人達の物語。メロンパンの位置が、高すぎて取れないことで、自信をなくす梶原と、それを支え励ます仲間たちと顧問の先生。最後は、メロンパンに無事手が届き、幕をおろします。

 なんだかほっこりしました。自分が好きな場面は米の卒業式。パン食い競争に命をかけるべく、米を食べないことを、みんなが誓うのですが、その時の、パン食い競争部メンバーの悲しそうな顔が忘れられない。この世の全てが終わったようにゆがむ顔、震える体。パン食い競争だぞということを忘れてしまうぐらいの迫真の演技でした。作品中には5人出てくるのですが、個人的には小松君が一番つぼでした。東北から、パン食い競争の為だけに、札幌の学校に通うことになった小松君。劇中ずっとパンを食い続けていて、食べることが大好きなぽっちゃりキャラです。米の卒業式では、彼だけ、放すと約束していたオニギリを放さずに、泣くのですが、その姿をみるとこっちまでかなしくなりました。

 作品の構成は、非常にシンプルで、とても分かりやすかったです。くだらないことに命を燃やすパン食い競争部、とにかく笑わさせてくれました。


②Aブロック フライハイトプロジェクト

「今夜、あなたが眠れるように。」

 まず、見せ方が独創的で素晴らしいと感じました。時間、場所、演じる人物が、めまぐるしく変わっていく。しかしながら、私達観客をおいてきぼりにすることなく、とても分かりやすいストーリーであり、本当に素晴らしかったです。

 若葉の成長、反抗期、若葉の母親の子供の頃の話、若葉の母親の母親の子供の頃の話、なぜおばあちゃんがあの花が好きなのか、若葉が母親と寝なくなったきっかけなどが目まぐるしく変わる場面の中で、明らかになっていきます。

 舞台には、一つのベッドと、それを仕切るカーテン、その他、複数の四角い椅子しかないというシンプルなものでしたが、シンプルだからこそ、様々に雰囲気を変える舞台を見せてくれました。

 生と死が重なり合う、最初と最後がもっとも見所でした。4人が舞台走り、駆け回りながら、「若葉」の生誕とおばあちゃんの死が重なり合います。不思議で、奇妙な感覚。心がふるえました。

 深い人間観察力から生まれた素晴らしい作品であると感じました。


③Aブロック 元気の極み

「せかいのはじめ」 

 内容は難解で分かりにくいですが、何か心に引っかかるものがあり、また見たいと思える作品でした。

 とにかく独創的で攻めているように思いました。小説からの朗読を所々で用いたり、観客席から立ち上がり演劇を始めたりするなどの、独特な見せ方で観客を魅了していました。

 演劇の始まりとは、何だ?チケットを買った時なのか、舞台のカーテンが上がったときなのか、役者が話し始めた時か。

 世界が始まるってなんだ?自分がいないときは世界が存在していないのか?きっと存在しているでしょう。でも自分の世界は存在していない。自分が生まれたときが自分の始まりと言えるのか?意識がないのに、どこから始まりといえるのか?また、自分の終わりとは何だ?意識がだんだんと、薄れていく最後、自分はの世界が終わったと気がつくことさえできないのです。じゃあ、終わりってなんだ?

 「始まりとは何か?終わりとは何か?」をテーマとして壮大な物語を繰りひげているように自分は思えましたが、正直内容はとても難しいです。何回か見て、また自分で物語を咀嚼し直して、やっと少しずつ理解できる作品だと思いました。


④Aブロック 楽一楽座

「Say! Cheese!!」

 一生懸命ふざけ通す、大学生の熱い魂を感じました。ザダイガクセイ。最初から、最後までとにかく笑顔をもらえる作品でした。

 これは、脚本を書く青年と、その周りの役者をめぐる大学の演劇サークルのようなものの物語です。青年は、楽しくて笑えるコントのようなものを書きたがっているのですが、メンバーの一人は、シリアスでメッセージ性の強いストーリーを望んでいる。

 幾つもの短い演劇のストーリーを、章ごとに演じていくのですが、その一つ一つが、個性溢れていてとても、面白かったです。坊主が、バンドを組んだり、変な教祖みたいなのが現れたり。かと思えば、男と女の青春ラブストーリー。のりのりで、自分によっている、しゃべり方がとても滑稽で、笑わずにはいられませんでした。

 しかし、だんだんと、関係ないと思われた章ごとのストーリーが、つながっていき、最後は最初の場面の結末が描かれる。最後の場面で仲間の一人が話のなかで、この様なことをいいます。「たった一人だけでも、あそこにたどり着ければ、俺達の勝ちだ」この言葉に、何か感じた人はおそらく自分だけではありません。

 良いこと伝えようっていう雰囲気を全く漂わせずに、何か心にくるものを伝える。とても幸せな気持ちにさせてもらえる作品でした。本当に素晴らしかったです。

 

⑤Bブロック ヲサガリ

「ヲサガリの卒業制作」        

 オタク達が繰り広げるストーリーです。

オタクというのは、あれほどの情熱を込めてアイドルを応援しているのでしょうか。オタク達が織りなすアイドル愛が痛いほど、伝わってきました。最後にオタ芸(ダンスとか、ジャグリングとかのライブを盛り上げるために観客席でやる芸のこと)を披露する所があるのですが、一生懸命に踊っている姿になんだか、とても感動してしまいました。意図的なのかは分かりませんが、完璧には動きをあわせずに、踊るのは程よいリアリティーがあって良かったです。作品中の人々は、それぞれに仕事を持っていて、だから、そんなに、練習する時間もない訳で。そんな時間のない中で、みんな頑張って練習したんだろうと思えました。

 クスッと笑えたのは、ラインのメッセージを口頭でテンポよく述べていく所。言葉で「かっこわら」「ダブリューダブリューダブリュー」。面白かったです。スタンプの形を口頭で説明するとこんなに面白くなるのですね。

 オタクの概念を一変させるような良い作品に出会ったなと思いました。


⑥Bブロック 喜劇のヒロイン

「べっぴんさん、1億飛ばして」

 天才的なストーリー展開であるなとうなってしまいました。発想力がすごいです。また、演じる人たちのユーモアのセンスもピカイチでした。脚本の面白さはもちろんのこと、演じ方で最大限にその脚本の面白さを発揮できていると感じました。素晴らしかったです。

 ストーリーは、全く違う人が、弟にすり替わる所から始まります。彼の姉だけが、そのすり替わりに気がつくのですが、他の人はみんな気がつかない。姉は、弟を探し回るのですが、その間に、父が変わり、ペットが変わっていくという奇天烈な喜劇です。

 最後のシーンでは、姉が夢から覚めます。ペットも父も元通りになりますが、弟だけは、性格しか元通りにならず、外見は別人のままでした。それを見て、姉は「良かった」と言うのですが、その言葉にはどのような意味があったのでしょうか。考えてみると、非常に恐ろしく、そして深い一言であると思います。

 最初、彼女は、おそらく、外見と性格ともに別人に成り代わってしまった弟をどうしても受け入れる事が出来なかったのでしょう。普通の感覚です。しかし、よくよく考えてみると、弟が別人になったからって、何がいけないと言うのか。むしろ、うるさく馬鹿な元の弟より、静かで、言うことをちゃんときく素直な今の弟の方が、良いかもしれない。また、父に関しても、全然、家にいない元の父より、ずっと家にいる今の父の方が、良いかもしれない。ペットは犬より、ネコの方が良いかもしれない。結局のところ、家族なんて誰でもいいのかもしれない。なんとなくで、家族は、かけがえのないものだと信じているが、変わってみれば変わってみたらで、新しい家族も全然悪くない。この新しい家族観への気付きは、ある意味、恐ろしいものかもしれません。

 理知的なユーモアを携えながら、最後には、何か心に残るものを感じさせてくれた素晴らしい作品でした。


⑦Bブロック 砂漠の黒ネコ企画

「ぼくら、また、屋根のない中庭で」

 体に病気を持つ人々が、ベンチのある公園のようなところを訪れる話です。そこにはどんな病気も治せる先生がいます。

 体の悪い部分を草木で表現する見せ方で、まず一気に作品に引き込まれました。幻想的で独特な空気を作り出していて、素敵でした。ビジュアル的には、一番インパクトのある作品で、今もあの舞台の映像が、はっきりと脳裏に浮かびます。

 自分が一番印象に残ったのは、目の悪い女性が先生に目を治してもらうシーンです。女性は目を治されたせいで、ものすごく悲しみます。目が見えるようになったせいで、かつて見えていたものが、見えなくなってしまったと嘆きます。かつて感じていたはずの、温もりが消え去ってしまった。悲痛な叫びを残して、その場を立ち去るのですが、前半が、平坦だっただけに、あそこの衝撃はすごかったです。心がふるえました。

 自分にないもの、他人と比べて劣っている所を誰でも捨ててしまいたいと思うが、それが無くなったところで、人は幸せになるのか?そんなことを感じさせてくれた、作品でした。

 

⑧Cブロック 三桜OG劇団ブルーマー

「スペース. オブ. スペース」

 面白かった。終始面白かったです。仲良し5人組が繰り広げるストーリー。隕石落下を信じて、明日はないのだからと、どんちゃん騒ぎ。そして、最後の結末は、衝撃的なものでした。

 物語の中盤にかけては、仲良く5人で遊ぶ姿が描かれていました。誰がアイスを買いに行くかを決めるジェンガのようなゲーム、アイスを分け与える暖かい友達関係。明日は来ないと信じている人達とは思えないくらい、楽しいそうな5人。

 しかし、結末に近づくにつれて、時折みせる不気味で、不可解な表現に気がつきます。演劇の最初、音楽にのせて、肩を不気味に上下させるシーンがあります。なんだか怖いなと感じるのですが、照明がついてからの楽しそうな光景をみて、その不気味さを忘れてしまうんです。怖く見えたのは、自分の勘違いかなって。でも、二度目、また同じように、肩を上下するところに出会って、やっぱりなんか不気味だなって、感じて。そのようにして、結末に近づくにつれて、だんだんとその物語の異常性に気付かされていくんです。

 一人、眠り。二人、眠り。終盤には、逃げだそうとして、捕らえられ、グルグル巻きにされていたひとりが、口テープを外されます。彼女の苦しそうに酸素を求める息づかい、そして、その部屋にある一つの火鉢。そこで、やっと物語のすべてを私は理解しました。

 背筋をぞくりとさせる結末、その結末を知ると、以前の楽しそうな表情を見せながら、じゃれあう光景さえも不気味に思えました。

 お客さんに真実を最後まで気がつかせないストーリー展開、本当に秀逸でした。自分にとって、一番、面白いと思える作品でした。結末知ってなお、また再び、見てみたいと思える作品でした。


⑨Cブロック LPOCH

「溺れる」 

 溺れるってどういう事だろう?この作品を全て見終わってから、やっとこのタイトルの意味が、分かったような気がします。

 心の声を語る人物が、狂おしいほどに感情を込めて、一音一音言葉を発するのですが、素晴らしかった。言葉が出てこないことの苦しみ、出さなくてはいけないときに声を絞り出す苦しみ、最後信じる人に、感情の思うがままに、言葉を発する開放感。感情の嵐が、心に流れこんできました。

 とてもメッセージ性の強い物語でした。そして、その強いメッセージ性に負けないくらいの俳優陣の表現力が際だっていました。とても素晴らしい作品であると思いました。


⑩Cブロック はねるつみき

「昨日を0とした場合の明後日」

 神様誕生を描く壮大なファンタジー?作品でした。次の、人類の歴史こそは素晴らしいものになって欲しいという願いを込めて、神様は地球上の人類を壊滅させるミサイルを打ちます。このミサイルで、その神様は死んでしまう。そして、地球上には、たった二人の男女だけが、生き残る。神様が選んだ、2人の男女の家系がまた神様として生きていくわけです。

 神さまは、選んだ女を憎みます。この女は神さまの友達です。何故、神さまが彼女を怨むのかというと、生き残るもう一人の男とは、神様の彼氏だからです。その時の、一人ぼっちの神さまを包む、悲しい空気は、私たちにも流れ込んできました。

 神さまは、最初、非常にユーモラスに描かれます。最初出て来たときの一言は「新キャラ」。変なものをいつも首に巻いていて、神さまなのに、普通の人間と同じように、会話しています。そして、普通の人間になることを望んでいます。

 そのユーモラスさと神さまの悲しすぎる境遇が、自分には、対比されているように感じました。面白かったです。

観劇レポート 綱澤秀晃さん

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2018.2.25

第3回全国学生演劇祭の演目を観劇し、舞台の模様を広く伝える”劇評/レビュー”を書いていただく方を募集しレポートを書いていただきました。

 

綱澤秀晃さん

綱澤秀晃(ツナサワヒデアキ)
劇団なかゆび団員。第2回全国学生演劇祭出演。3月、なかゆび本公演出演予定。
 
 
 
Bブロック
 

ヲサガリ

この日一発目。10:30というのは、誰も演劇を見たい時間ではありません。ヲサガリ以外では厳しいオーダーだったのでは……開演前にワクワクさせられたのは、ヲサガリだけでしたから。審査対象外かもしれないけど、開場中の時間を使うことでお客さんのメンタルセットが全然違ってくるもの。
この団体、部活感が一番強かったのですが、内容は最も洗練されていました。予め舞台を区切ってしまうというのは常道ですがアップを自在に操った空間表現は、イメージを外へ外へと広げてくれ、室内劇のお手本といった感じ。内容に関しては、エンタメと断ずるには惜しいポイントをいくつも備えていました。筋は、「ゴドー」や「桐島」のような不在の他者をめぐるものですが、不在の他者の位置にアイドルを持ってきたのは良かったです。友人ふたりの共依存、去っていくバイト、超えていけない人との距離……そういう一つ一つの人間関係の描写が、小劇団の〈あるある〉を思わせてひどくやるせなくなります。そして、それぞれの心情が曲の中に呑まれていく場面には、終わっていくことの美しさを感じます。
役者も、類型的な演技をするよりも個々の人格から出てくる細かい仕草を大切にしていて、愛せました。カワイイ。
あと、クマやウサギの公式スタンプを使うことって、僕はあんまりないんですが、そういう違和感を超えて「ウケていた」し、イメージがすぐ湧くなあって思って……LINEは伝統的ミームなんだなと。
 
喜劇のヒロイン
なかゆび団長と話したら、解釈は色々あるんだなあと思わされたのですが、僕は夢オチだと思いました。そう考えた方がスモーク焚いてる理由も分かりやすいし……。
アッサリ味のボケとアッサリ味のツッコミは、劇のテンポを失速させず、美しいとも思いました。ただ、関西の笑いはもっと味付けがしつこいらしいです(団長談)。
パンフレットでは「くだらない」と謙遜されてますが、不条理が倫理的問いを発する場合もあるものです。観ている方ではやっぱり、人格の同一性は何によって担保されるのか、とか、世界に抗して大切な人を守れるか、とか、色々考えます。劇場を出たらそんな考えは忘れちゃうんだけど、なんとなく、また劇場に来てしまう。演出の思う壺。
 
砂漠の黒ネコ企画
そりゃ、中庭に屋根はないやろ、と思いつつ観始めたのですが、なかなかどうして良かったです。無駄にゆっくりな幕開けは、こういう心構えで観ればいいんだなと教えてくれます。ヲサガリへのレポートでも書きましたが、こういうのは観る側として安心するんですよねえ。
障がい云々の議論もありましょうが、もっと一般化すれば、誰にでも病や傷はあるのでしょう。そして過去は自分を捉えて離さないくびきでもあり、自分を支えてくれる杖でもあります。誰でも未来を怖れ、いつも〈やらない理由〉〈やれない理由〉を探しては現在を保留し続けてしまう。演劇という細い世界ではいくらでもある話です、悲しい哉。
「先生」なんて一発逆転的発想は現実にあり得ないよ、と思うのは、僕自身も〈病気〉だからでしょうか……。もしかしたらチャンスはあるのかもしれない、それが「目の眩むような」光景を見せるとしても。
 
 
Cブロック
 
三桜OG劇団ブルーマー
隕石の名前が「あおば」! 杜の都から超新星現る、というところでしょうか。僕は福島の海の方出身なので、「割りを食った」側の一人として、こういう終末論的雰囲気には感じるところがあったのかもしれません。消滅っていうのは単純であればあるほど厳しくて、希望も絶望も分けへだてなく、またさしたる理由もなく〈ただ消える〉。
マッチを擦り擦り、思い出の燐光を散らす猶予があれば、それだけ苦悩の時間も増える。僕は上演中ずっと、この「放課後」が永遠に続けばいいのにと願っていました。本当ですよ。でも劇は終わってしまうのだなあ。
僕はエントランスにあるファミマでアイスクリームを買いました。スーパーカップは置いてませんでした。
 
LPOCH
・蛯名さんについては、「都合の良い女」と「天使」と両方の評価があろうと思います。でも、本当にこういう存在がいるんだよ世の中には。
・弱音を吐いたり打ち明けたりする能力って、信頼の能力なんだよな。まずは、「自分が言葉によって相手に影響することができる」という信頼、そして「この人は自分を損なわない」という信頼。
・青倉さんの100度の礼は、ブルーマーを観た後だからでしょうか、「この人死ぬんじゃなかろうか」と思うような終末を感じた。僕だけ?
・水のメタファーをどう評価するか、考えたけれど僕には分かりませんでした。ただ言えるのは、油野は自分で深いところに行くくせに、自分で浮かんでこれなくなってしまうんだよなっていうこと。
断片的な感想ですみません。共感するところがあり、かえって内容について色々「言えなく」なってしまいました。物販かわいいです。
 
はねるつみき
コミカルかつ観念的で、作り手がどういうものに影響されているのか伺ってみたい作品です。超越的視点の置き方は冷笑的なものですが、それを客席の笑いに繋げる能力がありました。全体的に年齢に反して洗練されていました。ACTと似た洗練さ。照明も美しかったです。
ストーリーは進んでいくのだけれど、「どうしようもなさ」が随所に散りばめられています。そしてどうしようもない歴史がいつまでも繰り返されるらしい。うーん、この無意味!
筋からはみ出てしまうエピソードが多いのだけど「これがしたかったんだな」というのは分かる気がします。反抗精神の華。
 
 
Aブロック
 
劇団宴夢
開場中から面白かった。曲も。スタッフの声をかき消さんばかりの音量だったし、完全に客席を洗脳しにかかっていました。内容は、まるっきりアホでした。でも、お話よりも、役者の歪んだ表情とか、ひたむきな汗とか、そういうのが欲しいと思うときもあります。無意味なことを冷笑するよりも、無意味でも頑張ってる姿がかっこいいし楽しいのかも。マネージャーも含め一丸となって気持ちいいくらいホモソーシャルでした。こういうアニメでは、男子が挫けたときにビンタする役割を女子は担わされていて、そしてそれだけが役割なんだよな。終演後のアレが観れたのは収穫でした。
 
フライハイトプロジェクト
見た事のあるような類型的なシーンが連続していくので、ちょっとしたエピソードが心に残ります。おばあちゃんがアヤメを好きな理由とか。ママ泣かないでとか。なんだかんだジーンと来てしまうのが悔しい。本当は、近代家族ってもはや広い共感を得られるモデルではなくなってきているのかもしれないけれど。ベッドを食卓に見立てているシーンが好きでした。食卓って死の床なんだなって、ふと思いました。
 
元気の極み
「私!!」を34分やって、嫌味がないって、やっぱ天才なんだよな。メタいし哲学的なのに、衒いがない。中尾さんの愛嬌がなければ成立しない曲芸でしょう。宇宙のはじめが演劇のはじめとか、みなさん演劇好きですかとか、うーん、かっこいい。そういうのが嘘くさくならないのは、劇場へのリスペクトと観客へのホスピタリティがあるからでしょう。中尾さんが舞台に礼をして去るのは分かりやすいけど、演出の中村くんが舞台の準備をした後でさりげなく礼をしてから引っ込んだのを僕は見ていたぞ。そういうちょっとした仕草にキュンとくるし、そこも含めて演劇でしたね。リアリティって、こういうのだよ。演出の思う壺。
 
楽一楽座
アホに見えてなかなか巧妙な芝居でした。一見独立したコントの間を往復しながら、笑いへの思いが明らかにされていきます。演出に視覚を楽しませようという気概を感じます。この団体のために吊っているであろうダサすぎる照明が好き。もっと機材を無駄使いして欲しい。ボクの吐瀉物南無阿弥陀仏が頭から離れません、勘弁してくれ。ラストシーン、なんであんなに幻想的なんや、勘弁してくれ。

観劇レポート 神田真直さん

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2018.2.25

第3回全国学生演劇祭の演目を観劇し、舞台の模様を広く伝える”劇評/レビュー”を書いていただく方を募集しレポートを書いていただきました。

 

神田真直さん

1993年生。劇団なかゆび主宰、演出家、劇作家。

京都学生演劇祭2016にて審査員特別賞を受賞し、続く第二回全国学生演劇祭では審査員賞を受賞する。2017年には韓国大邱広域市にて、大韓民国演劇祭に招聘される。京都学生演劇祭の生い立ちを探るレビュー企画の実行、京都学生演劇祭2017での実行委員長としての活動、劇評の執筆など、自作の発表に留まることなく、演劇と多面的に〈関係〉する。2018年3月にはドイツ戯曲のレジェンド、ゲーテ『ファウスト』を大胆に取り壊し、再構築した作品を京都大学吉田寮食堂にて、上演予定である。

 

はじめに

 劇団員すら勘違いしていたことなのだから、事前に断っておかなければならないことがある。小生は、演劇を「好き/嫌い」では批評しない。そもそも「好き/嫌い」を下敷きにした物言いは厳密な意味での批評ではない。また「好き/嫌い」を下敷きにするなら、小生は「劇場に行かない」というだろう。

 批評家の牙に切り刻まれる程度なら、その上演の〈硬度〉は完全ではなかった、ということになる。何一つ、批評あるいは解釈の幅を許さないこと。この圧倒的な美を探究する精神だけが芸術家が持つべき唯一のものである。

 一年ぶりの全国学生演劇祭。今年、観劇レポーターに応募したのは昨年を自身で振り返るためである。第2回全国学生演劇祭では、他団体の上演が相当お気に召さなかったのか審査員たちは、劇団なかゆびの作品「45分間」を審査員賞に選んだ。期待を削いでしまうかもしれないが、あの作品の創作に際して、われわれは稽古をしなかった。一切、努力をしなかったと言い換えてもいいだろう。それでも、われわれは誰の目にも明らかな成果を残したのである。もしかしたら、努力が必ずしも報われるとは限らないという審査員たちからの教育的な配慮なのかもしれない。ただ、あの審査員たちの行動は、蓮實重彦がかつて述べた意味での「暴挙」である。それほどまでに「学生」(哀しいことに、この国では若者とほとんど同義である)の感性は後退してしまったのだろうか。それを確かめてみようと思う。

 

A-1

劇団宴夢『熱血!パン食い競走部』

コント。北海道にはネット環境がないのだろうか。もともとは関西の文化的コンテキストでしかなかったが、現在では一般に浸透しているはずの、ツッコミの要素が欠けている。演劇部に無理やり入れられた学生が担うべき役回りである。しかしながら、ボケ/ツッコミの区別がなされていない。その結果、財布を教師が盗んでいるという点がスルーされた、シール集めのくだりが盛り上がりに欠けてしまっているといった事態が発生していた。その他の難点については勢いで攻める作品の特性を鑑みて、不問とする。

 付言しておかねばならないことがある。劇団のプロフィールに「作品の芸術性、文学性は一切無く『くだらなさ』の追求に全てをかけている」とある。しかし、作品に芸術性、文学性があるかどうかは観客が判定するものであり、作者はそこには介入できないものである。

 

A-2フライハイトプロジェクト『今夜、あなたが眠れるように』

柴幸男『あゆみ』のパロディ。他人の一生を親身になって聴いてくれる人はそう多くはない。題材がありふれたものである場合、提示の方法を魅力的なものにしなければならない。しかし、提示の方法もたとえば演出によって(「意図的に」という意味で)役者の個性が死んでいて、長くは耐えられない。同じような場面を少しずつ変化させていくが、その変化は我侭な観客の眼を惹くほどのものではなかっただろう。

 

A-3

元気の極み『せかいのはじめ』

柴幸男『あゆみ』のパロディ、とまたも思いきや、それははじめの数分のことであった。「時間」のことを、愚かな観客が忘れないようにしばしば俳優が数をかぞえる。舞台を去っていくときには、観客には名残惜しさが残されていた。「何もかもなく」された舞台にもう一度拍手を送りたくなってこの舞台は曖昧な終演を迎えるのである。

 「愚かな観客」と敢えて言ったのは、客席から俳優が登場したときに驚いた観客が散見されたからである。たいへん古くからある手法であり、驚くには値しない。こうした無教養な観客が間接的にではあるが、上演の質を下げてしまう。

 中尾多福の演技は、驚くべきほど引き出しが多く、一人芝居であるにもかかわらず飽きが来ないよう仕組まれていた。この点には賛辞を送りたい。

 

A-4

楽一楽座

『Say! Cheese!!』

作家をやるにあたって、必ず通る門がこの「書けないこと」を土台にした作品である。「稽古場」をシェルターにしながら、オムニバス的に場面を組んでいく。この際、問題となるのは(勝負時は)、落としどころである。「おばあちゃんが死んで・・・」というところで流れが切り替わっていく。悩みながらも、最後まで、自分のやり方を貫き通していたように見える。しかし、これは一見「誰でも理解できる/開かれている」ように見えているが、作家や俳優の周辺にあるものだけで創り上げているがために、実は「限られた人にしか理解できない/閉じられている」という点は忘れてはならない。

 

 

B-1

ヲサガリ

 本年最若手(精神的な)による上演。アイドルは神より儚い。神は死んだので、生きる苦しみから逃れるために人々は夢中/無心になれるものを探す。神(もちろんGodのこと)は絶対者、全知全能であるから、いつまでも傍にいてくれる。しかしアイドルは全く限られた存在であるから、神ほど尾を引くことはない。ほとんどの場合、われわれより短い期間に卒業して(死んで)しまうだろう。そして、また次のアイドルへ向かう・・・・・・?かも定かではない。少なくとも、生きる苦しみから逃れるための装置が誰にとっても必要なのである。その装置の役割を担うのは、この国の場合、多くは「子育て」であったかもしれない。しかし、晩婚化・非婚化、若者の貧困が続くなか、それは簡単に得られる装置ではなくなった。現代の若者のあり様が示されているような、奥行がある、リアリティ溢れる上演であった。

 

B-2

喜劇のヒロイン

『べっぴんさん、1億飛ばして』

 ”This is the 6th version.” 小生がすぐに想起したのは映画『マトリックス』のこの台詞である。われわれは自らの意志に基づき行動しているように思われるが、実は他者によってつくられたプログラムを実行しているにすぎないのかもしれない。ネオみたいに「覚醒」したからといって、誰もが救世主になれるわけではない。時間の圧力に押されて、「お姉ちゃん」は結局プログラムに戻っていってしまう。家族が解体される違和感を解消することはなく、舞台は終演する。

 劇団宴夢でも同じ事態が見られたが、やはりツッコミが甘い。もっと拾い上げるべき箇所があったはずで、過度の軽快さで置いていかれる場面がいくつか見られた。だからといってツッコミを強調しすぎると、これは演劇なのかと首をかしげる観客も現れるだろう。京都学生演劇祭2017で審査員を務めた山口浩章氏は講評の際、コントと演劇の違いは人物同士の「関係が動くこと」と定義していた。もちろん、演劇にもコントにも枠など存在しない。便宜上の定義である。会場の笑いを誘うには、より貪欲さが必要であったかに思える。

 

B-3

砂漠の黒ネコ企画

『ぼくら、また、屋根のない中庭で』

 舞台美術、演技ともにベケット『ゴドーを待ちながら』を想起させる。もちろんベケットも彼自身のコンテクストを持っており、日本人である小生は、必ずしもコンテクストを共有しない。そのため容易に理解しがたい部分があるだろう。しかし、この作品は、『ゴドー』をもちろん無理を承知ではあるだろうが日本のコンテクストでも理解できるように「ずらし」ている。神(God)は、科学にとって代わられたのである。

 

 

C-1

三桜OG劇団ブルーマー(仙台 三桜高校演劇部OG)

『スペース.オブ.スペース』

 われわれは、忘れてはならない。あの日の事を。

 

C-2

LPOCH

『溺れる』

 場面緘黙症についての上演。はじめにこのことは明かされない。最後にそう呼ばれる疾患であることが提示されて理解を促すものである。手法としては大筋は問題がないのであるが、当事者の意識(もちろん重要ではあるのだが!)だけでなく「理解がない」ということによって生まれる摩擦について語ることもまた重要である。そこまで追求することができたら、この作品はもう少し高い次元に到達できる。

 

C-3

はねるつみき

『昨日を0とした場合の明後日』

 チェルフィッチュのパロディ。ある若者は、なんとなくでデモに参加して、なんとなくでセックスする。またある若者はどういうわけか世界の終末に接近する。すべてが、意志に基づいているようには見えず、水が流れるように進む。閉塞感漂う現代を、如何にして生きていくか、と問われても、すぐに思考を投げ出してしまう。「どうせ、また同じことの繰り返しなんでしょ?」と言って。学生なら、ニーチェあたりを引用するだろう。自動化の帰結としての「全思考の停止」はなんとしても避けるべきところであるが、この上演は流転する世界に対して、抵抗力を持たない。抵抗力を持たないことは摩擦熱を帯びないことである。この摩擦熱を、演劇では太田省吾が「分厚い力」と呼んだ。この上演はそこから逃れようともしない。深追いしたくなる要素は最後まで現れず、何一つ印象に残るものはなかった。結局、観客はある若者たち(上演にかかわった俳優や作家、演出家たちも含め)と同様「なんとなくで」しかこの上演を評価できないだろう。

 

おわりに

 全作品を観終わって、どうやら現代の学生たちのなかには「世界を終わらせたい」という欲望が潜んでいるように思えた。たぶん、もうすぐこの国で起こる戦争を期待しているのだろう。戦争をしたくてたまらないのは若者だけではない。日本人のほとんどが戦争を求めている。しかし、そんなことを口にしようものなら、「頭がおかしい」とか「中二病」とか言われてしまうことを恐れている。少し前までは、戦争を体験した世代の人間たちがなんとか歯止めをかけてきたわけだが、もうそれも限界を迎えつつある。誰かがいつか必ず、戦争への欲望に火をつけるだろう。堰を切ったように、溢れだす。もう避けることはできない。小生はこれから、戦争に備えることにする。来る東京オリンピックまで持つだろうか。

第1回全国学生演劇祭 観劇レポート

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2016.4.5

第1回全国学生演劇祭の全演目を観劇し、舞台の模様を広く伝える”劇評/レビュー”を書いていただく方を募集し、今回は3名の方に観劇レポーターとして関わっていただきました。

 

それでは担当していただいた方のお名前、自己紹介と共に、観劇レポートを掲載します。

 

 

 

 

一息人生 さん

 一息人生(ひといきひとき)と申します。22歳ぐらいです。

 たまに脚本を書いたりもしますが、普段は主に観劇を習慣にしております。2015年はだいたい300本ぐらいでした。

 四国から関東まで、色々な地域の高校演劇をよく観に行きますが、大阪では年に二度ある中学演劇の大会も観に行ったり、大学の劇団の公演も今年からよく観に行っております。他には関東や関西の小劇場、宝塚などの商業演劇、能楽の養成所の発表会などにも足を運んでおります。

 いつもは簡単な感想をぼやぼやと書くだけなのですが、全国学生演劇祭のHPの観劇レポーター募集というのを見て、この機会にそういうものもやってみたいと思い、応募してやらせて頂くことになりました。少しでもこれからのこの学生演劇祭を盛り上げることに貢献できましたら幸いです。

 

 今回レポートを書くに当たって、自分は演劇に関してはただの素人ですから普遍的な評論など出来るわけもないので、一人の観劇者として、この演劇祭の特徴である「短編作品の連続上演」に着目するよう心がけました。

 この形式においては、「多くのお客さんが劇団の作風や背景をあまり知らない」「複数の作品を、短い間隔で観る」「45分以内という、短めの(多くの団体は、作り慣れていないであろう)作品である」というポイントが肝になってくると思います。

 ……と、どの団体もそういうことに言及しながら書くつもりでいたのですが、いざ書いてみるとあまり言及できていないものもありました。

 9団体の上演はとても楽しませて頂きました。このレポートが各団体の今後の活動にも役立てることが出来ればよいのですが。

 今年度の夏は自分も活動していたので少し忙しく、なかなか回ることが出来なかったのですが、来年度は各地の演劇祭も出来る限り回れればなと思います。

 

 

  • 劇団未踏座

 この全国学生演劇祭の一番最初の上演を飾るに相応しい、演劇祭の紹介や京都の紹介も交えた学生らしい祭りの味を感じる作品でした。

 

 転換中から大きな文字のパネルがドンと目に入り、始まる前から少しお芝居も始まっていて、ワクワクとさせられました。笑い声やうめき声が聞こえ、人々が起き上がる始まりも、グッと引き込まれ、更に期待が高まります。白、黒、赤、紫、青といった服の色合いも綺麗でした。

 何のために生きているか、主題が早い段階で提示されるのも、良かったと思います。

 

 そして自己紹介、京都や大学の紹介、演劇祭の紹介、多団体の紹介、などが始まります。これは果たして必要だったのだろうか……という疑問が残りました。

 このブロックだけを、例えば出演団体の方の友人の方などが観に来た場合、トップバッターだしこういうものなのかなと思うでしょうし、なんとなく演劇祭そのものを楽しむきっかけにもなって、これはこれで良いのかなと思います。

 ただ、この作品において、この紹介が果たしてどんな意味を持ったのかというところにはクエスチョンです。この作品が、こういう人物によって上演されているものであり、その人物はこういう町で活動しており、こういう演劇祭に参加している。少し違いますが、簡単に言えば、これがお芝居であるということは少なからず提示していることになります。そういうことを提示することによって、このお芝居全体として何か浮かび上がるものがあったかと言うと、イマイチのように思います。安直ではあるものの連想するのは「わが町」ですが、それにしては「何のために生きているか」というテーマにとってどう繋がって来ているのかが見えません。

 こういう紹介があるならば、もっと「自己紹介」「活動拠点」「演劇祭」というポイントがもっとお話とも繋がってくれば、このお芝居をそんな彼ら彼女らがやっているということに対して切なさが込み上げてきたのではないかと思います。

 とはいえ、作品の中での効果を抜きにすれば、演劇祭を盛り上げるようなこの演出は交換が持てました。

 

 また、道具の使い方もあまり効果的ではないように感じました。周りにずっしりと建てられた大きな文字のパネルは迫力があって引き付けられるのですが、お芝居自体はずっとその中で小さくやっているため、情報過多になってしまっているように思います。風でゴミが飛んでくるというのもそれ自体は面白いのですが、引っ張っているヒモが見えてしまったりすると少し気が散ってしまいます。

 先の演出の方も含め、工夫を凝らしていること自体はとても良いと思うのですが、果たしてこのお芝居で伝えたいこととその演出や道具の効果、そしてバランスを考えたときに、本当にあった方がいいのかということはもっと突き詰めたほうが良いと思いました。

 

 主題にもある程度共感は出来るものの、あまり伝わらなかったなのがもどかしい気分です。

 作風自体には好感が持てたので、またどこかで拝見出来ればなと思います。

 

  • 演劇ユニットコックピット

 演劇祭のこの短い時間の中で、ここまでしっかりしたストーリーがあって、濃密な演技で空間を満たし、じわじわと増していく切なさと愛しい余韻を残して行く作品に出会えるとは思っていませんでした。

 

 ほとんどの団体が舞台を色んな場所に見立てたり、シーンによっては違う空間として使っていたりした中、ここは縁側という具体的な空間のみでした。

 この縁側という舞台設定が非常によかったと思います。

 広くはない舞台上にずっしりと構えられた縁側の装置。客席から向かって左寄り、そして奥寄りに置かれていました。そして左の舞台袖は家の空間と繋がっており、右の舞台袖は外の空間と繋がっていました。完全にくっつけてしまうことで、家の中から立ったまま歩いてくる、という自然な出入りが出来ていました。また、奥寄りで段が上がっているということで、役者が座って喋っていても後ろの席からも見やすくなっていました。

 それだけでなく、戦争で死んだ息子が帰ってこない、かつて息子が家にいた頃は玄関からではなく縁側からこっそり帰ってきて驚かせていた、という話の内容とも密接に結びついていて、とても切なくさせる巧みな設計でした。

 

 家族が次第に息子を失ったことを受け入れて行く中、父はいつか帰って来るのではないかと縁側であしぶみしていた。母の一緒にあしぶみしていましょうという言葉も、思い出すほどにじわじわと蘇ってくる。「あしぶみ」というタイトルは、興味がそそるパンチのあるタイトルではないものの、お芝居を観終えてからその感動が浮かび上がってくる良いタイトルだと思います。

 

 演技も非常に丁寧で、特に母の演技がとても良く、個人賞を取るのも納得の逸品でした。

 音で作られる劇的な瞬間、「ただいま」という言葉が段々と突き刺さってくる感覚、選び抜かれた言葉や演出の数々が短い時間の中で光り、積み重ねられ、深い感動を呼ぶとても良い作品でした。

 

  • poco a poco

 正確な時間は計っていないので分かりませんが、名古屋学生演劇祭と同じ分量でやっていたなら20分以内ということになりますが、他の団体に比べてかなり短かったように思います。それは時間自体の短さだけでなく、テンポもよく聴きやすい会話、愛着の持てる3人の役者さんたち、退屈する間もなく終わったという印象です。

 

 終電を待っていると話しかけてくる中学生。

 時が経つと忘れていくもの、就活に負われる残り少ない大学生活、恋、中学生の頃のほうがよかったかな、大人のほうが楽しいこともあるのだろうか、中学の担任の名前も覚えているだろうか、大切な友達の名前だって、忘れてしまっているのかもしれない。

 

 誕生日。

 忘れていた友人、の声。思い出してくる。話すほどに記憶が蘇ってくる。時が経てば忘れてしまうかもしれないけれど、それでも、きっと何処かには残っていて、忙しい毎日に掻き消されてどこかに埋まってしまっているだけでだけで、何か引っ掛かりを掴んでいけばきっとまた引っ張り出すことが出来る。

 

 劇団名の意味である「少しずつ」という言葉、そしてテーマとして掲げる「前に進むこと」が、しっくりと来るお芝居でした。

 3人の役者の魅力、共感しやすいお話、聴きやすくそれでいて空気が変わる瞬間をしっかりと作られた会話、短い時間ながらも一つのお芝居としての緩急もあり、爽やかな光の見える余韻も残る。45分の作品と比べても決して見劣りすることのない充実した時間を過ごせました。

 観客賞を取ったのも納得な、マイナスポイントの付けようがない素敵なお芝居でした。

 

 とにかく素敵で、何よりも応援したいという気持ちが残りました。

 短編ももちろん、作者の方が書く長編も観てみたいです。またいつか拝見したいなと思います。

 

  • 劇団しろちゃん

 夢と白の世界、というような心地。お芝居が始まる前から、奥に置かれた脚立と、その脚から広がるようにして床に三角を描くように、そして横断歩道のように床の黒い部分と縞々になるように敷かれた白布のようなものの。まず、その絵が美しく引き込まれました。

 お芝居が始まる少し前に、ままごとの「わが星」に使われていることで有名な口ロロの「00:00:00」が流れ、なんとなく美しい世界観を予期しました。

 その期待を裏切ることのない、音と光で彩られる世界。役者のセリフのひとつひとつもどこか美しく感じ、全体として非常に心地よい空間が広がっていました。

 ただ、その世界観の作り込みが、物理的な間を作りすぎていたようにも思います。音楽が流れ、その波にとって心地よいタイミングで終わり、心地よいタイミングでシーンが変わるというのはそれはそれで素敵な空間を作るのに大切だと思います。しかし、それによって作り出された”間”が意味のあるものであった部分もありますが、そうでない、ただ物理的に存在する時間が少し多いように感じました。心地よさと同時に少なからず飽きを感じさせてしまう要因になっていたかもしれません。

 

 このお芝居において良かったことは、まず最初に「はじめまして」を色んな人に言うものの、コミュニケーションを取ってくれなかったりする、というところから始まったことです。これは「どういう意味なんだろう」と想像させる推進力を持っていました。それと同時に、このお芝居において役者は必ずしもコミュニケーションを取るわけではないという手法が、その手法のお芝居を観るのに慣れていない方にも、すんなりと入り込める効果があったのではないかと思います。

 

 これは賛否両論が分かれるかと思いますが、途中、主人公の心情をプロジェクターで表現したことは個人的にはあまりよくないと感じました。この表現自体は巧く、面白いのですが、このシーンで急に使われたという印象が強いです。このシーンがその表現を用いて面白いということは、果たしてこのお芝居全体にとって必要だったのでしょうか。いっそ使わずに違った表現方法、例えば全てを沈黙で表現するであるとか、を目指してみてもよいのではないでしょうか。全体としての心地よさという余韻は残るものの、やはり少し薄いように感じた要因は、その辺りにあるのではないかと思います。

 

 個人的にこのお芝居の一番好きなところは、タイトルです。良いタイトルというのは大きく分けて二種類あると思います。

 一つは、そのタイトルを見て「面白そう」とか「気になる」と思わせるタイトル。

 そしてもう一つは、お芝居を観た後にタイトルを見ると、そのお芝居で感じたものが蘇るような、全体を一言で表すのに相応しいタイトル。

 この「醒めたホット牛乳」は、その両方の良さを持ち合わせていると思いました。ホット牛乳というものが「冷めた」ではなく「醒めた」というところにまず引っかかりを感じます。劇中でもホットミルクと言っている部分がありましたが、ホット牛乳という言い方もあまり耳馴染みがないように思いますし、「醒めたホットミルク」だとバランスがある威容にも見えます。

 そして、実際にお芝居を観た後に感じられるもの。まるで夢の世界であったかのような、そしてドロッとした恋愛の内容にもかかわらず、白く、そして濃厚ではあるけれど幾分かサラッとしているような。あの世界の色が鮮やかに蘇ってきます。

 気になると思わせる力があり、字面も悪くなく、観劇後のイメージにもよい、とても素敵なタイトルだと思いました。

 

 今回の上演こそ、そこまで大きな印象に残ったということはないものの、美しく心地よいこの作風はとても好きです。またどこかで拝見する機会があったら、ぜひ観たいと思える劇団です。

 

  • 劇団サラブレッド

 ディスコミュニケーションという言葉を軸に展開される家族のドラマ……と言ってしまっては、訳が分かりません。会話を途中でやめてしまうこと、急に一方的に話題を変えてしまうこと、周りの会話についていけないこと、他人がどう思ってるかを決め付けてしまうこと、伝えたいことが伝わらないこと、なんでもかんでも自分のせいにされてしまうこと、話をちゃんと聞いてくれないこと……などなど。主役である加藤くんの悩みから、周りの会話についていけず発狂する母、会社での悩みを吐露すると共に女装癖を晒す父。要約するのが馬鹿らしくなってしまうほど、内容としてはよくわからないものでした。

 

 このお芝居が面白いのは、「お客さんとのコミュニケーション」がしっかりと取れているからです。

 それは例えば、OPのダンスパフォーマンスのようなものから始まって、「照明が消えたんだからポーズやめてもいい」という台詞です。これがお芝居である、というのは加藤くんもとい作者の伊藤さんによってメタ的に語られてはいるのですが、それを更にスタッフ面まで踏み込んでバラしてしまいます。この発言があることによって、役者が真ん中にいない間もやたらと点いている真ん中の照明であるとか、照明を消して役者がやっていることを終わらせるという照明さんの存在を感じるような部分であるとか、そういうところがすんなりと受け入れられるようになっていました。

 親子の会話から突然メタの部分になる部分も、ラストの終わり方も、序盤でしっかりとそういった作風を提示しているので、あくまで一本のお芝居としての流れから脱線してしまうことなく笑えます。

 

 そして、一番の「ディスコミュニケーション」は、上記のようにしっかりとお客さんとコミュニケーションを取って笑いを取っておきながら、このお芝居でいったい何を伝えたいのかを明確にしていないところかなと思いました。現代社会の縮図とも見えるし、ただの作者の自己満足とも見えるし、ディスコミュニケーションを一段上から笑っているようにも見えるし、そんな人たちを皮肉っているかのようにも見えるし……なんて色々考えてはみるもののどれもピンと来ません。ただの思い付きから始まり、エチュードかなんかで作っていって、ただただ面白いものを作ろうと推敲していっただけなのかもしれません。もしくは漠然となにかあったものの、それが段々と薄れていってまあこれはこれで楽しんでもらえたらいいやというところに落ち着いたのかもしれません。

 

 多くの団体がかなり舞台を作り込んでくる中で、完全な素舞台でありながら、しっかりと印象を残していったと思います。個人的にとても応援したいなと思いました。

 

  • 劇団ACT

 非常に濃密な時間でした。Bブロックを最初に観たのですが、この会場でここまで舞台装置を作り込んでくる団体があるとは思わず、驚きました。一体これは何だと思わせる不思議な空間に更に驚きました。特に、一番手前に吊られている四角い木の枠や、床に一室を取り囲むように置かれたレール。お芝居が始まるその前から、気になって仕方ありませんでした。

 

 普段は観劇中メモは取らないのですが、こういった形でレポートを書かせて頂くのは初めてなので、どの団体も少しずつメモを取っていました。しかし、劇団ACTさんに関しては、取ったものを見てみても、はて一体こんな断片を散らかしたメモに一体何の意味があるのだろうかと、と言いますか、更によく分からなくなりました。

 

 細かい会話のチグハグが面白い……四角い枠は、このお芝居はあくまでも切り取られたものであることを表すのだろうか、あるいは、大田省吾の「更地」の窓枠を思い出す……普通に生きたくても生きられない人々、いっそレールの上に乗って歩めるなら、なんて思うこともあるだろうか……恋人でない相手とのセックス……大学に入っていればいい企業に就職できる……社会に組み込まれている、いわゆる歯車になっている、ということを意識した上で組み込まれている……中国人だからといって、というような、偏見……

 

 思い出していると、もわもわとして来て、頭がこんがらがってしまいます。

 

 床に敷かれているレールを走る列車は、彼ら彼女らが自分の足元を見つめなければ気づかないような夢なのかもしれませんし、そんなものは見下ろす程度の存在なのかもしれません。自分たちが語る言葉は切り取られたようなものであって、こうやって見られるようなものであって、けれど、切り取られていることも、見られていることも、分かっていながらここに在る、そんな心地がします。

 

 全団体の中で脚本と演出、そして役者の関係性が最も良かったと思います、とかうだうだと書こうとも思っていたのですが、こんな感じになってしまいました。

 

 ところで、最後にはお芝居が終わったのかどうかも分からないままに役者たちが舞台装置を片付けていきました。そして、バラバラと起こり始める拍手。

 果たして彼ら彼女らにとって、拍手は気持ちの良いものだったのでしょうか。良いか悪いかではなく、気持ちの良いものだったのかどうか、なんて考えてしまいます。

 

  • かまとと小町

 暖かくて、少し考えさせられる、素敵な30分でした。

 

 初めての恋をした相手が会社の上司で、奥さんもいた。お酒を飲んだ勢いはあったけれど、いけない恋と分かっているけれど、それでも好きな気持ちは抑えられず、彼は奥さんに嘘をついて一緒にいた。彼との子どもを授かった。離婚をするかも、と言っていたのに、彼から連絡は来なかった。そんなところから、恋は失ってしまったし、自分ひとりで育てられる自信もないし、お腹にいる赤ちゃんと一緒に死んでしまおう、と。

 でも、音がする。

 お腹を叩く音。……いや、扉を叩く音? 白い衣を纏った少女がやってきます。少女は実は赤ちゃんで、未来の自分の子どもだと。死を決意したところから、未来の生からの声が聴こえてくるのです。自分が死ぬことは未来の一つの生、いや、既にお腹の中にある一つの生を殺してしまうこと。子どもにとっては、なんの罪もなく殺されてしまうようなもの。それに、裏切られた、最低な相手だったけど、それでも本当に好きだったんだから。それは絶対に変わらないんだから。その結果として出来た命を、殺してしまっていいはずがない。

 -時を越えて 君を愛せるか- どこからか声が響く。

 

 愛、幸せ、生きること、そんなことについて、ずっしりと突き刺さるようなものではなく、あくまで小さな暖かい光を見つけるような形で魅せてくれました。

 30分という短い時間の中で、核心に至る経緯もしっかりと描きながら、伝えたいことをごまかすことなく伝えるという、短編としての作りがとても良い作品だと思いました。

 

 ただ、演出面に関して磨きがかかれば、もっと良くなる作り手だなと感じます。

 前半に多いコメディタッチな演出、後半でも少し挟まれるギャグ、が、果たして効果的かというとやや怪しいように思います。

 もしかすると回によって変わっていたのかもしれませんが、イマイチ受けていないように感じられました。もちろんコメディタッチだからといって受けることが全てだとは思いませんが、前半部分の時間が、ああいった演出をすることによって一本の芝居としてどのように活きていたのかというところが疑問なのです。例えば、笑ってもらうことによって涙腺が緩み、後半の切ないシーンで泣ける。あるいは、二人きりの時間がより幸せな時間として体感されることで、鮮やかな思い出として蘇り、切ない感情が増幅される。実際の意図は分かりませんが、どちらの方向性としても今ひとつ及んでいないように思います。それは役者のパワー、ネタそのものの面白さ、演出による緩急の付け方、などでもっと向上できるのではないでしょうか。

 とはいえ、短編作品の連続上演という形式において、ややチープな印象を与える側面もなくはありませんが、お客さんがある程度好感をもって観ることが出来るという点で、効果はあったかと思います。

 そしてもう一つ、赤ちゃんがお腹を叩く音と扉を叩く音とが繋がるという部分以外で、劇的に感じられる部分があまりなかったことです。お話として、言葉として、切ないということも伝わりますし、問いかけも考えさせられます。しかし、生のお芝居として、もっとより多くのお客さんにより大きな感動を与えるには、もう少し波が必要ではないか、と。どうしても全体として、平坦とは言わないまでも、インパクトが薄いように感じてしまうのです。もしかすると30分だからと割り切って、あえてさくっと見やすい演出にしているのかもしれませんが、それにしては内容はもっと感動を与えてもいいような題材のように思います。

 

 ですが、今回の作品が好きだったかどうか、印象に残ったかどうかに関わらず、多くのお客さんがこの劇団のメンバーに少なからず好感を覚えたのではないでしょうか。

 大きな世界に生きる小さな人間のほんのひとときの幸せを大切にしようとしているような、そんな作者の想い。そしてその作者の素敵な想いに惹かれ、共に作品として伝えるためについてきた役者とスタッフのみなさん。

 ストレートに”想い”に向き合ってきたメンバーの魅力は、作品の中に満ちていて、きっと多くのお客さんに伝わったことと思います。本公演があれば観に行きたいと思った方も多いのではないでしょうか。

 自分も、そんな魅力を感じた観客の一人として、かまとと小町をこれからも応援していきます。

 

  • 創像工房 in front of.

 最初から最後までグイグイ引き込まれるエンタメ作品で、とてもカッコよかったです。

 

 まず、ドッシリと舞台上に鎮座する大きな舞台装置。主にプロレスのリングとして使われる。劇団名が書かれた幕が舞台を隠すように持たれ、芝居が始まる前から後ろで何かをやっているのが見える。転換中の音楽や、たっぷりと焚かれたスモークも含め、ただただカッコいいなという印象から始まり、その期待を更に増していくかのようなMCが聞こえる。演劇祭に参加しているということも交えたMCは開演の合図となり、照明が消えていく中、グングンと熱気が高まっていく。

 この時点だけで全体を通して100点満点中の40点を既に得てしまうぐらいの、しっかりとお客さんを舞台の世界に引き込む力がありました。それは、この劇団において歴代の先輩たちが残していったものが、脈々と受け継がれて来た証のように感じます。

 

 物語としては、若きプロレスラーはGODと呼ばれている最強プロレスラーとタッグマッチを組むことになった。その試合で負ければ引退。若きプロレスラーは神の子と呼ばれる。しかし、GODは逃げ出した。これまでも八百長をしていただけだった。でも、若きプロレスラーはそれを分かっていた。そんなことは知っていた。それでも信じたのだ。一人でリングに立たされて、殴られて、いたぶられて、それでも信じていた。いつか来る。

 そんな一人のプロレスラーのお話と、救世主のお話がリンクした二重構造。今の世の中では、少なくとも今の日本では、人々は神がいないなんてことは、ある程度そう思っている。でも、心のどこかで信じている。救ってやくれないことなんて知っている。でも、どこかで救いを求めている。

 演劇だって、そこにあるのは嘘だって知っている。作家が台本を書いて、役者がそれを演じて、別にそこで起こっている出来事では決してない。そんなことは分かっている。それでもその世界を信じたい。どこかで信じている。

 でも、ぜーんぶ嘘だ。厳しい現実だって、いっそ嘘であって欲しい。けれど、そんなことは中々言えない。向き合わなきゃならない。ならば、せめてお芝居の中で、こんなもの嘘だって叫ぶことが出来れば。

 そしてラストの圧巻のパフォーマンス。

 

 二点ほど難を言えば、一つは、ちょっと分かりにくいところです。というのは、二重構造の作り自体が分かりにくいのではなく、この作りを提示するのが少し遅かったように思います。短編作品の連続上演という形式の中では、お客さんはその劇団がどんな芝居をするのか、というのは、あまり知らないことが多いと思います。その中で、一本の芝居として時間の流れと共に観るには、もっとこの芝居をどう観ればいいのかを提示した方が、より楽しめたのではないかと思います。もちろん、プロデュースされた催しではなく、審査形式の催しなので、どんなスタイルのお芝居をするのもアリだと思います。ただ、このお芝居においては、もしエンタメに振り切って魅せるのであれば、イマイチ分かりにくいなと思わせてしまっては損だと思います。

 そしてもう一つは、神の子と相手のプロレスのシーンです。相手は、試合を始める前の段階ではかなり力強い演技をしているのに、試合が始まってしまうと、どうにも少し力が抜けてしまったように感じました。それはおそらく、力が入りすぎて本当に殴ってしまってはいけない、というところから来ているのだとは思います。もちろんだからといって本当に当ててしまう必要はないと思いますが、せっかくここまで力強い演技をしているのだから、殴らないにしても、もう一工夫して力が入っているように見えるようなフリを考えてみてもよかったのかなと思います。

 

 それにしても、アツくてカッコよくて、清々しくて、とっても気持ちよかったです。

 きっと東京の方ではファンも多いのでしょう。機会があれば、観に伺おうかと思います。

 

  • プリンに醤油

 なかなかにシュールなコメディで、笑いが止まりませんでした。

 

 一体どんな話だったのか……思い出すと訳が分からなくなります。先輩が助けてくれたと思っていたら、11年ぶりに再会したのはバイト先で先輩は店長、急に拳銃自殺、語っていたと思えばそこは家のトイレ、ホームセンターはホラー仕様、そこでもまた店長、また急に自殺、人類は間を取り続けてきた、自殺してどこへ行く……

 断片を思い出してみて浮かびあげるのは、彼女たちのどこへも行けない、どこまでも行ってしまいそうな不条理さ。

 

 序盤からなんとも気だるい、というか、華がない、というか、役者さんの姿だけで、これは笑ってもいいんだということが分かります。そして挟まれる小ネタや急な展開は、細かいことは気にしなくてもいいんだと思えます。

 Cブロックでは特に、以前の2団体が割とガッチリとした作りのお芝居だったので、このお芝居はこう見たらいい、というのがすぐに分かるのはとても良かったと思います。

 

 展開の訳の分からなさはこちらの思考回路をどんどんと壊滅させて行き、「最後までチョコたっぷり」「○○が立った」「アイムソーリーヒゲソーリー」などの鉄板のネタも巧みに使い、どこまでも笑わせてくれます。

 転換が少し雑な感じはするものの、何故かそれも「次はどうなるんだろう」という気持ちにさせてくれます。

 

 ラストのシーンを見るに、何かこれを通して伝えたいようなこともあったのかなと思うのですが、笑いすぎて脳みそが麻痺していたため、ぼんやりとは感じるものの、よく分かりませんでした。

 なんとも語りにくいお芝居でしたが、全団体の中で一番好きでした。

 

 

山下耕平(Juggling Unit ピントクル) さん

 1991年生。ジャグリングをしています。Juggling Unit ピントクル代表。ジャグリングの舞台をつくっている関係で、最近は演劇とも多少の関係を持っています。演劇経験はほぼありません。
 演劇のことをより知りたいので、観劇レポートという形で自分が演劇をどのようにみているのかを文章化してみようと思いました。

 

 

  • 劇団未踏座

 Aブロックの一番手。僕は初回に観に行ったので、全国学生演劇祭の最初の最初の最初の作品を観ることができた、ということになります。

 開演前、黒い舞台装置がたくさん持ち込まれており、少し驚きました。なんとなく、こういう演劇祭ではそんなに凝った舞台装置を使わないだろ、と思い込んでいた。準備中にはなぜかメイド服の女の子が舞台上に立っていたり。舞台転換時間も劇団のアピールタイムなんですね。そんなこんなで舞台上には中央に大きな正方形の黒い台。台の真ん中には白丸が描かれる。上手下手にも黒色の台。舞台後方には大きな脚立。

 スタッフによって開演が告げられて、舞台上は暗転。布をかぶった4人の男女が中央の女の子を囲むという、いやに儀式じみた図から開演。「あなたはどうして生きているんですか?」と女の子が演説調で周囲や観客に尋ねるくだりがあって、、、からの、なんと演者と団体の自己紹介。テンポ良いです。紹介が終わってからの本編開始。主人公の女の子の過去と現在が錯綜しながら話が進んでいきます。

 受験の直後に鉄塔から飛び降りた友人のことを忘れられず、引きこもり生活を続けている女の子=小春のお話。毛布にくるまりながら、ストレートで根本的な問いをでも曖昧に投げかけ続ける小春の幼さがつらくて痛い。チャットモンチーの「橙」という曲を思い出しました。
 元気だった頃の小春の姿と、現在の小春の姿の対比がまたよかったです。現在の小春の方の、「ポッキー下さい」の言い方がちょっと好きでした。過去の小春もまた、一匹もザニガニを釣れなくて悲しそうにしているのがせつない。

 舞台装置は抽象的なのに、たまに登場する小道具は鍋だったりポッキーだったり、妙に具体的なのは、なぜだったのかわかりませんが、小春の狭い世界認識のあり方を観るような感もあります。タイトルに「日本」と大きなものを掲げていた部分にも似たものを感じました。

 

  • 演劇ユニットコックピット『あしぶみ』

 和室です。畳。舞台下手奥側に平台で和室がつくられ、上手と客席側が縁側になります。
 前の団体の未踏座と打って変わって、とても静かな劇でした。戦地へ派遣されたまま帰ってこない息子を待つ夫婦とその息子の友人二人(男女)が、息子の不在を受け入れて生きていく。舞台上には夫婦や友人たちのほかに当の息子=誠一もまた立っています。何度「ただいま」を言っても、誰にも聞こえず、誰とも目が合わず、縁側へも上がれない。それでも思い出の縁側にいつまでも静かにとどまり続ける。この作品の静かさは誠一の静かさだと思いました。その誠一にもまた激情にかられるシーンがありましたが、それは誰も縁側にいない時間(幕間)にとどまり、そのつつましさには涙しそうになります。

 息子をいつまでも待ち続ける夫婦ですが、中盤に転換点があります。父親が息子を待つことを諦めてしまいそうになるのを母親が押しとどめて、二人で一緒に待ちましょう、と説得し涙ながらに抱擁しあう場面。誠一が完全に蚊帳の外に置かれたこの場面では客席から啜り泣きが聞こえてきていてとても印象的でした。ここを転換点に徐々に夫婦の生活の焦点は誠一から逸れていきます。誠一の妹や友人たちの将来の話など。。。

 小道具としてビー玉が所々で使われていました。戦地から送られてきた誠一の遺骨箱の中に骨の代わりに入っていたビー玉。特に最後のシーン、一人残された誠一が縁側から部屋の中へビー玉を転がすという演出は美しかったです。含意もそうですが、単純にシーンとして美しく、好きでした。

 

  • poco a poco

 舞台装置はベンチのみのシンプルな舞台です。
 kiroroのオルゴール曲での回想シーンからの導入。斜め後ろ向きに座った二人の女の子の会話。会話のまわしが気持ち良いです。回想は短く終わり、次のシーンは中央にベンチが一台、そこにスーツの女性が一人。短大生が終電を待っているさなかに、ジャージ姿の中学生がなぜか登場、二人が会話を始めてからが本編!という感じ。やはりこれも会話のテンポがとても気持良いです。中学生の女の子のキャラクターがとてもいい。唐突に変なクイズをはじめて、答えたら「正解!ハイチュウあげる!」。まさに「道化」だし、でもしっかり中学生だなぁという気がして、笑いながらも感銘に近いものを勝手に受けていました。

 作品の方は、単に会話が面白いよね、というだけでは勿論なくて、その女の子は主人公の旧友の中学生時代の姿であることが分かったり、その旧友との思い出を主人公が忘れてしまっていることに気づいたり、とドラマが進んでいきます。「なんで忘れちゃうの?」と急にきつい言葉で詰り始める中学生女子の無邪気さと容赦なさがリアルでした。
 気が付いたら中学生はいなくなっていて、なぜかその旧友が現在の姿で登場、誕生日を祝ってくれます。中学時代と変わらぬテンションとノリで主人公を振り回しつつ、またまたテンポの良い会話。この旧友は先の中学生とは別の役者さんが演じているわけですが、この二つのキャラクターが間に時を挟んで連続しているのだということ、同じ人格の過去と現在なのだということが実感できてしまい、あとからなんだか変に混乱するほどでした。会話のテンポがそっくりに再現できていたのかなと思います。

 少し時間が短い印象がありました。もう何シーンか観たかったな、と感じたのが観終わった時の正直な感想です。前の二つが重厚だったせいもあるかと思います。

 

  • 劇団しろちゃん

 舞台奥に大きな脚立が置かれ、イルミネーションが飾られる。そこから放たれる光とでも言うように床に上下方向ではられる白い帯が三枚ほど。転換中にかかるのは星野源にクチロロ。

 女の子の自分一人だけの世界に入り込んでしまったようで、正直に言ってなかなかに居心地のよくない、そわそわさせられた時間でした。マンガなどで自分以外の登場人物が全て動物になってしまっている世界が描かれることがありますが、そんな感じでしょうか。目の前で実際に繰り広げられるとなると妙な気持ちになりますね。

 大好きな人の隣りにいるのに、彼は全く自分のことを向いてくれない。そんな女性の、夢の中と現実が入り混じった世界。夢のなかでは彼にそっくりの顔をした不思議な人があらわれて、丁寧に優しく語りかけてくる。。。途中、バンドのフロントマンになって主人公が主張をぶちかますシーンがあったり、恋敵と罵倒しあう修羅場があったり。優しく綺麗な世界の中で、ときおり現実の冷たさが見える。ものの、主人公が自分の世界にこもっている印象は最後まで一貫していました。登場人物みなが主人公のために存在しているかのような。
 ラストはイルミネーションや光るホット牛乳の瓶で彩られたなか、チャットモンチーがかかって締め。全編ミュージックビデオのような幻想的な舞台でした。

 

  • 劇団サラブレッド

 「コミュニケーション」が「ディス」な作品。あるいは「コミュニケーション」を「ディス」する作品?

 AブロックからBブロックと順に観てきて、ここまでで最も舞台上がシンプルです。というより何一つ舞台装置のない素舞台。役者は三人。音楽に合わせて「dis-dis-discommunication」などと呟きながら、叫びながら、不揃いなダンスを踊りつつ登場。父親・母親と息子という役柄と、サークルでの先輩後輩という素の役を行き来させつつ話をすすめていきます。
 父親も母親も息子も互いに打ち明けられない秘密を抱えて毎日を生きている。それを順番に大声で気持ちよく暴露していく。大声で言ってしまえ、「コミュニケーション」してしまえ、みたいな感性を馬鹿みたいに辿ることで揶揄しているようでした。「ミュージシャンになりたい!音楽経験ないけど!」の暴露でゲスの極み乙女をBGMにしていたのは笑った。

 役者が三人とも魅力的で、メタな作風であることもあり、眺めていて楽しい作品でした。「思春期ですから」を言い訳に勢いよくめちゃくちゃやっているという印象です。ラストははじめと同じくダンス。ノリこそコミュニケーション、いやディスコミュニケーションといったところでしょうか。

 

  • 劇団ACT

 舞台中央に楕円形にプラレールが引かれ、その中に机と椅子。天井からは木枠が吊るされて、机に向かって座る人は客席からは画面の中の人のように見える。プラレールの外側には五段ほどもある階段や平台、脚立などが並べられ舞台を一周する通路が形成される。そして、その所々に小道具として冷蔵庫やパソコン、ケトルなどなどまでもが持ち込まれてきます。まず舞台空間の作り方が他と比べ際立って凝っていて客席も期待が高まっていました。

 劇団ACTは今回の出演団体の中では唯一僕が今までに見たことのある団体です。二年前の京都学生演劇祭で一人静さんの演出を観たのですが、とても好きでした。今回も実はACTを一番の楽しみに観に来ています。

 複雑な舞台の転換が終わって、開演です。プロジェクタで映しだされる「  」という鍵括弧と空白。空白は何かしらの質問文であるらしく、それへ答える若者(おそらく)の文章もプロジェクタで映しだされます。そして、画面(木枠)の中での男女の会話へ。登場人物は六人。おそらく主人公であるだろう人物を要石にして他は互いに関連のない、実際最後まで舞台上でも関わることもない人物群。職場の外国人たちのことを「チャイナ」と言って罵倒するのに躊躇のない工場勤務の男や、それへ反発しまた地元の人間全般を嫌う女子大生、妻子持ちの同性愛者。。。彼らが言いつのる複数の世界観や思想の前に立ちすくんで、主人公がそれらの間に板挟みになっていく様に僕は自分を見るようで、しかしあるいはそれは僕がこの作品をそのようにしか見れなかったというだけなのかもしれません。

 人物の中で一人だけ浮いていたのは、パソコンの前に膝を組んで座った姿がはまっている男子大学生。周りを、そして自分をもどこか突き放して観察しているその姿は演出家や観客のそれを映し出しているようでした。悩みの渦中にある痛みみたいなものが多かれ少なかれ伝わってくる他の団体に比べ、悩みや苦しみが相対化されて描かれていて、その点見やすく思いました。また、複数の世界を舞台上に表現できていて、その空間の切り分け方のうまさを、同じ劇研という舞台空間を連続して使っているという事情のもとで、強烈に感じました。

 

  • かまとと小町

 AブロックBブロックと観てきて、どこの地域の団体であるのかというのは、あまり気にせずに観てきたのですが、このCブロック、特にかまとと小町さんには地域性を強く感じさせられました。それはとりあえずとても単純な理由によっていて、台詞が関西弁だったからですね。あえて関西弁でやります!みたいなものではないのがまた大阪らしい。大阪の地域としての強さを思います。こういうカラーの出方は、他の地域の団体ではありえないし、したとしても別の意味が出てきそうです。内容の方も、笑いあり、人情あり、でいかにも大阪な印象。吉本新喜劇的なものを感じてしまいました。
 舞台上には扉が三つ。三人の登場人物に対応しているよう。場所はラブホテル。上司との不倫で身籠ってしまった女性が、まだ見ぬわが子と出会う。前半は上司と主人公のやり取りです。場面の転換では有名なポップソングがかかり、それに合わせて二人が踊るというミュージカルのような演出が幾度も。上司の男性も役者は女性が演じています。後半は一転、主人公と赤ちゃんです。上司からの連絡も絶たれて、お腹の子共々死のうかと思い詰める女性のもとへ現れる、ベビー服であるらしい白いドレスをまとった、どう見ても成人女性な「赤ちゃん」。「誰なんあんた!?」というドタバタを基調に「死にたい」「生きたい」と感情のぶつけ合い。演劇において、言いづらい本音をどう切り出すか、という葛藤を観るのが個人的に好きなポイントだったりするのですが、笑いにうまく絡めていくこの感じはわりと好きでした。

 主人公の妊婦役の方がとても表情豊かで、ずっと見ていられるなぁと思ったりも。

 

  • 創像工房 in front of.

 東京・慶応大学。学生の熱量とエンターテイメント性の高さで、さすが東京、というかさすが東京の私立大だな!という感をもってしまった。Cブロックではそもそも開演前から、「二番目の団体さんがスモークをたきますので、云々云々」という注意アナウンスがあって、その時点からすでに存在感を出していました。団体間の転換時間では、舞台装置が出てくる出てくる。隣に座っていた演劇系大学生らしき女性たちが「なにこれかっこいい!」と連発していて、つい頷きそうになったりなど。。。舞台中央に円形の大きなステージが持ち込まれ、その下にスモークマシンが設置されます。団体名の書かれた横断幕が登場し、客席から舞台上を隠し、その状態から、開演。
 横断幕背後からマイクを通じての客席への呼びかけ(プロレス風?)というなんとも胸が高まるオープニング。新米プロレスラーと新預言者、二つの物語が並行して進められていきます。場面転換が多用されつつも、二つの物語で役者が同一のため展開はスムーズです。憧れのヒーローたる師匠への固い信頼と、神へのゆるがない信仰。友は、先輩弟子であり、「神の加護を受けた平和な国」の王子でもある。悪辣な罠をしかけてくる興行主と、「神を超える力を手に入れた」と迫る隣国の王。主人公はそれでもあきらめず戦います。

 正義は必ず悪に勝つ、わけではない。師匠は姿を消す。ボコボコになぶられ、はりつけにされ、ボロボロになって舞台へ取り残される主人公。復活をかたる彼のもとから友も離れていき。。。暗転。終演。かと思いきや、途中登場していたプロレスレポーターの女性が再登場、そのまま役者の紹介、からの主人公の「復活」の宣言。そのまま全員で毛皮のマリーズ「ビューティフル」をバックに踊る!終演!

 とにかく勢いと説得力がすごかったです。舞台上という現実であるがゆえに存在するはずの諸々の制約を感じさせない。キャラクターのデフォルメ具合からいっても漫画かアニメをみるようでもあり、ただプロレスシーンなどなどやはり生身の体の熱量があると違うなとも感じました。「信じる」というテーマが好みであったこともあり、もっとも楽しく面白く観た作品でした。

 

  • プリンに醤油

 「プリンに醤油」の「おじゃまんが」。団体名からタイトルから独特さがものすごい。圧巻の勢いだった創像工房 in front of. の後ということで、どんな作品であれやっぱり影響は受けざるを得ないだろうと思うのですが、今回はとても良い作用をしていた気がします。なるべく完璧に虚構を成立させようとしていた創像工房に対し、プリンに醤油はメタでシュールなコント。落差がものすごく、ゆえに面白さが倍増でした。舞台装置もほぼ箱馬のみ。

 二人の女性がなにやら舞台袖に半身を隠しながら会話中。初っ端、「いいか?」の問いに間髪おかずの「いやです」、からの「いやです」連発で客席をつかんで、展開されていく不思議な世界観&空気感。池田先輩の佇まいと行動の謎具合が本当に面白い。あるカフェで、三人の女性が久しぶりに再会する(店員として)。再会早々から開始される謎シュール会話に、しかし、唐突に訪れるシャットアウト。ピストル自殺シーンで笑いが躊躇なく笑いが起こりまくるのもなんだか不思議で少し楽しいです。池田先輩のトイレでの独白シーンを挟んで、ホームセンターでの三人の再会、そしてまたもシャットアウト。どうも池田先輩が時間軸が異なった世界を渡り歩いているらしい。シャワー室でも独白からコンビニでの再会、そしてシャットアウト。たどり着いたのは、吉田と山田が変な言葉を話す、ただそれだけの世界。。。

 それぞれのシーンがコントとして面白い。次の展開が全然読めず、いや読んではいてもそれを変な方向に越え続けてくる、ひたすら前のめりになって観てしまう作品でした。意味は分かったか、といえば、どうかなーとも思うけれど、でも意味が分かるためのものでもないかなと思うし、ただとても面白かったなという感想です。ということで、Cブロックは総体で観てとても楽しめる構成でした。

 

 

渡邊夏菜 さん

 東京の大学生。 東京学生演劇祭実行委員。中高演劇、からの、大学ではフリー(ほぼ観るのみ)。
 観劇レポーターへの応募は、日頃から「学生が学生演劇を評すること」について考えており、ひとまず私がやってみよう! と思ったため。普段は、小劇場系の芝居を主に見ています。

 

 

  • 劇団未踏座

 始まりに勢いがあり、その後も持続させていた点が良い。が、過剰になってしまう部分、もしくは、ふいに失速気味になってしまう部分もあった。また、演出の上で気になる点もある(例えば、何故鍋は本物であるにも拘らず、コップには水を入れないのだろう、など)。プロジェクターでの演出は意外性があり面白い。が、役者の勢いと相まって、力技のように感じてしまった。

 だが、直観的に、学生演劇祭ぽい、と感じた。おそらく、先述したような勢い、また、全員が楽しそうに演技をしていた点である。

 

  • 演劇ユニットコックピット

 兎にも角にも、丁寧、という言葉に尽きる。全体を通して、非常に細かい点まで作りこまれていた。特に、劇中での時間の重ね方、日常動作のひとつひとつ、に自然なこだわりを感じた。また、それぞれの人物に役割があり、それらの役同士の関係性の見せ方、特に、夫婦二人の空気感が素晴らしい。

 ただただ丁寧に重ねられたものから、自然と、景色が立ち上がってくるような感覚を覚えた。あと何回でも観たい、感じたいと思えるお芝居であった。

 

  • poco a poco

 大がかりなものが舞台にないため、役者の演技に集中することが出来た。一方で、小道具は多少派手なものを使っていたため、全体としてほどよいバランスになっていた。

 なにより一番大きな点としては、彼女たちの等身大が描かれていて、過剰なセンチメンタルになってはいなかったのが、とても心地よかった。過去の自分と話す、というのはファンタジー風でもあるが、ごく自然に受け止めることが出来た。今の等身大で作った舞台だからこそ、伝わってくるものがあった。

 

  • 劇団しろちゃん

 第一に、視覚的にバランスが良い。舞台に白線(横断歩道、他)を引いたことによる遠近感と中央に立てられた脚立による高さ、また、左右の空間の使い方、色の配置の仕方もよく考えられていた。また、空間の用途の変化は多かったものの、何かしらの工夫がなされていたため、混乱することはなかった。

 また、役者各々も、その場面の空気、また、劇中の世界観に沿った演技をしていて、不思議な空間と日常の風景の行き来もすんなりと付いていくことが出来たように思う。

 

  • 劇団サラブレッド

 コミュニケーションという日常。それが「ディス」していることによるシュールな笑いと、説明しがたいアバウトな嫌悪感、それでも伝えたいという感情を独自の方法で表現していた。クセになりそうな面白さがある。

 極めてシンプルに素舞台を使っていたが、特にいえば役者の距離感で、素舞台を活かしているときと殺しているときの落差があった。役者や脚本、音響などの個々は面白かった、そのため、より総合的なバランスが取れているとより良かったように思う。

 

  • 劇団ACT

 台による上下がある立体構造、釣り下がる木枠、水面に広がってく水の輪のような小道具配置。そして、プラレールを使う場面では、その音が静かな舞台によく映えていて面白い。だが、言葉が多く、「全部喋らせるのかな?」という気持ちになる。雰囲気がある分、もったいないと感じた。また、それに伴っているのかもしれないが、言葉が生きていないときがあった。

 全体の雰囲気は、一貫して保たれていたため、観客としては劇世界に入り込み易かった。

 

  • かまとと小町

 照明変化やダンスシーンなど客を飽きさせない演出が多かった。一方で、確かにエンターテイメント的な雰囲気になるのは面白かったが、もっと、曲(の歌詞)によってでなく、自分たちの言葉で表現することも出来たように思う。

 そして、もし、だが、男役を本当に男性がやったらどのような空気になるのだろうか。逆に、ごく自然にであるが、女の世界を作り上げられていたことが、MOMMYという舞台と、かまとと小町というユニットの魅力に共通することであろう。

 

  • 創像工房 in front of.

  客に訴えかけるエンターテインメントとしての演劇の形が目指されており、他の地域のものとは違う色が出ていた。転換から見せていく、また、最後に「役者自身」が「観客自身」に強く訴えかける、といった演出があり、演劇の虚構性を見せつつも、演劇のエネルギーを感じさせたことは見事だった。

 

  • プリンに醤油

 単純なコント劇として受け止めた。まとっている空気感が面白いのだと思う。結末の意外さも良かった。役者含め、個々の要素の面白さは十分にあった。が、特に、舞台の雰囲気とストーリーがそれぞれ違った方向の良さであり、そのため、劇全体としての印象は薄くなってしまったように感じる。

第1回全国学生演劇祭 講評&得点結果

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2016.4.3

審査員からの講評をいただきましたので、こちらに掲載いたします。
観客採点の平均点と、審査員それぞれの採点共に掲載いたしますので、是非講評と合わせてご覧いただき、審査員の方々が何を評価し採点を行ったのか、またご観劇いただいた方は特に、ご自身の採点との違いもお楽しみいただきながら、この演劇祭を、今一度振り返っていただけたら幸いに思います。


今演劇祭では、お客様、審査員共に、5点満点での採点を行っていただき、その平均点の合計で大賞を決定いたしました。
ここで一つお伝えしておきたいのは、この採点は、沢山の評価の仕方がある中での一つであり、この得点が、作品・団体のすべてを表しているわけではありません。
演劇祭では、作品以外でも様々なドラマがありました。各地から多くの学生が集うことで、たくさんの出会いが生まれ、可能性の塊が、一気に膨らんで色づいていったように思います。
それぞれの劇団、個人のこれからの活躍をぜひ楽しみにしていただき、少しでも応援していただけたら、これほどの喜びはありません。

 

それでは、講評と得点結果を、どうぞ!

 

 

得点結果

※小数点以下4桁を四捨五入

 

  • Aブロック

劇団未踏座
観客平均点 3.303
審査平均点 2
計 5.303

 

演劇ユニットコックピット
観客平均点 3.975
審査平均点 3.6
計 7.575

 

poco a poco
観客平均点 4.5
審査平均点 3.6
計 8.1

 

  • Bブロック

劇団しろちゃん
観客平均点 3.217
審査平均点 2.8
計 6.017

 

劇団サラブレッド
観客平均点 3.78
審査平均点 2.8
計 6.58

 

劇団ACT
観客平均点 4
審査平均点 4.2
計 8.2

 

  • Cブロック

かまとと小町
観客平均点 3.173
審査平均点 2
計 5.173

 

創像工房 in front of.
観客平均点 4.031
審査平均点 2.2
計 6.231

 

プリンに醤油
観客平均点 4.008
審査平均点 3.6
計 7.608

 

 

 

審査員からの講評

※各審査員毎に掲載。団体名の後ろの値がそれぞれの採点結果

(さらに…)

審査員からの講評

カテゴリ: アーカイブ 全国学生演劇祭開催後の劇評

2015.11.13

第0回全国学生演劇祭

2015年3月7日〜11日にかけて、『第0回全国学生演劇祭』と銘打って、各地の学生団体の上演とルール設定のための討論会を行いました。

 

 

—審査員からの講評—

 

あごうさとし

劇作家・演出家・俳優・アトリエ劇研ディレクター
「複製技術の演劇」を主題にデジタルデバイスや特殊メイクを使用した演劇作品を制作する。2014−2015文化庁新進芸術家海外研修制度研修員として3ヶ月パリに滞在。代表作に「total eclipse」(横浜美術館・国立国際美術館 2011)、「複製技術の演劇—パサージュⅢ—」(こまばアゴラ劇場・enoco・アトリエ劇研 2013-2014)等がある。2010年度京都市芸術文化特別制度奨励者。
2013-2014公益財団セゾン文化財団ジュニア・フェロー
神戸芸術工科大学非常勤講師

 

 

総評

2010年代の学生の感覚とはどういうものかに、関心をもって見ました。劇団しろちゃん以外は男の性欲が共通していましたね。やっぱり若いんだね。それ自体は結構なことだけど、割にそのまま出てきているから、もう少し考えるなり疑うなりした方が、いいかな。ともすれば若いのに古い感じがします。舞台芸術として作品を評価せよ、と言われれば、とりあえずもっと疑いをもってほしいなと思います。現代芸術を更新するのは、やっぱり次の世代じゃないでしょうか。

 

 

  • 相羽企画

小気味よく、トントンすすんで会場も笑いがおこり、迷い無くきっちり提出されている。だけども、戯曲・演出・演技いずれもテンプレート的で、使い古されているものばかりなのが残念です。決まり事にとらわれ過ぎると、かえって不自由になります。突っ走りながらも、時に足を止めて、色々な舞台作品や他分野の作品に触れて、感性をやわらかくしつつ、知見を広げて深めて、また、突っ走ってください。

 

  • 劇団しろちゃん

肝心の「ぼく」の演技は、考えてほしいな。11才の少年にどうしても見えない。途中、女に切り替わる仕掛けで、なぜこの俳優が演技をするかというのはわかりましたが、そしてそのアイデアは面白いのですが、舞台は舞台で現におこっていることがやはり重要です。11才の少年を大学生が演じるという時に、何をもって11才の少年として提出するかは、難題ではあるが、極めて重要な作業であり、それを考え実践する所に面白さがある。戯曲は情報量が足りていないかな。きっと考えていることを反映仕切れていないと思うのですがどうでしょうか。

 

  • 劇団西一風

しっかり組み立てていると思います。息を落とさず最後までひっぱっていく着実さと力強さを感じます。俳優も魅力的で、娯楽性も高い。特にセーラー服の少女は印象的に残っている。ただ、芥川の何を否定したのでしょうか。俳優のアウラやタイトルなどに、ある毒性が香るのですが、割とそのままな性欲の発露で、そこは退屈です。力量や人気はあると思いますので、面白い主題を捕まえて欲しい。

 

  • コントユニット左京区ダバダバ

最初のレストランのシーンは、秀逸でした。不条理劇の作家性というものを鮮烈に感じることができました。
作品がずれて行きながら回収して行くという事だったが、作品の質が、知性と力技の間で揺れる。情報という事でなく、力学的な構造としてぶれる。このブレ自体は面白いが、その扱い、焦点のあて方にまだまだ考える余地がある。狙いが絞られると、演出家は俳優に対してもう一歩踏み込めると思う。解散すると書いておられますが、是非続けて欲しいです。

 

  • 劇団冷凍うさぎ

戯曲・演出・俳優・美術に基礎体力がある。年の若い俳優が、良く夫婦を演じ、美術にもセンスを感じる。演出は良くコントロールしている。
ただ、この作品の重要な登場人物である兄妹・カニの夫婦に対する俯瞰の具合に遠慮を感じる。「人間の温かさ、冷たさ」というテーマをも突き放して考えると良いと思う。決して派手ではないが、演劇に対して重要な冒険心を内包している。サービス精神にとらわれず、やばいなと思うことをもっと進めてみてはどうでしょうか。ところで、あの題材を選んだのは何故か聞いてみたい。
私はこの度の審査では、劇団冷凍うさぎを押します。今後の作品への期待と、継続の意思を持っている点で、強く推挙します。

 

  • 東北大学学友会演劇部

とてもうまい。本当に良くできている。構成もうまく、フリも無理なく回収されている。俳優は全員感じもいいし、嫌みもない。偏りというのも無く、群を抜いて、均衡のとれたチームになっている。部員60名という下地の迫力を感じつつも、こういう出会い方というのは、なかなか無いのではないでしょうか。素晴らしい事だと思います。あえて苦言を呈すなら、90年代から2000年代初頭に既に提出された若者演劇の踏襲という感じだから、刷新性・現代性・批評性を意識しているようには感じられないのが、物足りなさを覚えます。

 

 

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西史夏(にしふみか)

1975年、宝塚市生まれ。劇作家、脚本家。大阪音楽大学演劇部劇団「調」出身。伊丹想流私塾第14期及びマスターコース5期・6期卒塾。第6回富士山・河口湖映画祭シナリオコンクールグランプリ(2013)、「日本劇作家大会2014豊岡大会」において第1回こうのとり短編戯曲賞最優秀賞(2014)、第2回せんだい短編戯曲賞大賞(2014)を、それぞれ受賞。第21回OMS戯曲賞最終候補(2014)。日本劇作家協会会員。伊丹市立音楽ホール副館長。伊丹市民オペラ公演実行委員会事務局長。

 

 

総評

 審査員として6劇団の順位付けをするにあたり、完成度と作家性にどう折り合いをつけるかに悩んだ。舞台芸術であるからには、内輪に留まらず、社会に開けていなければならない。しかし、少なくはない作品において展開された性へのアプローチは、私にとって受け入れがたいものであった。直後寸評にも書かせて頂いたが、殊に若い男性が憧れの女性を射止めるという、ありふれたリビドーの散見と肯定は驚くべきものであった。ここに私は優れた作家性を発見する事がどうしても出来なかった。
 苦慮した末、“既成の価値観を覆す”作家性があるか、またはその志があるかという事に重点を置いて評価した。そこで1位を「冷凍うさぎ」とし、2位を「東北大学学友会演劇部(コメディアス)」とした。「冷凍うさぎ」は、等身大の若者ではなく、敢えて中年夫婦という自分たちにとって未知なるものを演じた事が、学生演劇の枠を超える挑戦だと感じたし、スタッフ、キャストも、その選択を真摯に掘り下げ、作品を厳粛なるものに仕上げていると思ったからだ。
 2位の「コメディアス」(と、あえて書かせて頂く)について語るには、その前に本演劇祭において私が発見した「性」とは別のもう一つの特徴について書かねばならない。6作品を通して感じたのは、“人は運命に逆らえない”という、なにか思想めいた冷めた雰囲気である。<神>や<死者>といった、この世ならざるものの存在が生きている我らをコントロールしているという確信である。その絶対性は、精神的なものではなく物質的な感覚により近い気がする。その点において「コメディアス」は確信犯であり、<人間>が<時間>に対して抗う姿を通して、劇をメタフィクションとして成立させていた点が、他の劇団とは一線を画す。私はそこに3.11以降の演劇の可能性を見出したかったが、『ファイナルカウントダウン』からはそこまで汲み取る事が出来ず、2位となった。しかし、この集団が今後も物質への闘いを続けていけば、必ず次の展開が見られるものと期待している。

 

  • 相羽企画

愛しのまおちゃんの心を掴むため、青春予備校に入学する相羽くん。ベタな笑いが連続して繰り出される濃厚コメディ。
久しぶりに読んでみようという気になり、帰宅して『井上ひさし笑劇全集』を手に取ってみた。これは「てんぷくトリオ」の三人のために書かれたコント集である。いわゆるテレビ用の笑いであるが、小気味良いオチが今読んでも新鮮だ。「相羽企画」は、コントを面白くする条件を一揃い持った、若手ながらも老舗風の劇団である。対立もあるし、オチもある、役者も上手い。何が足りないのだろうと考えた時、ふと風刺ではないかと思いついた。しかし、風刺が笑いにとって最も重要な要素の一つだと考えた場合、そのパーツが欠けているのは少なからず残念に思う。

 

  • 劇団しろちゃん

 ファミリーレストラン。11歳の僕は、母の弟である22歳のおじさんと偶然出会う。秘密の性の告白が交わされる会話劇。
 6劇団中唯一の女性作家。私の中で、ある意味「しろちゃん」が際立って見えたのは、この演劇祭において青年マンガの中に1つだけ少女マンガが混じっているように思えたからだ。“姉が好きで彼女と別れてしまった弟”が、成長した姉の息子にその秘密を打ち明けてしまう。どのくらい姉が好きかというと、“姉が新婚旅行に出かける朝、パスポートを盗んで逃げた”というのだから、異常である。それを、ファミリーレストランで淡々と語るわけだ。この設定と<僕><おじさん>の関係性は、私は面白いと思う。だが、青年マンガの読者にも少女マンガを読んで欲しいのならば、今後は見せるための工夫や技術が必要だろう。

 

  • 劇団西一風

 “恋愛はただの性欲の詩的表現を受けたものである”という芥川の言葉を否定する。と、書かれていたが、作者は、“恋愛はただの性欲である”と言いたいのだろうか。それは私の誤読か。疾走する踊りと音楽と芝居に置いてけぼりをくらわないように観ながら、悶々とする。
 好きだった女の子が援助交際をしていたというトラウマのせいで主人公並木紐彦は、女性と関係を結べなくなる。紐彦がこだわるのは、女性が<処女>かどうかという点である。結果的に風俗嬢との性交で紐彦は童貞を捨てるのだが、それは<素人処女>だからという理屈である。紐彦は、天願愛咲さん演じるボロボロになったセーラー服の風俗嬢を拾い、養った。この局面は、私にとっては、色情狂女性ジョーの半生を描いた、ラース・フォン・トリアー監督の映画『ニンフォマニアック』の結末と重なる。左記の映画において主人公は、“沢山の男と寝たのだからいいじゃないか”と言って迫る童貞の老人に銃をぶっ放す。私は女性で、今年40歳になる。いま20代の前半であろう男性の作者が40歳になった時、果たして性の描き方は変わるのだろうか。

 

  • コントユニット左京区ダバダバ

 舞台には首吊り用とも思えるロープが1本。英国風のレストラン。ダムヲがイブコにプロポーズするという会話から始まる。しかし、イブコはキリンだった…
 この出だしは秀逸でした。“コントユニット”と名に冠した集団が、あたかもフランスの不条理劇を思わせるシュールな劇世界へ観客を引っ張り込む。こういう人を食った展開は好きです。しかしこの後、世界の軸はどんどん横へ横へとスライドしてゆき、あんなにこだわっていた英国は、あっさりフランスに代わってしまい、抑制された不条理劇は、よくあるドタバタ劇に居場所を譲ってしまう。様々に登場する引用はセンスを感じるが、ベクトルが散乱している印象は否めない。私は途中で、キリンが何のメタファーなのか完全に見失ってしまった。冒頭の不条理劇のまま通せば、突出した芝居になっていたのに…。
 とはいえ、キリンのイブコが“だって私、喉ばかり乾いているのだもの”という台詞の後、ロープに首を伸ばす様は実に美しく、本演劇祭の中で極めて劇的な瞬間の一つだったと言える。現代のイブであるイブコがキリンだという事実が、旧約聖書『創世記』の中でどういった障害になり、何を変容させるのか。そのヒントがあれば、この劇の見え方は変わっていたかもしれない。

 

  • 劇団冷凍うさぎ

 寂れたパーキングエリア。事故で2人の子を失った中年夫妻の会話。それを見守る、死んでしまった兄妹と、カニ。生きているものと、死んでいるもの、異なる世界の会話。
 カニが、例えばワイルダーの『わが町』における舞台監督のような語り部的役割を担っているならば、同じ死者であっても、兄妹との立場の違いを明確にする必要があっただろう。夫婦、兄妹、カニの位相をハッキリ打ち出せば、鋭い三角形が描けたのではないか。更には、夫婦には事件そのものではなく、別の題材を使って思いを語らせることも出来た筈だ。大田省吾の『更地』や、別役実の『虫たちの日』、松田正隆の『冬の旅』など、中高年夫婦を扱った戯曲を一度参考にされてみてはいかがだろう。私は、この作品はもっと長くてもいいと思っている。核心だけで話を続けようとするから、短くしなければならないのだ。別の話題を与えれば、じゅうぶん45分もたせるだけの技術と精神力を、この劇団は持っている。機会があれば、ぜひチャレンジして欲しい。
 最後に、本演劇祭にスタッフ賞があるならば、間違いなく私は『あくびの途中で』の舞台美術を推挙する。小さなテーブルと椅子2つ、溶けた窓枠。ミニマムな『あくび~』の世界を現出し、秀逸であった。
 一見地味に見えるが、演劇で人の内面に斬りこんでいこうとする「冷凍うさぎ」の取り組みは果敢である。これからに期待して、私は一位に推した。

 

  • 東北大学学友会演劇部

 真冬の男子寮。年末も近いというのに、だらだらしている6人。突如現れたカウントダウンに抗う人間たちを描く。
 脱力系の俳優達の上手さに舌を巻く。殊に、6人の男性の駆け引きが絶妙であることは、私が言うまでもないだろう。おそらく、演出家は俳優の個性を熟知していて、彼らの魅力を最大限に引き出すことで、極上のコメディに仕上げる事に成功しているのだろう。
 『ファイナルカウントダウン』で、俳優たちが闘うのは<時間>である。演劇というカイロス(時計で計れない時)を、クロノス(時計で計れる時)が支配してしまうという仕掛けがメタフィクション的で、冷めた感じがいかにも洗練されている。
 自然災害など、人間にはコントロール出来ない危機的状況に、それでも抗おうとする人々の姿は無力で悲しいけれど、可笑しい時もある。私は今回東北大学を1位にしなかったが、もしこの人たちが今後、“人間にとってどうしようも出来ない事に、それでも抗う人々”を、ある一つの社会的な視点を持って深めていけたら、ちょっとした革命が起こせるんじゃないかと思う。

 

 

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森山直人(もりやまなおと)

演劇批評家
1968年生まれ。演劇批評家。京都造形芸術大学舞台芸術学科教授、同大学舞台芸術研究センター主任研究員、機関誌『舞台芸術』編集委員。京都芸術センター主催事業「演劇計画」企画ブレーン(2004~09年)を経て、2011年より、KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員、2013年より実行委員長を務める。著書に、『舞台芸術への招待』(共著、放送大学教育振興会、2011年)。

 

 

総評

 「学生演劇祭」というイベントの意味について考えるためには、「学生」という存在が、今、日本の文化のなかで、どのような位置にあるのかを考えてみなければなりません。
 今年で70年目となる戦後日本の文化において、「大学生」は、まさしく日本の文化全体をリードする存在でした。敗戦直後の日本を牽引したのは、学徒動員のような苦い経験を間近に体験した当時の大学生たちであり、演劇というジャンルにおいては、「新劇」の隆盛と結びつきました。やがて、戦後生まれの世代は、戦前・戦中世代に反発し、全学連、全共闘運動の渦巻く風潮と共振しながら、「アングラ」のような独自の表現を切り拓きました。そして、1970年以降、大学進学率がみるみる増加し、日本が高度消費社会に突入した後は、多様化するメディア文化を身軽に統合しうる表現手段として、新しい世代の大学生が、小劇場の爆発的なブームに結びつくような学生劇団の活動に熱狂したのでした。
 こうした活動の前提となっていたのは、「大学」という場所が、良くも悪くも「社会」とは一線を画した「独立空間」、インディペンデントな場である、という感覚の共有でした。そうした感覚は、いうまでもなく、戦後民主主義のなかで醸成された「学生自治」の思想に由来しており、消費社会化の後は、良くも悪くも、若者たちの楽園のような場所としても機能していたのです。
 しかし、今日、そうした大学像は、これもまた良くも悪くもですが、大きく変わりつつあると言えます。大学が、就職=キャリアデザインの問題も含め、社会といかに開かれ、繋がりをもっているかが強調され、あるいは「学力低下問題」を背景に、「高校教育との接続」をいかに確保していくかが話題になったりする。一種の自治共和国のような体裁をもっていた「大学」は、一種の「お薬」のように、社会のさまざまな矛盾に対処するべく撹拌され、拡散しつつある。私はかつての大学がよかった、と言いたいのではありません。「開かれた存在」としては、明らかによくなっている面もたくさんあります。しかし、その一方で、「大学」のイメージは希薄化し、それゆえ「大学生の文化」というイメージも明らかに希薄化していることは事実であり、「学生劇団」というイメージもまた、そうした時代の流れにしたがって、かつてほど輪郭のはっきりしたものとして思い浮かべることが難しくなりつつあるように思います。
 問題は、まさにそのようななかで、「学生演劇祭」を組織する、あるいは参加する、ということの意味はどこにあるのか、ということではないかと思います。というより、私個人としては、この「学生演劇祭」に、まさにそのことを考える場として機能してほしい、と思っています。
 1980年代以降に話を絞ってみたとき、学生劇団と小劇場演劇は地続きのものでした。たとえば、野田秀樹は東大劇研と、鴻上尚史は早稲田劇研と、強く結びついていました。それだけ、「大学」が、演劇的な新しい表現が主張しやすい場であったということを、このことは意味したはずです。ところで、現代のアイドル文化や、お笑い文化の多くは、80年代であれば「小劇場演劇」が担っていました(小劇場のアイドル的な女優に対する熱狂は、いまのアイドルに対する熱狂と――オタ芸的な様式化(!)の存在を除いては――大差ありませんし、小劇場における「笑い」は、吉本新喜劇が学校を作る前までは、若者文化を代表しうる存在だったのです)。いいかえれば、新しい表現を生み出す場としての「大学」という場所は、もはや自明のものではなく(繰り返しますが、昔はよかったということではなく、たんにそのように変わった、ということです)、才能や野心のある若い人たちは1990年代以降はそういう新しい場を求めていくことが一般化します。「大学」が、アートやエンターテイメントの最前線であることはもはやそれほど簡単ではない。しかし、だからこそ、いま「学生」が集まり、「学生」になにができるのかを考え、主張することに、逆に意味が出てきているということもできるでしょう。
 その点で、私にはひとつだけ、「学生演劇祭」に集まる人たちに考えてほしいことがあります。一団体の上演時間(持ち時間)を、どのように考えるか、ということです。
 周知のように、「高校演劇コンクール」は、上演時間に制限があります。今回の「第0回」を見ていて感じたのは、この「学生演劇祭」の上演時間が、高校演劇の上演時間の制約と、やや似たものになりすぎていないか、ということです。私は何度か、高校演劇の審査員をやったことがあります。その経験を踏まえていうと、「高校演劇」は、「演劇」などでは決してありません。ややきつい表現にきこえるかもしれませんが、最後まで聞いてください。私は高校演劇のなかに、演劇的に優れた作品があることをよく知っています。だから私が言いたいのは、クオリティの面についてではありません。「高校演劇」に、上演時間をめぐる自主的な選択権がない、というただその一点において、あえて、「演劇ではない」と言いたいのです。というのも、本来、演劇なんて、2時間でも、5時間でも、一晩でもやっていいものだからです。そして、空間も、どんな場所を使ってもいい。演劇という表現ジャンルの本質的な「自由」は、そこにあるはずです。
 「高校演劇」の時間制限は、それを前提とした特定のドラマトゥルギー(劇的構成方法)を可能にします。つまり、ひとつかふたつ、卓抜したアイディアがあれば、時空的に成立するのです。しかし演劇は、1時間を超える時間をどのように持たせるのかが、一番大変なのです(三浦基さんの劇団地点の作品は、60~70分程度の上演時間が多いですが、あれは数時間分の情報量を凝縮した1時間なので、高校演劇の時間性とはまったく異なっています)。大学生が、ときには「高校4年生、5年生・・・」などと揶揄されることもあるこの時代において、そうした「高校演劇」の制度とどのように切断するか、は、「学生演劇祭」のひとつの具体的な課題となるのではないでしょうか。
 皆さんの「主張」を、ぜひとも聞いてみたいと思っています。

 

 

  • 相羽企画

 「笑い」は演劇にとって、とても重要な要素です。しかし同時に「笑い」は、いま日本の文化においてもっとも競争の激しい分野であって、多くの才能が次々に淘汰されていき、それにしたがってクオリティも向上しています。そういうなかで、ライブでしかできない「笑い」、劇場でしかできない「笑い」がなにかを、「演劇」は一度じっくり考えてみる必要がある時期にきていると思います。この作品についていえば、ボケとツッコミはそれなりに上手いし、テレビ的なネタの作り方もさまになっていると思います。ただ、それだけでは学生コンパの宴会芸を超えられません。わざわざ、こういう特別の場に来て表現する意味はどこにあるのか。それを考え抜くことから、新しい「笑い」の地平は生まれてくるのではないでしょうか。

 

  • 劇団しろちゃん

 複雑な人間関係を、日常的なリアリティを基調にしながら丁寧に描いていこうとするアプローチには好感を持ちました。ただ、ほんとうにこの複雑な関係性を説得的に描き出そうとすれば、この上演時間では足りないと思います。そこをスキップしていくとき、どこかで表現が要約的になり、場面と場面のつなぎ方に詰めの甘さが生じてしまいます。まさにこの点が、「高校演劇的なもの」と「演劇的なもの」を分ける分かれ目になります。タイトルも、もう一回、考え直してみてもよかったかもしれません。

 

  • 劇団西一風

 「性」は、いま、最もやりがいのあるテーマでありうると思います。過去20年間、日本におけるセクシュアリティの感覚は、文化のなかでも最も変化の大きいファクターだったと思われるからです。この作品には、もはやかつての性モラルではおさまらない女性キャラクターが多く登場しますが、それ自体は、同時代の作品として当然でしょう。そして、この作品では、そうしたキャラクターが、とてもたくましく描かれており、かつ、それが、劇団独特の演出スタイルによって、自立したフィクションとして見られるところまで仕上がっていた点は評価できると思いました。

 

  • コントユニット左京区ダバダバ

 不条理コメディとして、奇想天外な展開には、見ていて驚かされました。良し悪しはともかく、ここには、「普通のドラマ」には絶対にしたくない、という強い意志が感じられたし、それはそのまま、この劇団のひとつの主張、メッセージであったわけです。惜しむらくは、この方向であれば、もっと破壊力のあるナンセンスを立ち上げることができたのではないか、という点です。キリンが首を吊る絵で終わることは、最初から予想がつく範囲の展開なので、もう一度、そこをひっくり返す迫力があれば、もっとよかったと思います。

 

  • 劇団冷凍うさぎ

 シリアスな夫婦二人の会話と、それをメタレベルから見る死者たちのコメンタリーと、二つのレイヤーから成り立っているこの作品は、設定としては十分に劇的要素をそなえていて、見ていて興味を惹きつけられました。ただ、メタレベルの死んだ子供たち、カニの視線が、必ずしもうまく機能していなかったことは惜しまれます。たとえば、この三人は、客席に背中を向けたりしますが、観客に背中を向けるという行為は、演出上の構図として、大きな意味を持ってしまうものなので、やるならばそれがうまく「決まる」必要があるでしょう。30分という上演時間は、彼らにとってはやや短すぎたかもしれません。

 

  • 東北大学学友会演劇部

 この演劇祭における上演時間の制約を逆手にとり、カウントダウンをひとつの劇的構造として使ってしまう、という手法は、思いつきとしては誰でも考えそうなことですが、実現するためには、かなり周到な計算を必要とします。グダグダの脱力演劇から始まって、最後にはそうした全体の構造をひっくり返すまで、徹底的にこの設定で遊びきったことは、ひとつの力の証明であったと言えるでしょう。結果として、出来上がった世界は、なんともバカバカしい世界ですが、バカバカしさこそ、この劇団にとっては最大の賛辞でしょう。そしてそのバカバカしさが、「演劇」のもつ、舞台上と客席という根源的な構造と結びついていたところに、彼らのエネルギーが生まれていたことは、あらためて注目されてよいと思われます。