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企画

審査員講評 森山直人 氏

総評

 「学生演劇祭」というイベントの意味について考えるためには、「学生」という存在が、今、日本の文化のなかで、どのような位置にあるのかを考えてみなければなりません。
 今年で70年目となる戦後日本の文化において、「大学生」は、まさしく日本の文化全体をリードする存在でした。敗戦直後の日本を牽引したのは、学徒動員のような苦い経験を間近に体験した当時の大学生たちであり、演劇というジャンルにおいては、「新劇」の隆盛と結びつきました。やがて、戦後生まれの世代は、戦前・戦中世代に反発し、全学連、全共闘運動の渦巻く風潮と共振しながら、「アングラ」のような独自の表現を切り拓きました。そして、1970年以降、大学進学率がみるみる増加し、日本が高度消費社会に突入した後は、多様化するメディア文化を身軽に統合しうる表現手段として、新しい世代の大学生が、小劇場の爆発的なブームに結びつくような学生劇団の活動に熱狂したのでした。
 こうした活動の前提となっていたのは、「大学」という場所が、良くも悪くも「社会」とは一線を画した「独立空間」、インディペンデントな場である、という感覚の共有でした。そうした感覚は、いうまでもなく、戦後民主主義のなかで醸成された「学生自治」の思想に由来しており、消費社会化の後は、良くも悪くも、若者たちの楽園のような場所としても機能していたのです。
 しかし、今日、そうした大学像は、これもまた良くも悪くもですが、大きく変わりつつあると言えます。大学が、就職=キャリアデザインの問題も含め、社会といかに開かれ、繋がりをもっているかが強調され、あるいは「学力低下問題」を背景に、「高校教育との接続」をいかに確保していくかが話題になったりする。一種の自治共和国のような体裁をもっていた「大学」は、一種の「お薬」のように、社会のさまざまな矛盾に対処するべく撹拌され、拡散しつつある。私はかつての大学がよかった、と言いたいのではありません。「開かれた存在」としては、明らかによくなっている面もたくさんあります。しかし、その一方で、「大学」のイメージは希薄化し、それゆえ「大学生の文化」というイメージも明らかに希薄化していることは事実であり、「学生劇団」というイメージもまた、そうした時代の流れにしたがって、かつてほど輪郭のはっきりしたものとして思い浮かべることが難しくなりつつあるように思います。
 問題は、まさにそのようななかで、「学生演劇祭」を組織する、あるいは参加する、ということの意味はどこにあるのか、ということではないかと思います。というより、私個人としては、この「学生演劇祭」に、まさにそのことを考える場として機能してほしい、と思っています。
 1980年代以降に話を絞ってみたとき、学生劇団と小劇場演劇は地続きのものでした。たとえば、野田秀樹は東大劇研と、鴻上尚史は早稲田劇研と、強く結びついていました。それだけ、「大学」が、演劇的な新しい表現が主張しやすい場であったということを、このことは意味したはずです。ところで、現代のアイドル文化や、お笑い文化の多くは、80年代であれば「小劇場演劇」が担っていました(小劇場のアイドル的な女優に対する熱狂は、いまのアイドルに対する熱狂と――オタ芸的な様式化(!)の存在を除いては――大差ありませんし、小劇場における「笑い」は、吉本新喜劇が学校を作る前までは、若者文化を代表しうる存在だったのです)。いいかえれば、新しい表現を生み出す場としての「大学」という場所は、もはや自明のものではなく(繰り返しますが、昔はよかったということではなく、たんにそのように変わった、ということです)、才能や野心のある若い人たちは1990年代以降はそういう新しい場を求めていくことが一般化します。「大学」が、アートやエンターテイメントの最前線であることはもはやそれほど簡単ではない。しかし、だからこそ、いま「学生」が集まり、「学生」になにができるのかを考え、主張することに、逆に意味が出てきているということもできるでしょう。
 その点で、私にはひとつだけ、「学生演劇祭」に集まる人たちに考えてほしいことがあります。一団体の上演時間(持ち時間)を、どのように考えるか、ということです。
 周知のように、「高校演劇コンクール」は、上演時間に制限があります。今回の「第0回」を見ていて感じたのは、この「学生演劇祭」の上演時間が、高校演劇の上演時間の制約と、やや似たものになりすぎていないか、ということです。私は何度か、高校演劇の審査員をやったことがあります。その経験を踏まえていうと、「高校演劇」は、「演劇」などでは決してありません。ややきつい表現にきこえるかもしれませんが、最後まで聞いてください。私は高校演劇のなかに、演劇的に優れた作品があることをよく知っています。だから私が言いたいのは、クオリティの面についてではありません。「高校演劇」に、上演時間をめぐる自主的な選択権がない、というただその一点において、あえて、「演劇ではない」と言いたいのです。というのも、本来、演劇なんて、2時間でも、5時間でも、一晩でもやっていいものだからです。そして、空間も、どんな場所を使ってもいい。演劇という表現ジャンルの本質的な「自由」は、そこにあるはずです。
 「高校演劇」の時間制限は、それを前提とした特定のドラマトゥルギー(劇的構成方法)を可能にします。つまり、ひとつかふたつ、卓抜したアイディアがあれば、時空的に成立するのです。しかし演劇は、1時間を超える時間をどのように持たせるのかが、一番大変なのです(三浦基さんの劇団地点の作品は、60~70分程度の上演時間が多いですが、あれは数時間分の情報量を凝縮した1時間なので、高校演劇の時間性とはまったく異なっています)。大学生が、ときには「高校4年生、5年生・・・」などと揶揄されることもあるこの時代において、そうした「高校演劇」の制度とどのように切断するか、は、「学生演劇祭」のひとつの具体的な課題となるのではないでしょうか。
 皆さんの「主張」を、ぜひとも聞いてみたいと思っています。

 

 

  • 相羽企画

 「笑い」は演劇にとって、とても重要な要素です。しかし同時に「笑い」は、いま日本の文化においてもっとも競争の激しい分野であって、多くの才能が次々に淘汰されていき、それにしたがってクオリティも向上しています。そういうなかで、ライブでしかできない「笑い」、劇場でしかできない「笑い」がなにかを、「演劇」は一度じっくり考えてみる必要がある時期にきていると思います。この作品についていえば、ボケとツッコミはそれなりに上手いし、テレビ的なネタの作り方もさまになっていると思います。ただ、それだけでは学生コンパの宴会芸を超えられません。わざわざ、こういう特別の場に来て表現する意味はどこにあるのか。それを考え抜くことから、新しい「笑い」の地平は生まれてくるのではないでしょうか。

 

  • 劇団しろちゃん

 複雑な人間関係を、日常的なリアリティを基調にしながら丁寧に描いていこうとするアプローチには好感を持ちました。ただ、ほんとうにこの複雑な関係性を説得的に描き出そうとすれば、この上演時間では足りないと思います。そこをスキップしていくとき、どこかで表現が要約的になり、場面と場面のつなぎ方に詰めの甘さが生じてしまいます。まさにこの点が、「高校演劇的なもの」と「演劇的なもの」を分ける分かれ目になります。タイトルも、もう一回、考え直してみてもよかったかもしれません。

 

  • 劇団西一風

 「性」は、いま、最もやりがいのあるテーマでありうると思います。過去20年間、日本におけるセクシュアリティの感覚は、文化のなかでも最も変化の大きいファクターだったと思われるからです。この作品には、もはやかつての性モラルではおさまらない女性キャラクターが多く登場しますが、それ自体は、同時代の作品として当然でしょう。そして、この作品では、そうしたキャラクターが、とてもたくましく描かれており、かつ、それが、劇団独特の演出スタイルによって、自立したフィクションとして見られるところまで仕上がっていた点は評価できると思いました。

 

  • コントユニット左京区ダバダバ

 不条理コメディとして、奇想天外な展開には、見ていて驚かされました。良し悪しはともかく、ここには、「普通のドラマ」には絶対にしたくない、という強い意志が感じられたし、それはそのまま、この劇団のひとつの主張、メッセージであったわけです。惜しむらくは、この方向であれば、もっと破壊力のあるナンセンスを立ち上げることができたのではないか、という点です。キリンが首を吊る絵で終わることは、最初から予想がつく範囲の展開なので、もう一度、そこをひっくり返す迫力があれば、もっとよかったと思います。

 

  • 劇団冷凍うさぎ

 シリアスな夫婦二人の会話と、それをメタレベルから見る死者たちのコメンタリーと、二つのレイヤーから成り立っているこの作品は、設定としては十分に劇的要素をそなえていて、見ていて興味を惹きつけられました。ただ、メタレベルの死んだ子供たち、カニの視線が、必ずしもうまく機能していなかったことは惜しまれます。たとえば、この三人は、客席に背中を向けたりしますが、観客に背中を向けるという行為は、演出上の構図として、大きな意味を持ってしまうものなので、やるならばそれがうまく「決まる」必要があるでしょう。30分という上演時間は、彼らにとってはやや短すぎたかもしれません。

 

  • 東北大学学友会演劇部

 この演劇祭における上演時間の制約を逆手にとり、カウントダウンをひとつの劇的構造として使ってしまう、という手法は、思いつきとしては誰でも考えそうなことですが、実現するためには、かなり周到な計算を必要とします。グダグダの脱力演劇から始まって、最後にはそうした全体の構造をひっくり返すまで、徹底的にこの設定で遊びきったことは、ひとつの力の証明であったと言えるでしょう。結果として、出来上がった世界は、なんともバカバカしい世界ですが、バカバカしさこそ、この劇団にとっては最大の賛辞でしょう。そしてそのバカバカしさが、「演劇」のもつ、舞台上と客席という根源的な構造と結びついていたところに、彼らのエネルギーが生まれていたことは、あらためて注目されてよいと思われます。