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レビュー

審査員講評 大岡淳 氏

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高校演劇を卒業しよう!

総論としては、「高校演劇の高級版」にとどまるものと、その域から抜け出ているものと、私の中では印象が二分されており、もちろん後者を高く評価した。やはり「全国学生演劇祭」と銘打たれている以上、観客としては、大学生ならではの面白さを見せてもらいたいのである。改めて全参加団体が、「高校生でもなく、社会人でもなく、大学生にしか作れない演劇とは何か」を、自分たちで問い直してみるとよいのではないだろうか。

 その意味で、エキシビジョン枠にエントリーしている4団体は、どれもクオリティが高く、安定感があり、学生劇団にとっての立派な手本だと感じた。いずれも、セミプロないしプロのレベルに達していると思えた。喜劇のヒロイン『ノリとホトトギス』は、すっとぼけた不条理感(『ゴドーを待ちながら』が透けて見える)がジワジワ来た。劇団なかゆび『45分間』は、日本人の差別感情を告発する直球の内容に感動し、これこそ正統派の現代演劇であると感心した。相羽企画『おめでとうございます』は掛け値なしに笑えるコメディで、サービス精神にあふれたエンタテインメントを堪能した。シラカン『爽快にたてまえ』は、俳優ふたりの演技と台詞の力だけで、詩的世界を現出させてしまう技量に感服した。

 これらエキシビジョン枠の作品群を参照することで、各参加団体にとっての「大学生にしか作れない演劇」が、徐々に見えてくることだろう。これからも頑張って下さい。

 

 

はりねずみのパジャマ

『楽しみましょう』

 

「若者たちが屋敷で惨殺される」というホラー類型のパロディとしてのおかしさは、なかなか良かった。またその状況に巻き込まれ、なんとなく流されてしまう友人たちに苛立つ園田の、言葉にしづらいモヤモヤにも共感できた。そして全体に「ゆるい」雰囲気は、いかにも最近の小劇場演劇の影響を受けている感じだが、これも悪くはなかった。

ただドラマの構成上、「今日何があっても絶対怒らないと決めてた」から始まる園田の心情吐露は、唐突の感は否めなかった。全登場人物を均等に描くのではなく、恋人をレンタルする道上の心情か、そんな道上に「話し合いで解決」を持ちかける園田の心情か、どちらかにフォーカスする必要があったのではないか。

儚い青春群像という点では、高校演劇の定番『夏芙蓉』の大学生版と解釈できなくもないのだが、うん、わかるけど、『夏芙蓉』はもう卒業していいんじゃない?と、思ったりもした。

 

 

南山大学演劇部「HI-SECO」企画

『蝉時雨、ある少女の夏』

 

俳優たちの技量を買う。特に、晴太を演じた高橋周平、母を演じたぐーじのコンビネーションは素晴らしかった。またその演技を、簡素な舞台に配置し観客の想像力に委ねる演出も悪くない。ただ、戯曲の内容がいかにも高校演劇っぽい点が、どうしても引っかかる。「高校演劇っぽい」というのはこの場合、高校生世代が主人公として設定され、その彼/彼女が、日常生活にひそむ狂気とか暴力とか不条理とか死とかに直面して、いかにもドラマチックな葛藤を経て自分の奥底にあった感情を解放し、そこそこ悲劇的な結末に至る……というようなパターンを指す。こういうものを衒いなく(=ベタに)演じて評価されるのはまさしく高校生までであり、大学生がこのような物語を演じるのであれば、高校生にはない批評性(=「あえて」やる意味)がどうしても必要だと思った。例えば「虐待する父はひどい、母も子もかわいそう」が高校生の視点だとすると、「ではなぜこの父は母子に暴力をふるったのか?」を掘り下げるのが大学生の視点ではないだろうか。

 

 

fwtp(フワトピ)

『Dreamy Null Another』

 

俳優3人だけで次々に役を演じ分けるという演出と演技はなかなか意欲的で、面白かった。ただ、細かいことだが、そのしかけに衣裳デザインが合っていない。観客である我々は、どうしても最初に演じられた役と衣裳の色を関連づけて記憶してしまうので、俳優が役をチェンジするスピード感を、この衣裳の印象が邪魔してしまっていると感じた。この演出を引き立てるには、衣裳はモノトーンでまとめておくのが無難だったかと思う。

物語のテーマには、残念ながら、私は全く共感できなかった。こんなふうに完璧主義を娘に押しつける母親って、未だに(テレビドラマの中以外に)存在するんだろうか? 存在するとすれば、かなり特異な病理として描くしかないのではないか? 昭和の「受験戦争」時代(私にとっては少年時代)なら、このような「教育ママ」を揶揄することにいくらかの説得力があったが、いまどきは「子の将来については当人の意思を尊重したい」とする親が多数派であろう。そのような状況で、子世代にとっての息苦しさがあるとすれば、それはむしろ「自由」を与えられているがゆえに、何を選択していいかわからない(あるいは、無難な選択しかできない)不安感や焦燥感に由来するのではないだろうか? ともあれ、学生諸君が今という時代をどう認識しているかが問われるのが、学生演劇の醍醐味ではあろう。その点が弱いため、この芝居も、高校演劇っぽいという印象を拭えなかった。

 

 

劇団ひとみしり

『リカちゃん』

 

これも今風の「ゆるい」演劇であったが、まるで幼児のごっこ遊びのような演技スタイルを最初から最後まで徹底し、いまどきの若者の生態をちょっぴりグロテスクに浮上させる集団劇であり、その徹底ぶりは誠に痛快であった。背景に投影されるメッセージも面白いのだが、それがだんだんと作者自身のモノローグであることが判明し、上演されている若者の生態に対する批評性が、明確に言葉で“説明”されてしまう点が惜しかった。講評会で綾門さんも言っていたように、この批評的メッセージを省いてしまっても、じゅうぶんグロテスクさは伝わるし、もしこの批評性をどうしても加味させたいなら、作者=神の声として別次元に配置するのではなく、やはりこの集団劇の内部に配置する方が、もっとスリリングになったのではないだろうか。作者には、ぜひ今どきの小劇場演劇だけではなく、例えば、ベルトルト・ブレヒトという劇作家の手法に学んでもらいたい。

 ともあれ、このように自分たち自身が抱える一面を、誇張して揶揄して相対化する芝居を、全員で合意して作り上げた、集団としての力量は大したものである。

 

 

睡眠時間

『◎』

 

冒頭から、舞台美術の精度の高さに目を奪われた。俳優たちの演技力の高さも、今回の演劇祭の中では、一頭地を抜いていた。泥臭く生きる人々の、苦しく、切なく、そして美しい群像劇であり、全体的に完成度の高い上演であった。とりわけ、まるで自分もかつてこんな街で生きていたかのような感覚――ノスタルジーを喚起する力に、圧倒された。

 ただし、なにやら「社会問題」を示唆する、思わせぶりな要素をつめこみすぎたと思う。また、講評会では、俳優の好演とあいまって友田という登場人物の存在が高く評価されていたが、私は意見を異にする。この(悪い意味ではなく)古典的なドラマツルギーの中で、ここまで抽象化された人物および台詞を配置してしまうのは、私は「禁じ手」もしくは「逃げ」ではないかと感じた。『リカちゃん』において、肝心の批評性が、作者のモノローグとして処理されてしまったことと似ていると感じた。

 とはいえ、講評会で山口さんがおっしゃっていたように、「障碍を負う可能性の高い子を出産するか堕胎するか」という重い問いかけに向き合い、リアリティを感じさせた点は、評価できる。ただ、この問いかけをきれいごとで終わらせないためには、この問いをしっかり中核に据えたドラマにすべきだったのではないか、とも思う。その意味では、「群像劇」という手法がはたして適切だったかどうか、疑問が残る。

 

 

デンコラ

『幻によろしく』

 

 観客を笑わせながら、パワフルに疾走していく感じは悪くない。悪くないんだけど、それだけといえばそれだけ、だったかなと。あえて、笑わせながらパワフルに疾走することのみに徹するのであれば、もっともっと芸を磨いてもらいたい。笑わせることもテクニックなのだから、諸君のポテンシャルがあれば、もっともっと愉快な芝居ができるはずだ。それこそ最近のお笑い芸人は本当にレベルが高いのだから、DVDを視聴して、徹底的に研究すればいい。例えば東京03なんて、演劇として鑑賞してもじゅうぶんハイレベルだ。

 内容については、ほんの少しだけひねりをきかせたラブコメ(あるいは、1970年代のギャグマンガ)という印象にとどまっており、ああこういうのあるよね、いっぺんやってみたかったんだね、わかるわかる、というよりほかに、特に感想はない、残念ながら。「自分たちにしかできないラブコメってなんだろう?」と、もう一度考え直してほしい。

 舞台装置の使い方も、研究が足りない。頻繁に場面転換することが避けられないのであれば、それを実現するにはどういう方法があるか、色々な舞台を鑑賞して、勉強する必要があると思った。

 

 

でいどり。

『ありふれた白にいたるまでの青』

 

イプセン『人形の家』の現代版と解釈した。いまどきの男性は、昔の男性と比べれば、女性にとってはるかに「理解ある」パートナーではあるのだろう。しかし本質的には――ノラにとってのヘルメルがそうであったように――勝手に女性を理解したつもりでいるだけで、猫撫で声を出し、優しさという名の暴力を行使しているに過ぎない。その実情をこれでもかこれでもかと暴き出す、沢見さわの戯曲の力。さらには、男性の登場人物たち(末廣勝大と関大祐が奮闘し好演した)を、頭部に紙袋を被せて人形のように造形することで、戯曲のテーマを鮮明に浮かび上がらせた、上野隆樹の演出の力(そう、ここでは『人形の家』とは逆に、男たちが人形=「木偶の坊」なのだ)。そして、主人公ゆりを演ずる吉野桜の名演。これらが相俟って、粗削りであるが、おそらく学生にしか創造できないであろう(いいかえれば、社会人がこのテーマに取り組んだら、もっと表現が鈍ってしまうであろう)鋭利な上演を達成したと評したい。演劇というフィルターの存在を忘れ、ゆりの叫びが、まっすぐに心に刺さった。妻子を持つ男として、発せられる台詞のひとつひとつを、自分自身の問題として受けとめないわけにはいかなかった。婚約者の無理解に直面しながらも、ゆりは、それが自分にとって少しはマシな選択であろうことを信じて、結婚へと進んでゆく。ノラが夫と子供を捨てて家を出たのとは、あべこべの結末である。誠にリアルな苦い結末であり、悪くはないのだが、せめて終幕においては、もう一歩引いたところから、この主人公を相対化する視点が加味されても良いのではないかと思った。ともあれ、私にとってはこの芝居が、今回の全国学生演劇祭の最大の収穫であった。

 

 

遊楽頂

『ヒトリ善がり。』

 

 演技を身体表現としてしっかり造形できている俳優3人のアンサンブルが、コミカルでスピーディな演出に見合って、大変心地よかった。親友の独善性と恋人の独善性が露呈し、主人公ヒトリが彼らの操り人形でしかなかったことが判明する結末も、単なる青春ドラマからは逸脱していて面白かった。しかし全体としては、この芝居もやはり、高校演劇っぽいという印象を脱し切れていない。例えば、この物語を成立させるツールとして「いやなことを忘れさせてくれる薬」が登場してしまうのは、安直な御都合主義であると感じた。このようなSFっぽいツールを持ち出さなくても、じゅうぶんこの物語は成り立つはずである。また、独善性というテーマが最後の最後にようやく浮上するのも惜しい。できれば、ヒトリが単なる操り人形に過ぎなかったという展開は物語の中盤に据えて、その先を見せてもらいたかった。例えば、ヒトリは本当に、ただ騙され操られ翻弄されただけだったのか。自分の意思で選択したようでありながら、実際は、親友や恋人のお膳立ての中で動いただけ。そんな生き方は、ヒトリにとって、本当は居心地がよかったのではないか。また、ヒトリを手玉に取ることに快楽を覚えている親友と恋人は、彼ら自身、逆にヒトリの存在に依存しているとも言えるのではないか。……といった具合に、人間心理をさらに深く抉ることができれば、この芝居はようやく、学生演劇らしさを獲得できるのではないだろうか。