レビュー
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劇団宴夢の観劇レビュー
広島県 武田 宜裕さん(INAGO-DX)より
子どもの頃、「ごっこ遊び」が好きでした。
何かの役割を演じながら、コミュニケーションを学んだり、距離感を学んだり。いや学んだというのはウソですが。
距離感というのは言わずもがな、人と人の距離感で、でもたまにそれは物質との距離感だったり、そもそも社会との距離感だったり、宇宙における私の存在だったり、地球の位置関係だったり、惑星同士の距離感だったり、少しずつ遠ざかっている地球と月、いつもそばにいたはずの私と、あなたとの距離感、だったり。
…そんなふうに妄想を膨らませる程度には、かつて自由というものの存在には実感があったと思うのですが、どうやらそんな世の中ではもはやなさそうです。
すくなし、舞台上で繰り広げられる若者3人の「ごっこ遊び」には、何とも日常的な不毛さと不自由さと切実さをはらんでいるようでした。
あなたから始まる数字ゲームは、あなたがいないと始まらない。
フェイントのような不意打ちに右往左往される世界、ならば私も、不意打ちのようなフェイントで、あなたに触れたい。
触れられないディスタンスであるとはわかっているけれど。
果たしてここは、地球なのか、別のホシなのか。
コロニーなのかコロナなのか。
コロナといえば太陽だ。
太陽なくして地球はない。
もとい月など見えやしない。
今、あなたが見えるのは、太陽のおかげ。
太陽があったから見えた、あなたとのディスタンス。
今は黙って地球(ホーム)にステイ。
いつかは月までGOTOトラベル。
Route for moon。
果たして、閉ざされた若者3人の「ごっこ遊び」は、いつまで続くのでしょう。
どうせ演劇も不要不急の究極の「ごっこ遊び」なのだから、もっとひたすらだらしなく、不毛で不自由で切実な身体と言葉の [……全文はこちら]
滋賀県 かなもりこうたさんより
壮大でロマンスに満ち溢れた物語でした。遠い遥かかなたには、我々の手は届かないけど存在する。序盤の数字ネタはよくわからんけど恐らく天文学的な数字を扱っているんだろうなー。ほぼ素舞台で役者のニュートラル的な演技を持つ肉体と照明や音響など舞台効果との組み合わせがそれぞれに合っていて、作品の雰囲気通りにキレイで世界観に浸れました。
おそらく劇中にあった教室であろう会話は銀河鉄道の夜の冒頭を思わせるような内容で、遠くなっていく教師の声が聞き耳を持っていない生徒を表現しているのが個人的に皮肉を感じたが同時にこども特有の純粋な何かを求める自由な姿勢も見ていてワクワクさせられた。
モチーフは壮大だけど、海の向こうにいる人へ手を振っている感じ。平和的で温かい気持ちにさせてくれるような作品でした。
栃木県 片岡友美子さん(アトリエほんまる)
Distanceしている あなたと私
いつまでだろう 離れているのは
いつからだろう 近づきたいのは
劇評に思いの外時間がかかったのは、タイトルの謎がどうしても解けなかったからなのです。
ルーモって何?1.255って何の数字?
きっと大学生の書いた脚本だからきっと学術的な意味があるに違いない!と思って意地になって色々調べたのだけども、どうしても謎が解けなかったのです。
作家さんに聞いてみたい!
こういう芝居の見方は邪道かもしれないけど、この芝居を観た後解釈に悶々とする、というのは懐かしい感覚でもあリました。
オープニング、まず『わが星』をを思い浮かべるようなリズムで三人の登場人物が現れる。
この最初だけ、繋がっているようにみせた三人は離れていき、この後ずっと距離を撮り続けるその距離と共に、物語は進行していいく。
『わが星』の他にも、『銀河鉄道の夜』の引用など、学生演劇では割とお馴染みの題材を使っているにも関わらず、そこに描かれているのはコロナ以前とは微妙に違う。
最初、女の子二人が投げ合う数字の遊びは、フィボナッチ数。
前の2つの数字を足していくフィボナッチ数は、黄金比というだけあってコロナ前であれば心地良い数字の応酬として聞けたんじゃないかと思うのだけど、今こうやって増えていく数字から連想するものは一つしか浮かばない。日々の感染者数の増えていく様だ。
ただの数字が増えていくのを眺めるだけでも、オトナはこんなヨコシマな発想をしてしまう。
けれど、若者は違うのだ。
女の子たちは数字を紙に書かれた文字に過ぎないと(それまで重そうに投げていた数字を)軽々と放り投げ、次に出てきた男の子は、数字をバレーボールの[……全文はこちら]