審査員からの講評
カテゴリ: アーカイブ 全国学生演劇祭開催後の劇評
2015.11.13
第0回全国学生演劇祭
2015年3月7日〜11日にかけて、『第0回全国学生演劇祭』と銘打って、各地の学生団体の上演とルール設定のための討論会を行いました。
—審査員からの講評—
あごうさとし
劇作家・演出家・俳優・アトリエ劇研ディレクター
「複製技術の演劇」を主題にデジタルデバイスや特殊メイクを使用した演劇作品を制作する。2014−2015文化庁新進芸術家海外研修制度研修員として3ヶ月パリに滞在。代表作に「total eclipse」(横浜美術館・国立国際美術館 2011)、「複製技術の演劇—パサージュⅢ—」(こまばアゴラ劇場・enoco・アトリエ劇研 2013-2014)等がある。2010年度京都市芸術文化特別制度奨励者。
2013-2014公益財団セゾン文化財団ジュニア・フェロー
神戸芸術工科大学非常勤講師
総評
2010年代の学生の感覚とはどういうものかに、関心をもって見ました。劇団しろちゃん以外は男の性欲が共通していましたね。やっぱり若いんだね。それ自体は結構なことだけど、割にそのまま出てきているから、もう少し考えるなり疑うなりした方が、いいかな。ともすれば若いのに古い感じがします。舞台芸術として作品を評価せよ、と言われれば、とりあえずもっと疑いをもってほしいなと思います。現代芸術を更新するのは、やっぱり次の世代じゃないでしょうか。
- 相羽企画
小気味よく、トントンすすんで会場も笑いがおこり、迷い無くきっちり提出されている。だけども、戯曲・演出・演技いずれもテンプレート的で、使い古されているものばかりなのが残念です。決まり事にとらわれ過ぎると、かえって不自由になります。突っ走りながらも、時に足を止めて、色々な舞台作品や他分野の作品に触れて、感性をやわらかくしつつ、知見を広げて深めて、また、突っ走ってください。
- 劇団しろちゃん
肝心の「ぼく」の演技は、考えてほしいな。11才の少年にどうしても見えない。途中、女に切り替わる仕掛けで、なぜこの俳優が演技をするかというのはわかりましたが、そしてそのアイデアは面白いのですが、舞台は舞台で現におこっていることがやはり重要です。11才の少年を大学生が演じるという時に、何をもって11才の少年として提出するかは、難題ではあるが、極めて重要な作業であり、それを考え実践する所に面白さがある。戯曲は情報量が足りていないかな。きっと考えていることを反映仕切れていないと思うのですがどうでしょうか。
- 劇団西一風
しっかり組み立てていると思います。息を落とさず最後までひっぱっていく着実さと力強さを感じます。俳優も魅力的で、娯楽性も高い。特にセーラー服の少女は印象的に残っている。ただ、芥川の何を否定したのでしょうか。俳優のアウラやタイトルなどに、ある毒性が香るのですが、割とそのままな性欲の発露で、そこは退屈です。力量や人気はあると思いますので、面白い主題を捕まえて欲しい。
- コントユニット左京区ダバダバ
最初のレストランのシーンは、秀逸でした。不条理劇の作家性というものを鮮烈に感じることができました。
作品がずれて行きながら回収して行くという事だったが、作品の質が、知性と力技の間で揺れる。情報という事でなく、力学的な構造としてぶれる。このブレ自体は面白いが、その扱い、焦点のあて方にまだまだ考える余地がある。狙いが絞られると、演出家は俳優に対してもう一歩踏み込めると思う。解散すると書いておられますが、是非続けて欲しいです。
- 劇団冷凍うさぎ
戯曲・演出・俳優・美術に基礎体力がある。年の若い俳優が、良く夫婦を演じ、美術にもセンスを感じる。演出は良くコントロールしている。
ただ、この作品の重要な登場人物である兄妹・カニの夫婦に対する俯瞰の具合に遠慮を感じる。「人間の温かさ、冷たさ」というテーマをも突き放して考えると良いと思う。決して派手ではないが、演劇に対して重要な冒険心を内包している。サービス精神にとらわれず、やばいなと思うことをもっと進めてみてはどうでしょうか。ところで、あの題材を選んだのは何故か聞いてみたい。
私はこの度の審査では、劇団冷凍うさぎを押します。今後の作品への期待と、継続の意思を持っている点で、強く推挙します。
- 東北大学学友会演劇部
とてもうまい。本当に良くできている。構成もうまく、フリも無理なく回収されている。俳優は全員感じもいいし、嫌みもない。偏りというのも無く、群を抜いて、均衡のとれたチームになっている。部員60名という下地の迫力を感じつつも、こういう出会い方というのは、なかなか無いのではないでしょうか。素晴らしい事だと思います。あえて苦言を呈すなら、90年代から2000年代初頭に既に提出された若者演劇の踏襲という感じだから、刷新性・現代性・批評性を意識しているようには感じられないのが、物足りなさを覚えます。
———-
西史夏(にしふみか)
1975年、宝塚市生まれ。劇作家、脚本家。大阪音楽大学演劇部劇団「調」出身。伊丹想流私塾第14期及びマスターコース5期・6期卒塾。第6回富士山・河口湖映画祭シナリオコンクールグランプリ(2013)、「日本劇作家大会2014豊岡大会」において第1回こうのとり短編戯曲賞最優秀賞(2014)、第2回せんだい短編戯曲賞大賞(2014)を、それぞれ受賞。第21回OMS戯曲賞最終候補(2014)。日本劇作家協会会員。伊丹市立音楽ホール副館長。伊丹市民オペラ公演実行委員会事務局長。
総評
審査員として6劇団の順位付けをするにあたり、完成度と作家性にどう折り合いをつけるかに悩んだ。舞台芸術であるからには、内輪に留まらず、社会に開けていなければならない。しかし、少なくはない作品において展開された性へのアプローチは、私にとって受け入れがたいものであった。直後寸評にも書かせて頂いたが、殊に若い男性が憧れの女性を射止めるという、ありふれたリビドーの散見と肯定は驚くべきものであった。ここに私は優れた作家性を発見する事がどうしても出来なかった。
苦慮した末、“既成の価値観を覆す”作家性があるか、またはその志があるかという事に重点を置いて評価した。そこで1位を「冷凍うさぎ」とし、2位を「東北大学学友会演劇部(コメディアス)」とした。「冷凍うさぎ」は、等身大の若者ではなく、敢えて中年夫婦という自分たちにとって未知なるものを演じた事が、学生演劇の枠を超える挑戦だと感じたし、スタッフ、キャストも、その選択を真摯に掘り下げ、作品を厳粛なるものに仕上げていると思ったからだ。
2位の「コメディアス」(と、あえて書かせて頂く)について語るには、その前に本演劇祭において私が発見した「性」とは別のもう一つの特徴について書かねばならない。6作品を通して感じたのは、“人は運命に逆らえない”という、なにか思想めいた冷めた雰囲気である。<神>や<死者>といった、この世ならざるものの存在が生きている我らをコントロールしているという確信である。その絶対性は、精神的なものではなく物質的な感覚により近い気がする。その点において「コメディアス」は確信犯であり、<人間>が<時間>に対して抗う姿を通して、劇をメタフィクションとして成立させていた点が、他の劇団とは一線を画す。私はそこに3.11以降の演劇の可能性を見出したかったが、『ファイナルカウントダウン』からはそこまで汲み取る事が出来ず、2位となった。しかし、この集団が今後も物質への闘いを続けていけば、必ず次の展開が見られるものと期待している。
- 相羽企画
愛しのまおちゃんの心を掴むため、青春予備校に入学する相羽くん。ベタな笑いが連続して繰り出される濃厚コメディ。
久しぶりに読んでみようという気になり、帰宅して『井上ひさし笑劇全集』を手に取ってみた。これは「てんぷくトリオ」の三人のために書かれたコント集である。いわゆるテレビ用の笑いであるが、小気味良いオチが今読んでも新鮮だ。「相羽企画」は、コントを面白くする条件を一揃い持った、若手ながらも老舗風の劇団である。対立もあるし、オチもある、役者も上手い。何が足りないのだろうと考えた時、ふと風刺ではないかと思いついた。しかし、風刺が笑いにとって最も重要な要素の一つだと考えた場合、そのパーツが欠けているのは少なからず残念に思う。
- 劇団しろちゃん
ファミリーレストラン。11歳の僕は、母の弟である22歳のおじさんと偶然出会う。秘密の性の告白が交わされる会話劇。
6劇団中唯一の女性作家。私の中で、ある意味「しろちゃん」が際立って見えたのは、この演劇祭において青年マンガの中に1つだけ少女マンガが混じっているように思えたからだ。“姉が好きで彼女と別れてしまった弟”が、成長した姉の息子にその秘密を打ち明けてしまう。どのくらい姉が好きかというと、“姉が新婚旅行に出かける朝、パスポートを盗んで逃げた”というのだから、異常である。それを、ファミリーレストランで淡々と語るわけだ。この設定と<僕><おじさん>の関係性は、私は面白いと思う。だが、青年マンガの読者にも少女マンガを読んで欲しいのならば、今後は見せるための工夫や技術が必要だろう。
- 劇団西一風
“恋愛はただの性欲の詩的表現を受けたものである”という芥川の言葉を否定する。と、書かれていたが、作者は、“恋愛はただの性欲である”と言いたいのだろうか。それは私の誤読か。疾走する踊りと音楽と芝居に置いてけぼりをくらわないように観ながら、悶々とする。
好きだった女の子が援助交際をしていたというトラウマのせいで主人公並木紐彦は、女性と関係を結べなくなる。紐彦がこだわるのは、女性が<処女>かどうかという点である。結果的に風俗嬢との性交で紐彦は童貞を捨てるのだが、それは<素人処女>だからという理屈である。紐彦は、天願愛咲さん演じるボロボロになったセーラー服の風俗嬢を拾い、養った。この局面は、私にとっては、色情狂女性ジョーの半生を描いた、ラース・フォン・トリアー監督の映画『ニンフォマニアック』の結末と重なる。左記の映画において主人公は、“沢山の男と寝たのだからいいじゃないか”と言って迫る童貞の老人に銃をぶっ放す。私は女性で、今年40歳になる。いま20代の前半であろう男性の作者が40歳になった時、果たして性の描き方は変わるのだろうか。
- コントユニット左京区ダバダバ
舞台には首吊り用とも思えるロープが1本。英国風のレストラン。ダムヲがイブコにプロポーズするという会話から始まる。しかし、イブコはキリンだった…
この出だしは秀逸でした。“コントユニット”と名に冠した集団が、あたかもフランスの不条理劇を思わせるシュールな劇世界へ観客を引っ張り込む。こういう人を食った展開は好きです。しかしこの後、世界の軸はどんどん横へ横へとスライドしてゆき、あんなにこだわっていた英国は、あっさりフランスに代わってしまい、抑制された不条理劇は、よくあるドタバタ劇に居場所を譲ってしまう。様々に登場する引用はセンスを感じるが、ベクトルが散乱している印象は否めない。私は途中で、キリンが何のメタファーなのか完全に見失ってしまった。冒頭の不条理劇のまま通せば、突出した芝居になっていたのに…。
とはいえ、キリンのイブコが“だって私、喉ばかり乾いているのだもの”という台詞の後、ロープに首を伸ばす様は実に美しく、本演劇祭の中で極めて劇的な瞬間の一つだったと言える。現代のイブであるイブコがキリンだという事実が、旧約聖書『創世記』の中でどういった障害になり、何を変容させるのか。そのヒントがあれば、この劇の見え方は変わっていたかもしれない。
- 劇団冷凍うさぎ
寂れたパーキングエリア。事故で2人の子を失った中年夫妻の会話。それを見守る、死んでしまった兄妹と、カニ。生きているものと、死んでいるもの、異なる世界の会話。
カニが、例えばワイルダーの『わが町』における舞台監督のような語り部的役割を担っているならば、同じ死者であっても、兄妹との立場の違いを明確にする必要があっただろう。夫婦、兄妹、カニの位相をハッキリ打ち出せば、鋭い三角形が描けたのではないか。更には、夫婦には事件そのものではなく、別の題材を使って思いを語らせることも出来た筈だ。大田省吾の『更地』や、別役実の『虫たちの日』、松田正隆の『冬の旅』など、中高年夫婦を扱った戯曲を一度参考にされてみてはいかがだろう。私は、この作品はもっと長くてもいいと思っている。核心だけで話を続けようとするから、短くしなければならないのだ。別の話題を与えれば、じゅうぶん45分もたせるだけの技術と精神力を、この劇団は持っている。機会があれば、ぜひチャレンジして欲しい。
最後に、本演劇祭にスタッフ賞があるならば、間違いなく私は『あくびの途中で』の舞台美術を推挙する。小さなテーブルと椅子2つ、溶けた窓枠。ミニマムな『あくび~』の世界を現出し、秀逸であった。
一見地味に見えるが、演劇で人の内面に斬りこんでいこうとする「冷凍うさぎ」の取り組みは果敢である。これからに期待して、私は一位に推した。
- 東北大学学友会演劇部
真冬の男子寮。年末も近いというのに、だらだらしている6人。突如現れたカウントダウンに抗う人間たちを描く。
脱力系の俳優達の上手さに舌を巻く。殊に、6人の男性の駆け引きが絶妙であることは、私が言うまでもないだろう。おそらく、演出家は俳優の個性を熟知していて、彼らの魅力を最大限に引き出すことで、極上のコメディに仕上げる事に成功しているのだろう。
『ファイナルカウントダウン』で、俳優たちが闘うのは<時間>である。演劇というカイロス(時計で計れない時)を、クロノス(時計で計れる時)が支配してしまうという仕掛けがメタフィクション的で、冷めた感じがいかにも洗練されている。
自然災害など、人間にはコントロール出来ない危機的状況に、それでも抗おうとする人々の姿は無力で悲しいけれど、可笑しい時もある。私は今回東北大学を1位にしなかったが、もしこの人たちが今後、“人間にとってどうしようも出来ない事に、それでも抗う人々”を、ある一つの社会的な視点を持って深めていけたら、ちょっとした革命が起こせるんじゃないかと思う。
———-
森山直人(もりやまなおと)
演劇批評家
1968年生まれ。演劇批評家。京都造形芸術大学舞台芸術学科教授、同大学舞台芸術研究センター主任研究員、機関誌『舞台芸術』編集委員。京都芸術センター主催事業「演劇計画」企画ブレーン(2004~09年)を経て、2011年より、KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員、2013年より実行委員長を務める。著書に、『舞台芸術への招待』(共著、放送大学教育振興会、2011年)。
総評
「学生演劇祭」というイベントの意味について考えるためには、「学生」という存在が、今、日本の文化のなかで、どのような位置にあるのかを考えてみなければなりません。
今年で70年目となる戦後日本の文化において、「大学生」は、まさしく日本の文化全体をリードする存在でした。敗戦直後の日本を牽引したのは、学徒動員のような苦い経験を間近に体験した当時の大学生たちであり、演劇というジャンルにおいては、「新劇」の隆盛と結びつきました。やがて、戦後生まれの世代は、戦前・戦中世代に反発し、全学連、全共闘運動の渦巻く風潮と共振しながら、「アングラ」のような独自の表現を切り拓きました。そして、1970年以降、大学進学率がみるみる増加し、日本が高度消費社会に突入した後は、多様化するメディア文化を身軽に統合しうる表現手段として、新しい世代の大学生が、小劇場の爆発的なブームに結びつくような学生劇団の活動に熱狂したのでした。
こうした活動の前提となっていたのは、「大学」という場所が、良くも悪くも「社会」とは一線を画した「独立空間」、インディペンデントな場である、という感覚の共有でした。そうした感覚は、いうまでもなく、戦後民主主義のなかで醸成された「学生自治」の思想に由来しており、消費社会化の後は、良くも悪くも、若者たちの楽園のような場所としても機能していたのです。
しかし、今日、そうした大学像は、これもまた良くも悪くもですが、大きく変わりつつあると言えます。大学が、就職=キャリアデザインの問題も含め、社会といかに開かれ、繋がりをもっているかが強調され、あるいは「学力低下問題」を背景に、「高校教育との接続」をいかに確保していくかが話題になったりする。一種の自治共和国のような体裁をもっていた「大学」は、一種の「お薬」のように、社会のさまざまな矛盾に対処するべく撹拌され、拡散しつつある。私はかつての大学がよかった、と言いたいのではありません。「開かれた存在」としては、明らかによくなっている面もたくさんあります。しかし、その一方で、「大学」のイメージは希薄化し、それゆえ「大学生の文化」というイメージも明らかに希薄化していることは事実であり、「学生劇団」というイメージもまた、そうした時代の流れにしたがって、かつてほど輪郭のはっきりしたものとして思い浮かべることが難しくなりつつあるように思います。
問題は、まさにそのようななかで、「学生演劇祭」を組織する、あるいは参加する、ということの意味はどこにあるのか、ということではないかと思います。というより、私個人としては、この「学生演劇祭」に、まさにそのことを考える場として機能してほしい、と思っています。
1980年代以降に話を絞ってみたとき、学生劇団と小劇場演劇は地続きのものでした。たとえば、野田秀樹は東大劇研と、鴻上尚史は早稲田劇研と、強く結びついていました。それだけ、「大学」が、演劇的な新しい表現が主張しやすい場であったということを、このことは意味したはずです。ところで、現代のアイドル文化や、お笑い文化の多くは、80年代であれば「小劇場演劇」が担っていました(小劇場のアイドル的な女優に対する熱狂は、いまのアイドルに対する熱狂と――オタ芸的な様式化(!)の存在を除いては――大差ありませんし、小劇場における「笑い」は、吉本新喜劇が学校を作る前までは、若者文化を代表しうる存在だったのです)。いいかえれば、新しい表現を生み出す場としての「大学」という場所は、もはや自明のものではなく(繰り返しますが、昔はよかったということではなく、たんにそのように変わった、ということです)、才能や野心のある若い人たちは1990年代以降はそういう新しい場を求めていくことが一般化します。「大学」が、アートやエンターテイメントの最前線であることはもはやそれほど簡単ではない。しかし、だからこそ、いま「学生」が集まり、「学生」になにができるのかを考え、主張することに、逆に意味が出てきているということもできるでしょう。
その点で、私にはひとつだけ、「学生演劇祭」に集まる人たちに考えてほしいことがあります。一団体の上演時間(持ち時間)を、どのように考えるか、ということです。
周知のように、「高校演劇コンクール」は、上演時間に制限があります。今回の「第0回」を見ていて感じたのは、この「学生演劇祭」の上演時間が、高校演劇の上演時間の制約と、やや似たものになりすぎていないか、ということです。私は何度か、高校演劇の審査員をやったことがあります。その経験を踏まえていうと、「高校演劇」は、「演劇」などでは決してありません。ややきつい表現にきこえるかもしれませんが、最後まで聞いてください。私は高校演劇のなかに、演劇的に優れた作品があることをよく知っています。だから私が言いたいのは、クオリティの面についてではありません。「高校演劇」に、上演時間をめぐる自主的な選択権がない、というただその一点において、あえて、「演劇ではない」と言いたいのです。というのも、本来、演劇なんて、2時間でも、5時間でも、一晩でもやっていいものだからです。そして、空間も、どんな場所を使ってもいい。演劇という表現ジャンルの本質的な「自由」は、そこにあるはずです。
「高校演劇」の時間制限は、それを前提とした特定のドラマトゥルギー(劇的構成方法)を可能にします。つまり、ひとつかふたつ、卓抜したアイディアがあれば、時空的に成立するのです。しかし演劇は、1時間を超える時間をどのように持たせるのかが、一番大変なのです(三浦基さんの劇団地点の作品は、60~70分程度の上演時間が多いですが、あれは数時間分の情報量を凝縮した1時間なので、高校演劇の時間性とはまったく異なっています)。大学生が、ときには「高校4年生、5年生・・・」などと揶揄されることもあるこの時代において、そうした「高校演劇」の制度とどのように切断するか、は、「学生演劇祭」のひとつの具体的な課題となるのではないでしょうか。
皆さんの「主張」を、ぜひとも聞いてみたいと思っています。
- 相羽企画
「笑い」は演劇にとって、とても重要な要素です。しかし同時に「笑い」は、いま日本の文化においてもっとも競争の激しい分野であって、多くの才能が次々に淘汰されていき、それにしたがってクオリティも向上しています。そういうなかで、ライブでしかできない「笑い」、劇場でしかできない「笑い」がなにかを、「演劇」は一度じっくり考えてみる必要がある時期にきていると思います。この作品についていえば、ボケとツッコミはそれなりに上手いし、テレビ的なネタの作り方もさまになっていると思います。ただ、それだけでは学生コンパの宴会芸を超えられません。わざわざ、こういう特別の場に来て表現する意味はどこにあるのか。それを考え抜くことから、新しい「笑い」の地平は生まれてくるのではないでしょうか。
- 劇団しろちゃん
複雑な人間関係を、日常的なリアリティを基調にしながら丁寧に描いていこうとするアプローチには好感を持ちました。ただ、ほんとうにこの複雑な関係性を説得的に描き出そうとすれば、この上演時間では足りないと思います。そこをスキップしていくとき、どこかで表現が要約的になり、場面と場面のつなぎ方に詰めの甘さが生じてしまいます。まさにこの点が、「高校演劇的なもの」と「演劇的なもの」を分ける分かれ目になります。タイトルも、もう一回、考え直してみてもよかったかもしれません。
- 劇団西一風
「性」は、いま、最もやりがいのあるテーマでありうると思います。過去20年間、日本におけるセクシュアリティの感覚は、文化のなかでも最も変化の大きいファクターだったと思われるからです。この作品には、もはやかつての性モラルではおさまらない女性キャラクターが多く登場しますが、それ自体は、同時代の作品として当然でしょう。そして、この作品では、そうしたキャラクターが、とてもたくましく描かれており、かつ、それが、劇団独特の演出スタイルによって、自立したフィクションとして見られるところまで仕上がっていた点は評価できると思いました。
- コントユニット左京区ダバダバ
不条理コメディとして、奇想天外な展開には、見ていて驚かされました。良し悪しはともかく、ここには、「普通のドラマ」には絶対にしたくない、という強い意志が感じられたし、それはそのまま、この劇団のひとつの主張、メッセージであったわけです。惜しむらくは、この方向であれば、もっと破壊力のあるナンセンスを立ち上げることができたのではないか、という点です。キリンが首を吊る絵で終わることは、最初から予想がつく範囲の展開なので、もう一度、そこをひっくり返す迫力があれば、もっとよかったと思います。
- 劇団冷凍うさぎ
シリアスな夫婦二人の会話と、それをメタレベルから見る死者たちのコメンタリーと、二つのレイヤーから成り立っているこの作品は、設定としては十分に劇的要素をそなえていて、見ていて興味を惹きつけられました。ただ、メタレベルの死んだ子供たち、カニの視線が、必ずしもうまく機能していなかったことは惜しまれます。たとえば、この三人は、客席に背中を向けたりしますが、観客に背中を向けるという行為は、演出上の構図として、大きな意味を持ってしまうものなので、やるならばそれがうまく「決まる」必要があるでしょう。30分という上演時間は、彼らにとってはやや短すぎたかもしれません。
- 東北大学学友会演劇部
この演劇祭における上演時間の制約を逆手にとり、カウントダウンをひとつの劇的構造として使ってしまう、という手法は、思いつきとしては誰でも考えそうなことですが、実現するためには、かなり周到な計算を必要とします。グダグダの脱力演劇から始まって、最後にはそうした全体の構造をひっくり返すまで、徹底的にこの設定で遊びきったことは、ひとつの力の証明であったと言えるでしょう。結果として、出来上がった世界は、なんともバカバカしい世界ですが、バカバカしさこそ、この劇団にとっては最大の賛辞でしょう。そしてそのバカバカしさが、「演劇」のもつ、舞台上と客席という根源的な構造と結びついていたところに、彼らのエネルギーが生まれていたことは、あらためて注目されてよいと思われます。