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観劇レポート 神田真直さん

カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評

2018.2.25

第3回全国学生演劇祭の演目を観劇し、舞台の模様を広く伝える”劇評/レビュー”を書いていただく方を募集しレポートを書いていただきました。

 

神田真直さん

1993年生。劇団なかゆび主宰、演出家、劇作家。

京都学生演劇祭2016にて審査員特別賞を受賞し、続く第二回全国学生演劇祭では審査員賞を受賞する。2017年には韓国大邱広域市にて、大韓民国演劇祭に招聘される。京都学生演劇祭の生い立ちを探るレビュー企画の実行、京都学生演劇祭2017での実行委員長としての活動、劇評の執筆など、自作の発表に留まることなく、演劇と多面的に〈関係〉する。2018年3月にはドイツ戯曲のレジェンド、ゲーテ『ファウスト』を大胆に取り壊し、再構築した作品を京都大学吉田寮食堂にて、上演予定である。

 

はじめに

 劇団員すら勘違いしていたことなのだから、事前に断っておかなければならないことがある。小生は、演劇を「好き/嫌い」では批評しない。そもそも「好き/嫌い」を下敷きにした物言いは厳密な意味での批評ではない。また「好き/嫌い」を下敷きにするなら、小生は「劇場に行かない」というだろう。

 批評家の牙に切り刻まれる程度なら、その上演の〈硬度〉は完全ではなかった、ということになる。何一つ、批評あるいは解釈の幅を許さないこと。この圧倒的な美を探究する精神だけが芸術家が持つべき唯一のものである。

 一年ぶりの全国学生演劇祭。今年、観劇レポーターに応募したのは昨年を自身で振り返るためである。第2回全国学生演劇祭では、他団体の上演が相当お気に召さなかったのか審査員たちは、劇団なかゆびの作品「45分間」を審査員賞に選んだ。期待を削いでしまうかもしれないが、あの作品の創作に際して、われわれは稽古をしなかった。一切、努力をしなかったと言い換えてもいいだろう。それでも、われわれは誰の目にも明らかな成果を残したのである。もしかしたら、努力が必ずしも報われるとは限らないという審査員たちからの教育的な配慮なのかもしれない。ただ、あの審査員たちの行動は、蓮實重彦がかつて述べた意味での「暴挙」である。それほどまでに「学生」(哀しいことに、この国では若者とほとんど同義である)の感性は後退してしまったのだろうか。それを確かめてみようと思う。

 

A-1

劇団宴夢『熱血!パン食い競走部』

コント。北海道にはネット環境がないのだろうか。もともとは関西の文化的コンテキストでしかなかったが、現在では一般に浸透しているはずの、ツッコミの要素が欠けている。演劇部に無理やり入れられた学生が担うべき役回りである。しかしながら、ボケ/ツッコミの区別がなされていない。その結果、財布を教師が盗んでいるという点がスルーされた、シール集めのくだりが盛り上がりに欠けてしまっているといった事態が発生していた。その他の難点については勢いで攻める作品の特性を鑑みて、不問とする。

 付言しておかねばならないことがある。劇団のプロフィールに「作品の芸術性、文学性は一切無く『くだらなさ』の追求に全てをかけている」とある。しかし、作品に芸術性、文学性があるかどうかは観客が判定するものであり、作者はそこには介入できないものである。

 

A-2フライハイトプロジェクト『今夜、あなたが眠れるように』

柴幸男『あゆみ』のパロディ。他人の一生を親身になって聴いてくれる人はそう多くはない。題材がありふれたものである場合、提示の方法を魅力的なものにしなければならない。しかし、提示の方法もたとえば演出によって(「意図的に」という意味で)役者の個性が死んでいて、長くは耐えられない。同じような場面を少しずつ変化させていくが、その変化は我侭な観客の眼を惹くほどのものではなかっただろう。

 

A-3

元気の極み『せかいのはじめ』

柴幸男『あゆみ』のパロディ、とまたも思いきや、それははじめの数分のことであった。「時間」のことを、愚かな観客が忘れないようにしばしば俳優が数をかぞえる。舞台を去っていくときには、観客には名残惜しさが残されていた。「何もかもなく」された舞台にもう一度拍手を送りたくなってこの舞台は曖昧な終演を迎えるのである。

 「愚かな観客」と敢えて言ったのは、客席から俳優が登場したときに驚いた観客が散見されたからである。たいへん古くからある手法であり、驚くには値しない。こうした無教養な観客が間接的にではあるが、上演の質を下げてしまう。

 中尾多福の演技は、驚くべきほど引き出しが多く、一人芝居であるにもかかわらず飽きが来ないよう仕組まれていた。この点には賛辞を送りたい。

 

A-4

楽一楽座

『Say! Cheese!!』

作家をやるにあたって、必ず通る門がこの「書けないこと」を土台にした作品である。「稽古場」をシェルターにしながら、オムニバス的に場面を組んでいく。この際、問題となるのは(勝負時は)、落としどころである。「おばあちゃんが死んで・・・」というところで流れが切り替わっていく。悩みながらも、最後まで、自分のやり方を貫き通していたように見える。しかし、これは一見「誰でも理解できる/開かれている」ように見えているが、作家や俳優の周辺にあるものだけで創り上げているがために、実は「限られた人にしか理解できない/閉じられている」という点は忘れてはならない。

 

 

B-1

ヲサガリ

 本年最若手(精神的な)による上演。アイドルは神より儚い。神は死んだので、生きる苦しみから逃れるために人々は夢中/無心になれるものを探す。神(もちろんGodのこと)は絶対者、全知全能であるから、いつまでも傍にいてくれる。しかしアイドルは全く限られた存在であるから、神ほど尾を引くことはない。ほとんどの場合、われわれより短い期間に卒業して(死んで)しまうだろう。そして、また次のアイドルへ向かう・・・・・・?かも定かではない。少なくとも、生きる苦しみから逃れるための装置が誰にとっても必要なのである。その装置の役割を担うのは、この国の場合、多くは「子育て」であったかもしれない。しかし、晩婚化・非婚化、若者の貧困が続くなか、それは簡単に得られる装置ではなくなった。現代の若者のあり様が示されているような、奥行がある、リアリティ溢れる上演であった。

 

B-2

喜劇のヒロイン

『べっぴんさん、1億飛ばして』

 ”This is the 6th version.” 小生がすぐに想起したのは映画『マトリックス』のこの台詞である。われわれは自らの意志に基づき行動しているように思われるが、実は他者によってつくられたプログラムを実行しているにすぎないのかもしれない。ネオみたいに「覚醒」したからといって、誰もが救世主になれるわけではない。時間の圧力に押されて、「お姉ちゃん」は結局プログラムに戻っていってしまう。家族が解体される違和感を解消することはなく、舞台は終演する。

 劇団宴夢でも同じ事態が見られたが、やはりツッコミが甘い。もっと拾い上げるべき箇所があったはずで、過度の軽快さで置いていかれる場面がいくつか見られた。だからといってツッコミを強調しすぎると、これは演劇なのかと首をかしげる観客も現れるだろう。京都学生演劇祭2017で審査員を務めた山口浩章氏は講評の際、コントと演劇の違いは人物同士の「関係が動くこと」と定義していた。もちろん、演劇にもコントにも枠など存在しない。便宜上の定義である。会場の笑いを誘うには、より貪欲さが必要であったかに思える。

 

B-3

砂漠の黒ネコ企画

『ぼくら、また、屋根のない中庭で』

 舞台美術、演技ともにベケット『ゴドーを待ちながら』を想起させる。もちろんベケットも彼自身のコンテクストを持っており、日本人である小生は、必ずしもコンテクストを共有しない。そのため容易に理解しがたい部分があるだろう。しかし、この作品は、『ゴドー』をもちろん無理を承知ではあるだろうが日本のコンテクストでも理解できるように「ずらし」ている。神(God)は、科学にとって代わられたのである。

 

 

C-1

三桜OG劇団ブルーマー(仙台 三桜高校演劇部OG)

『スペース.オブ.スペース』

 われわれは、忘れてはならない。あの日の事を。

 

C-2

LPOCH

『溺れる』

 場面緘黙症についての上演。はじめにこのことは明かされない。最後にそう呼ばれる疾患であることが提示されて理解を促すものである。手法としては大筋は問題がないのであるが、当事者の意識(もちろん重要ではあるのだが!)だけでなく「理解がない」ということによって生まれる摩擦について語ることもまた重要である。そこまで追求することができたら、この作品はもう少し高い次元に到達できる。

 

C-3

はねるつみき

『昨日を0とした場合の明後日』

 チェルフィッチュのパロディ。ある若者は、なんとなくでデモに参加して、なんとなくでセックスする。またある若者はどういうわけか世界の終末に接近する。すべてが、意志に基づいているようには見えず、水が流れるように進む。閉塞感漂う現代を、如何にして生きていくか、と問われても、すぐに思考を投げ出してしまう。「どうせ、また同じことの繰り返しなんでしょ?」と言って。学生なら、ニーチェあたりを引用するだろう。自動化の帰結としての「全思考の停止」はなんとしても避けるべきところであるが、この上演は流転する世界に対して、抵抗力を持たない。抵抗力を持たないことは摩擦熱を帯びないことである。この摩擦熱を、演劇では太田省吾が「分厚い力」と呼んだ。この上演はそこから逃れようともしない。深追いしたくなる要素は最後まで現れず、何一つ印象に残るものはなかった。結局、観客はある若者たち(上演にかかわった俳優や作家、演出家たちも含め)と同様「なんとなくで」しかこの上演を評価できないだろう。

 

おわりに

 全作品を観終わって、どうやら現代の学生たちのなかには「世界を終わらせたい」という欲望が潜んでいるように思えた。たぶん、もうすぐこの国で起こる戦争を期待しているのだろう。戦争をしたくてたまらないのは若者だけではない。日本人のほとんどが戦争を求めている。しかし、そんなことを口にしようものなら、「頭がおかしい」とか「中二病」とか言われてしまうことを恐れている。少し前までは、戦争を体験した世代の人間たちがなんとか歯止めをかけてきたわけだが、もうそれも限界を迎えつつある。誰かがいつか必ず、戦争への欲望に火をつけるだろう。堰を切ったように、溢れだす。もう避けることはできない。小生はこれから、戦争に備えることにする。来る東京オリンピックまで持つだろうか。