第1回全国学生演劇祭 観劇レポート
カテゴリ: 全国学生演劇祭開催後の劇評
2016.4.5
第1回全国学生演劇祭の全演目を観劇し、舞台の模様を広く伝える”劇評/レビュー”を書いていただく方を募集し、今回は3名の方に観劇レポーターとして関わっていただきました。
それでは担当していただいた方のお名前、自己紹介と共に、観劇レポートを掲載します。
一息人生 さん
一息人生(ひといきひとき)と申します。22歳ぐらいです。
たまに脚本を書いたりもしますが、普段は主に観劇を習慣にしております。2015年はだいたい300本ぐらいでした。
四国から関東まで、色々な地域の高校演劇をよく観に行きますが、大阪では年に二度ある中学演劇の大会も観に行ったり、大学の劇団の公演も今年からよく観に行っております。他には関東や関西の小劇場、宝塚などの商業演劇、能楽の養成所の発表会などにも足を運んでおります。
いつもは簡単な感想をぼやぼやと書くだけなのですが、全国学生演劇祭のHPの観劇レポーター募集というのを見て、この機会にそういうものもやってみたいと思い、応募してやらせて頂くことになりました。少しでもこれからのこの学生演劇祭を盛り上げることに貢献できましたら幸いです。
今回レポートを書くに当たって、自分は演劇に関してはただの素人ですから普遍的な評論など出来るわけもないので、一人の観劇者として、この演劇祭の特徴である「短編作品の連続上演」に着目するよう心がけました。
この形式においては、「多くのお客さんが劇団の作風や背景をあまり知らない」「複数の作品を、短い間隔で観る」「45分以内という、短めの(多くの団体は、作り慣れていないであろう)作品である」というポイントが肝になってくると思います。
……と、どの団体もそういうことに言及しながら書くつもりでいたのですが、いざ書いてみるとあまり言及できていないものもありました。
9団体の上演はとても楽しませて頂きました。このレポートが各団体の今後の活動にも役立てることが出来ればよいのですが。
今年度の夏は自分も活動していたので少し忙しく、なかなか回ることが出来なかったのですが、来年度は各地の演劇祭も出来る限り回れればなと思います。
- 劇団未踏座
この全国学生演劇祭の一番最初の上演を飾るに相応しい、演劇祭の紹介や京都の紹介も交えた学生らしい祭りの味を感じる作品でした。
転換中から大きな文字のパネルがドンと目に入り、始まる前から少しお芝居も始まっていて、ワクワクとさせられました。笑い声やうめき声が聞こえ、人々が起き上がる始まりも、グッと引き込まれ、更に期待が高まります。白、黒、赤、紫、青といった服の色合いも綺麗でした。
何のために生きているか、主題が早い段階で提示されるのも、良かったと思います。
そして自己紹介、京都や大学の紹介、演劇祭の紹介、多団体の紹介、などが始まります。これは果たして必要だったのだろうか……という疑問が残りました。
このブロックだけを、例えば出演団体の方の友人の方などが観に来た場合、トップバッターだしこういうものなのかなと思うでしょうし、なんとなく演劇祭そのものを楽しむきっかけにもなって、これはこれで良いのかなと思います。
ただ、この作品において、この紹介が果たしてどんな意味を持ったのかというところにはクエスチョンです。この作品が、こういう人物によって上演されているものであり、その人物はこういう町で活動しており、こういう演劇祭に参加している。少し違いますが、簡単に言えば、これがお芝居であるということは少なからず提示していることになります。そういうことを提示することによって、このお芝居全体として何か浮かび上がるものがあったかと言うと、イマイチのように思います。安直ではあるものの連想するのは「わが町」ですが、それにしては「何のために生きているか」というテーマにとってどう繋がって来ているのかが見えません。
こういう紹介があるならば、もっと「自己紹介」「活動拠点」「演劇祭」というポイントがもっとお話とも繋がってくれば、このお芝居をそんな彼ら彼女らがやっているということに対して切なさが込み上げてきたのではないかと思います。
とはいえ、作品の中での効果を抜きにすれば、演劇祭を盛り上げるようなこの演出は交換が持てました。
また、道具の使い方もあまり効果的ではないように感じました。周りにずっしりと建てられた大きな文字のパネルは迫力があって引き付けられるのですが、お芝居自体はずっとその中で小さくやっているため、情報過多になってしまっているように思います。風でゴミが飛んでくるというのもそれ自体は面白いのですが、引っ張っているヒモが見えてしまったりすると少し気が散ってしまいます。
先の演出の方も含め、工夫を凝らしていること自体はとても良いと思うのですが、果たしてこのお芝居で伝えたいこととその演出や道具の効果、そしてバランスを考えたときに、本当にあった方がいいのかということはもっと突き詰めたほうが良いと思いました。
主題にもある程度共感は出来るものの、あまり伝わらなかったなのがもどかしい気分です。
作風自体には好感が持てたので、またどこかで拝見出来ればなと思います。
- 演劇ユニットコックピット
演劇祭のこの短い時間の中で、ここまでしっかりしたストーリーがあって、濃密な演技で空間を満たし、じわじわと増していく切なさと愛しい余韻を残して行く作品に出会えるとは思っていませんでした。
ほとんどの団体が舞台を色んな場所に見立てたり、シーンによっては違う空間として使っていたりした中、ここは縁側という具体的な空間のみでした。
この縁側という舞台設定が非常によかったと思います。
広くはない舞台上にずっしりと構えられた縁側の装置。客席から向かって左寄り、そして奥寄りに置かれていました。そして左の舞台袖は家の空間と繋がっており、右の舞台袖は外の空間と繋がっていました。完全にくっつけてしまうことで、家の中から立ったまま歩いてくる、という自然な出入りが出来ていました。また、奥寄りで段が上がっているということで、役者が座って喋っていても後ろの席からも見やすくなっていました。
それだけでなく、戦争で死んだ息子が帰ってこない、かつて息子が家にいた頃は玄関からではなく縁側からこっそり帰ってきて驚かせていた、という話の内容とも密接に結びついていて、とても切なくさせる巧みな設計でした。
家族が次第に息子を失ったことを受け入れて行く中、父はいつか帰って来るのではないかと縁側であしぶみしていた。母の一緒にあしぶみしていましょうという言葉も、思い出すほどにじわじわと蘇ってくる。「あしぶみ」というタイトルは、興味がそそるパンチのあるタイトルではないものの、お芝居を観終えてからその感動が浮かび上がってくる良いタイトルだと思います。
演技も非常に丁寧で、特に母の演技がとても良く、個人賞を取るのも納得の逸品でした。
音で作られる劇的な瞬間、「ただいま」という言葉が段々と突き刺さってくる感覚、選び抜かれた言葉や演出の数々が短い時間の中で光り、積み重ねられ、深い感動を呼ぶとても良い作品でした。
- poco a poco
正確な時間は計っていないので分かりませんが、名古屋学生演劇祭と同じ分量でやっていたなら20分以内ということになりますが、他の団体に比べてかなり短かったように思います。それは時間自体の短さだけでなく、テンポもよく聴きやすい会話、愛着の持てる3人の役者さんたち、退屈する間もなく終わったという印象です。
終電を待っていると話しかけてくる中学生。
時が経つと忘れていくもの、就活に負われる残り少ない大学生活、恋、中学生の頃のほうがよかったかな、大人のほうが楽しいこともあるのだろうか、中学の担任の名前も覚えているだろうか、大切な友達の名前だって、忘れてしまっているのかもしれない。
誕生日。
忘れていた友人、の声。思い出してくる。話すほどに記憶が蘇ってくる。時が経てば忘れてしまうかもしれないけれど、それでも、きっと何処かには残っていて、忙しい毎日に掻き消されてどこかに埋まってしまっているだけでだけで、何か引っ掛かりを掴んでいけばきっとまた引っ張り出すことが出来る。
劇団名の意味である「少しずつ」という言葉、そしてテーマとして掲げる「前に進むこと」が、しっくりと来るお芝居でした。
3人の役者の魅力、共感しやすいお話、聴きやすくそれでいて空気が変わる瞬間をしっかりと作られた会話、短い時間ながらも一つのお芝居としての緩急もあり、爽やかな光の見える余韻も残る。45分の作品と比べても決して見劣りすることのない充実した時間を過ごせました。
観客賞を取ったのも納得な、マイナスポイントの付けようがない素敵なお芝居でした。
とにかく素敵で、何よりも応援したいという気持ちが残りました。
短編ももちろん、作者の方が書く長編も観てみたいです。またいつか拝見したいなと思います。
- 劇団しろちゃん
夢と白の世界、というような心地。お芝居が始まる前から、奥に置かれた脚立と、その脚から広がるようにして床に三角を描くように、そして横断歩道のように床の黒い部分と縞々になるように敷かれた白布のようなものの。まず、その絵が美しく引き込まれました。
お芝居が始まる少し前に、ままごとの「わが星」に使われていることで有名な口ロロの「00:00:00」が流れ、なんとなく美しい世界観を予期しました。
その期待を裏切ることのない、音と光で彩られる世界。役者のセリフのひとつひとつもどこか美しく感じ、全体として非常に心地よい空間が広がっていました。
ただ、その世界観の作り込みが、物理的な間を作りすぎていたようにも思います。音楽が流れ、その波にとって心地よいタイミングで終わり、心地よいタイミングでシーンが変わるというのはそれはそれで素敵な空間を作るのに大切だと思います。しかし、それによって作り出された”間”が意味のあるものであった部分もありますが、そうでない、ただ物理的に存在する時間が少し多いように感じました。心地よさと同時に少なからず飽きを感じさせてしまう要因になっていたかもしれません。
このお芝居において良かったことは、まず最初に「はじめまして」を色んな人に言うものの、コミュニケーションを取ってくれなかったりする、というところから始まったことです。これは「どういう意味なんだろう」と想像させる推進力を持っていました。それと同時に、このお芝居において役者は必ずしもコミュニケーションを取るわけではないという手法が、その手法のお芝居を観るのに慣れていない方にも、すんなりと入り込める効果があったのではないかと思います。
これは賛否両論が分かれるかと思いますが、途中、主人公の心情をプロジェクターで表現したことは個人的にはあまりよくないと感じました。この表現自体は巧く、面白いのですが、このシーンで急に使われたという印象が強いです。このシーンがその表現を用いて面白いということは、果たしてこのお芝居全体にとって必要だったのでしょうか。いっそ使わずに違った表現方法、例えば全てを沈黙で表現するであるとか、を目指してみてもよいのではないでしょうか。全体としての心地よさという余韻は残るものの、やはり少し薄いように感じた要因は、その辺りにあるのではないかと思います。
個人的にこのお芝居の一番好きなところは、タイトルです。良いタイトルというのは大きく分けて二種類あると思います。
一つは、そのタイトルを見て「面白そう」とか「気になる」と思わせるタイトル。
そしてもう一つは、お芝居を観た後にタイトルを見ると、そのお芝居で感じたものが蘇るような、全体を一言で表すのに相応しいタイトル。
この「醒めたホット牛乳」は、その両方の良さを持ち合わせていると思いました。ホット牛乳というものが「冷めた」ではなく「醒めた」というところにまず引っかかりを感じます。劇中でもホットミルクと言っている部分がありましたが、ホット牛乳という言い方もあまり耳馴染みがないように思いますし、「醒めたホットミルク」だとバランスがある威容にも見えます。
そして、実際にお芝居を観た後に感じられるもの。まるで夢の世界であったかのような、そしてドロッとした恋愛の内容にもかかわらず、白く、そして濃厚ではあるけれど幾分かサラッとしているような。あの世界の色が鮮やかに蘇ってきます。
気になると思わせる力があり、字面も悪くなく、観劇後のイメージにもよい、とても素敵なタイトルだと思いました。
今回の上演こそ、そこまで大きな印象に残ったということはないものの、美しく心地よいこの作風はとても好きです。またどこかで拝見する機会があったら、ぜひ観たいと思える劇団です。
- 劇団サラブレッド
ディスコミュニケーションという言葉を軸に展開される家族のドラマ……と言ってしまっては、訳が分かりません。会話を途中でやめてしまうこと、急に一方的に話題を変えてしまうこと、周りの会話についていけないこと、他人がどう思ってるかを決め付けてしまうこと、伝えたいことが伝わらないこと、なんでもかんでも自分のせいにされてしまうこと、話をちゃんと聞いてくれないこと……などなど。主役である加藤くんの悩みから、周りの会話についていけず発狂する母、会社での悩みを吐露すると共に女装癖を晒す父。要約するのが馬鹿らしくなってしまうほど、内容としてはよくわからないものでした。
このお芝居が面白いのは、「お客さんとのコミュニケーション」がしっかりと取れているからです。
それは例えば、OPのダンスパフォーマンスのようなものから始まって、「照明が消えたんだからポーズやめてもいい」という台詞です。これがお芝居である、というのは加藤くんもとい作者の伊藤さんによってメタ的に語られてはいるのですが、それを更にスタッフ面まで踏み込んでバラしてしまいます。この発言があることによって、役者が真ん中にいない間もやたらと点いている真ん中の照明であるとか、照明を消して役者がやっていることを終わらせるという照明さんの存在を感じるような部分であるとか、そういうところがすんなりと受け入れられるようになっていました。
親子の会話から突然メタの部分になる部分も、ラストの終わり方も、序盤でしっかりとそういった作風を提示しているので、あくまで一本のお芝居としての流れから脱線してしまうことなく笑えます。
そして、一番の「ディスコミュニケーション」は、上記のようにしっかりとお客さんとコミュニケーションを取って笑いを取っておきながら、このお芝居でいったい何を伝えたいのかを明確にしていないところかなと思いました。現代社会の縮図とも見えるし、ただの作者の自己満足とも見えるし、ディスコミュニケーションを一段上から笑っているようにも見えるし、そんな人たちを皮肉っているかのようにも見えるし……なんて色々考えてはみるもののどれもピンと来ません。ただの思い付きから始まり、エチュードかなんかで作っていって、ただただ面白いものを作ろうと推敲していっただけなのかもしれません。もしくは漠然となにかあったものの、それが段々と薄れていってまあこれはこれで楽しんでもらえたらいいやというところに落ち着いたのかもしれません。
多くの団体がかなり舞台を作り込んでくる中で、完全な素舞台でありながら、しっかりと印象を残していったと思います。個人的にとても応援したいなと思いました。
- 劇団ACT
非常に濃密な時間でした。Bブロックを最初に観たのですが、この会場でここまで舞台装置を作り込んでくる団体があるとは思わず、驚きました。一体これは何だと思わせる不思議な空間に更に驚きました。特に、一番手前に吊られている四角い木の枠や、床に一室を取り囲むように置かれたレール。お芝居が始まるその前から、気になって仕方ありませんでした。
普段は観劇中メモは取らないのですが、こういった形でレポートを書かせて頂くのは初めてなので、どの団体も少しずつメモを取っていました。しかし、劇団ACTさんに関しては、取ったものを見てみても、はて一体こんな断片を散らかしたメモに一体何の意味があるのだろうかと、と言いますか、更によく分からなくなりました。
細かい会話のチグハグが面白い……四角い枠は、このお芝居はあくまでも切り取られたものであることを表すのだろうか、あるいは、大田省吾の「更地」の窓枠を思い出す……普通に生きたくても生きられない人々、いっそレールの上に乗って歩めるなら、なんて思うこともあるだろうか……恋人でない相手とのセックス……大学に入っていればいい企業に就職できる……社会に組み込まれている、いわゆる歯車になっている、ということを意識した上で組み込まれている……中国人だからといって、というような、偏見……
思い出していると、もわもわとして来て、頭がこんがらがってしまいます。
床に敷かれているレールを走る列車は、彼ら彼女らが自分の足元を見つめなければ気づかないような夢なのかもしれませんし、そんなものは見下ろす程度の存在なのかもしれません。自分たちが語る言葉は切り取られたようなものであって、こうやって見られるようなものであって、けれど、切り取られていることも、見られていることも、分かっていながらここに在る、そんな心地がします。
全団体の中で脚本と演出、そして役者の関係性が最も良かったと思います、とかうだうだと書こうとも思っていたのですが、こんな感じになってしまいました。
ところで、最後にはお芝居が終わったのかどうかも分からないままに役者たちが舞台装置を片付けていきました。そして、バラバラと起こり始める拍手。
果たして彼ら彼女らにとって、拍手は気持ちの良いものだったのでしょうか。良いか悪いかではなく、気持ちの良いものだったのかどうか、なんて考えてしまいます。
- かまとと小町
暖かくて、少し考えさせられる、素敵な30分でした。
初めての恋をした相手が会社の上司で、奥さんもいた。お酒を飲んだ勢いはあったけれど、いけない恋と分かっているけれど、それでも好きな気持ちは抑えられず、彼は奥さんに嘘をついて一緒にいた。彼との子どもを授かった。離婚をするかも、と言っていたのに、彼から連絡は来なかった。そんなところから、恋は失ってしまったし、自分ひとりで育てられる自信もないし、お腹にいる赤ちゃんと一緒に死んでしまおう、と。
でも、音がする。
お腹を叩く音。……いや、扉を叩く音? 白い衣を纏った少女がやってきます。少女は実は赤ちゃんで、未来の自分の子どもだと。死を決意したところから、未来の生からの声が聴こえてくるのです。自分が死ぬことは未来の一つの生、いや、既にお腹の中にある一つの生を殺してしまうこと。子どもにとっては、なんの罪もなく殺されてしまうようなもの。それに、裏切られた、最低な相手だったけど、それでも本当に好きだったんだから。それは絶対に変わらないんだから。その結果として出来た命を、殺してしまっていいはずがない。
-時を越えて 君を愛せるか- どこからか声が響く。
愛、幸せ、生きること、そんなことについて、ずっしりと突き刺さるようなものではなく、あくまで小さな暖かい光を見つけるような形で魅せてくれました。
30分という短い時間の中で、核心に至る経緯もしっかりと描きながら、伝えたいことをごまかすことなく伝えるという、短編としての作りがとても良い作品だと思いました。
ただ、演出面に関して磨きがかかれば、もっと良くなる作り手だなと感じます。
前半に多いコメディタッチな演出、後半でも少し挟まれるギャグ、が、果たして効果的かというとやや怪しいように思います。
もしかすると回によって変わっていたのかもしれませんが、イマイチ受けていないように感じられました。もちろんコメディタッチだからといって受けることが全てだとは思いませんが、前半部分の時間が、ああいった演出をすることによって一本の芝居としてどのように活きていたのかというところが疑問なのです。例えば、笑ってもらうことによって涙腺が緩み、後半の切ないシーンで泣ける。あるいは、二人きりの時間がより幸せな時間として体感されることで、鮮やかな思い出として蘇り、切ない感情が増幅される。実際の意図は分かりませんが、どちらの方向性としても今ひとつ及んでいないように思います。それは役者のパワー、ネタそのものの面白さ、演出による緩急の付け方、などでもっと向上できるのではないでしょうか。
とはいえ、短編作品の連続上演という形式において、ややチープな印象を与える側面もなくはありませんが、お客さんがある程度好感をもって観ることが出来るという点で、効果はあったかと思います。
そしてもう一つ、赤ちゃんがお腹を叩く音と扉を叩く音とが繋がるという部分以外で、劇的に感じられる部分があまりなかったことです。お話として、言葉として、切ないということも伝わりますし、問いかけも考えさせられます。しかし、生のお芝居として、もっとより多くのお客さんにより大きな感動を与えるには、もう少し波が必要ではないか、と。どうしても全体として、平坦とは言わないまでも、インパクトが薄いように感じてしまうのです。もしかすると30分だからと割り切って、あえてさくっと見やすい演出にしているのかもしれませんが、それにしては内容はもっと感動を与えてもいいような題材のように思います。
ですが、今回の作品が好きだったかどうか、印象に残ったかどうかに関わらず、多くのお客さんがこの劇団のメンバーに少なからず好感を覚えたのではないでしょうか。
大きな世界に生きる小さな人間のほんのひとときの幸せを大切にしようとしているような、そんな作者の想い。そしてその作者の素敵な想いに惹かれ、共に作品として伝えるためについてきた役者とスタッフのみなさん。
ストレートに”想い”に向き合ってきたメンバーの魅力は、作品の中に満ちていて、きっと多くのお客さんに伝わったことと思います。本公演があれば観に行きたいと思った方も多いのではないでしょうか。
自分も、そんな魅力を感じた観客の一人として、かまとと小町をこれからも応援していきます。
- 創像工房 in front of.
最初から最後までグイグイ引き込まれるエンタメ作品で、とてもカッコよかったです。
まず、ドッシリと舞台上に鎮座する大きな舞台装置。主にプロレスのリングとして使われる。劇団名が書かれた幕が舞台を隠すように持たれ、芝居が始まる前から後ろで何かをやっているのが見える。転換中の音楽や、たっぷりと焚かれたスモークも含め、ただただカッコいいなという印象から始まり、その期待を更に増していくかのようなMCが聞こえる。演劇祭に参加しているということも交えたMCは開演の合図となり、照明が消えていく中、グングンと熱気が高まっていく。
この時点だけで全体を通して100点満点中の40点を既に得てしまうぐらいの、しっかりとお客さんを舞台の世界に引き込む力がありました。それは、この劇団において歴代の先輩たちが残していったものが、脈々と受け継がれて来た証のように感じます。
物語としては、若きプロレスラーはGODと呼ばれている最強プロレスラーとタッグマッチを組むことになった。その試合で負ければ引退。若きプロレスラーは神の子と呼ばれる。しかし、GODは逃げ出した。これまでも八百長をしていただけだった。でも、若きプロレスラーはそれを分かっていた。そんなことは知っていた。それでも信じたのだ。一人でリングに立たされて、殴られて、いたぶられて、それでも信じていた。いつか来る。
そんな一人のプロレスラーのお話と、救世主のお話がリンクした二重構造。今の世の中では、少なくとも今の日本では、人々は神がいないなんてことは、ある程度そう思っている。でも、心のどこかで信じている。救ってやくれないことなんて知っている。でも、どこかで救いを求めている。
演劇だって、そこにあるのは嘘だって知っている。作家が台本を書いて、役者がそれを演じて、別にそこで起こっている出来事では決してない。そんなことは分かっている。それでもその世界を信じたい。どこかで信じている。
でも、ぜーんぶ嘘だ。厳しい現実だって、いっそ嘘であって欲しい。けれど、そんなことは中々言えない。向き合わなきゃならない。ならば、せめてお芝居の中で、こんなもの嘘だって叫ぶことが出来れば。
そしてラストの圧巻のパフォーマンス。
二点ほど難を言えば、一つは、ちょっと分かりにくいところです。というのは、二重構造の作り自体が分かりにくいのではなく、この作りを提示するのが少し遅かったように思います。短編作品の連続上演という形式の中では、お客さんはその劇団がどんな芝居をするのか、というのは、あまり知らないことが多いと思います。その中で、一本の芝居として時間の流れと共に観るには、もっとこの芝居をどう観ればいいのかを提示した方が、より楽しめたのではないかと思います。もちろん、プロデュースされた催しではなく、審査形式の催しなので、どんなスタイルのお芝居をするのもアリだと思います。ただ、このお芝居においては、もしエンタメに振り切って魅せるのであれば、イマイチ分かりにくいなと思わせてしまっては損だと思います。
そしてもう一つは、神の子と相手のプロレスのシーンです。相手は、試合を始める前の段階ではかなり力強い演技をしているのに、試合が始まってしまうと、どうにも少し力が抜けてしまったように感じました。それはおそらく、力が入りすぎて本当に殴ってしまってはいけない、というところから来ているのだとは思います。もちろんだからといって本当に当ててしまう必要はないと思いますが、せっかくここまで力強い演技をしているのだから、殴らないにしても、もう一工夫して力が入っているように見えるようなフリを考えてみてもよかったのかなと思います。
それにしても、アツくてカッコよくて、清々しくて、とっても気持ちよかったです。
きっと東京の方ではファンも多いのでしょう。機会があれば、観に伺おうかと思います。
- プリンに醤油
なかなかにシュールなコメディで、笑いが止まりませんでした。
一体どんな話だったのか……思い出すと訳が分からなくなります。先輩が助けてくれたと思っていたら、11年ぶりに再会したのはバイト先で先輩は店長、急に拳銃自殺、語っていたと思えばそこは家のトイレ、ホームセンターはホラー仕様、そこでもまた店長、また急に自殺、人類は間を取り続けてきた、自殺してどこへ行く……
断片を思い出してみて浮かびあげるのは、彼女たちのどこへも行けない、どこまでも行ってしまいそうな不条理さ。
序盤からなんとも気だるい、というか、華がない、というか、役者さんの姿だけで、これは笑ってもいいんだということが分かります。そして挟まれる小ネタや急な展開は、細かいことは気にしなくてもいいんだと思えます。
Cブロックでは特に、以前の2団体が割とガッチリとした作りのお芝居だったので、このお芝居はこう見たらいい、というのがすぐに分かるのはとても良かったと思います。
展開の訳の分からなさはこちらの思考回路をどんどんと壊滅させて行き、「最後までチョコたっぷり」「○○が立った」「アイムソーリーヒゲソーリー」などの鉄板のネタも巧みに使い、どこまでも笑わせてくれます。
転換が少し雑な感じはするものの、何故かそれも「次はどうなるんだろう」という気持ちにさせてくれます。
ラストのシーンを見るに、何かこれを通して伝えたいようなこともあったのかなと思うのですが、笑いすぎて脳みそが麻痺していたため、ぼんやりとは感じるものの、よく分かりませんでした。
なんとも語りにくいお芝居でしたが、全団体の中で一番好きでした。
山下耕平(Juggling Unit ピントクル) さん
1991年生。ジャグリングをしています。Juggling Unit ピントクル代表。ジャグリングの舞台をつくっている関係で、
演劇のことをより知りたいので、
- 劇団未踏座
Aブロックの一番手。僕は初回に観に行ったので、全国学生演劇祭の最初の最初の最初の作品を観ることができた、ということになります。
開演前、黒い舞台装置がたくさん持ち込まれており、少し驚きました。なんとなく、こういう演劇祭ではそんなに凝った舞台装置を使わないだろ、と思い込んでいた。準備中にはなぜかメイド服の女の子が舞台上に立っていたり。舞台転換時間も劇団のアピールタイムなんですね。そんなこんなで舞台上には中央に大きな正方形の黒い台。台の真ん中には白丸が描かれる。上手下手にも黒色の台。舞台後方には大きな脚立。
スタッフによって開演が告げられて、舞台上は暗転。布をかぶった4人の男女が中央の女の子を囲むという、いやに儀式じみた図から開演。「あなたはどうして生きているんですか?」と女の子が演説調で周囲や観客に尋ねるくだりがあって、、、からの、なんと演者と団体の自己紹介。テンポ良いです。紹介が終わってからの本編開始。主人公の女の子の過去と現在が錯綜しながら話が進んでいきます。
受験の直後に鉄塔から飛び降りた友人のことを忘れられず、引きこもり生活を続けている女の子=小春のお話。毛布にくるまりながら、ストレートで根本的な問いをでも曖昧に投げかけ続ける小春の幼さがつらくて痛い。チャットモンチーの「橙」という曲を思い出しました。
元気だった頃の小春の姿と、現在の小春の姿の対比がまたよかったです。現在の小春の方の、「ポッキー下さい」の言い方がちょっと好きでした。過去の小春もまた、一匹もザニガニを釣れなくて悲しそうにしているのがせつない。
舞台装置は抽象的なのに、たまに登場する小道具は鍋だったりポッキーだったり、妙に具体的なのは、なぜだったのかわかりませんが、小春の狭い世界認識のあり方を観るような感もあります。タイトルに「日本」と大きなものを掲げていた部分にも似たものを感じました。
- 演劇ユニットコックピット『あしぶみ』
和室です。畳。舞台下手奥側に平台で和室がつくられ、上手と客席側が縁側になります。
前の団体の未踏座と打って変わって、とても静かな劇でした。戦地へ派遣されたまま帰ってこない息子を待つ夫婦とその息子の友人二人(男女)が、息子の不在を受け入れて生きていく。舞台上には夫婦や友人たちのほかに当の息子=誠一もまた立っています。何度「ただいま」を言っても、誰にも聞こえず、誰とも目が合わず、縁側へも上がれない。それでも思い出の縁側にいつまでも静かにとどまり続ける。この作品の静かさは誠一の静かさだと思いました。その誠一にもまた激情にかられるシーンがありましたが、それは誰も縁側にいない時間(幕間)にとどまり、そのつつましさには涙しそうになります。
息子をいつまでも待ち続ける夫婦ですが、中盤に転換点があります。父親が息子を待つことを諦めてしまいそうになるのを母親が押しとどめて、二人で一緒に待ちましょう、と説得し涙ながらに抱擁しあう場面。誠一が完全に蚊帳の外に置かれたこの場面では客席から啜り泣きが聞こえてきていてとても印象的でした。ここを転換点に徐々に夫婦の生活の焦点は誠一から逸れていきます。誠一の妹や友人たちの将来の話など。。。
小道具としてビー玉が所々で使われていました。戦地から送られてきた誠一の遺骨箱の中に骨の代わりに入っていたビー玉。特に最後のシーン、一人残された誠一が縁側から部屋の中へビー玉を転がすという演出は美しかったです。含意もそうですが、単純にシーンとして美しく、好きでした。
- poco a poco
舞台装置はベンチのみのシンプルな舞台です。
kiroroのオルゴール曲での回想シーンからの導入。斜め後ろ向きに座った二人の女の子の会話。会話のまわしが気持ち良いです。回想は短く終わり、次のシーンは中央にベンチが一台、そこにスーツの女性が一人。短大生が終電を待っているさなかに、ジャージ姿の中学生がなぜか登場、二人が会話を始めてからが本編!という感じ。やはりこれも会話のテンポがとても気持良いです。中学生の女の子のキャラクターがとてもいい。唐突に変なクイズをはじめて、答えたら「正解!ハイチュウあげる!」。まさに「道化」だし、でもしっかり中学生だなぁという気がして、笑いながらも感銘に近いものを勝手に受けていました。
作品の方は、単に会話が面白いよね、というだけでは勿論なくて、その女の子は主人公の旧友の中学生時代の姿であることが分かったり、その旧友との思い出を主人公が忘れてしまっていることに気づいたり、とドラマが進んでいきます。「なんで忘れちゃうの?」と急にきつい言葉で詰り始める中学生女子の無邪気さと容赦なさがリアルでした。
気が付いたら中学生はいなくなっていて、なぜかその旧友が現在の姿で登場、誕生日を祝ってくれます。中学時代と変わらぬテンションとノリで主人公を振り回しつつ、またまたテンポの良い会話。この旧友は先の中学生とは別の役者さんが演じているわけですが、この二つのキャラクターが間に時を挟んで連続しているのだということ、同じ人格の過去と現在なのだということが実感できてしまい、あとからなんだか変に混乱するほどでした。会話のテンポがそっくりに再現できていたのかなと思います。
少し時間が短い印象がありました。もう何シーンか観たかったな、と感じたのが観終わった時の正直な感想です。前の二つが重厚だったせいもあるかと思います。
- 劇団しろちゃん
舞台奥に大きな脚立が置かれ、イルミネーションが飾られる。そこから放たれる光とでも言うように床に上下方向ではられる白い帯が三枚ほど。転換中にかかるのは星野源にクチロロ。
女の子の自分一人だけの世界に入り込んでしまったようで、正直に言ってなかなかに居心地のよくない、そわそわさせられた時間でした。マンガなどで自分以外の登場人物が全て動物になってしまっている世界が描かれることがありますが、そんな感じでしょうか。目の前で実際に繰り広げられるとなると妙な気持ちになりますね。
大好きな人の隣りにいるのに、彼は全く自分のことを向いてくれない。そんな女性の、夢の中と現実が入り混じった世界。夢のなかでは彼にそっくりの顔をした不思議な人があらわれて、丁寧に優しく語りかけてくる。。。途中、バンドのフロントマンになって主人公が主張をぶちかますシーンがあったり、恋敵と罵倒しあう修羅場があったり。優しく綺麗な世界の中で、ときおり現実の冷たさが見える。ものの、主人公が自分の世界にこもっている印象は最後まで一貫していました。登場人物みなが主人公のために存在しているかのような。
ラストはイルミネーションや光るホット牛乳の瓶で彩られたなか、チャットモンチーがかかって締め。全編ミュージックビデオのような幻想的な舞台でした。
- 劇団サラブレッド
「コミュニケーション」が「ディス」な作品。あるいは「コミュニケーション」を「ディス」する作品?
AブロックからBブロックと順に観てきて、ここまでで最も舞台上がシンプルです。というより何一つ舞台装置のない素舞台。役者は三人。音楽に合わせて「dis-dis-discommunication」などと呟きながら、叫びながら、不揃いなダンスを踊りつつ登場。父親・母親と息子という役柄と、サークルでの先輩後輩という素の役を行き来させつつ話をすすめていきます。
父親も母親も息子も互いに打ち明けられない秘密を抱えて毎日を生きている。それを順番に大声で気持ちよく暴露していく。大声で言ってしまえ、「コミュニケーション」してしまえ、みたいな感性を馬鹿みたいに辿ることで揶揄しているようでした。「ミュージシャンになりたい!音楽経験ないけど!」の暴露でゲスの極み乙女をBGMにしていたのは笑った。
役者が三人とも魅力的で、メタな作風であることもあり、眺めていて楽しい作品でした。「思春期ですから」を言い訳に勢いよくめちゃくちゃやっているという印象です。ラストははじめと同じくダンス。ノリこそコミュニケーション、いやディスコミュニケーションといったところでしょうか。
- 劇団ACT
舞台中央に楕円形にプラレールが引かれ、その中に机と椅子。天井からは木枠が吊るされて、机に向かって座る人は客席からは画面の中の人のように見える。プラレールの外側には五段ほどもある階段や平台、脚立などが並べられ舞台を一周する通路が形成される。そして、その所々に小道具として冷蔵庫やパソコン、ケトルなどなどまでもが持ち込まれてきます。まず舞台空間の作り方が他と比べ際立って凝っていて客席も期待が高まっていました。
劇団ACTは今回の出演団体の中では唯一僕が今までに見たことのある団体です。二年前の京都学生演劇祭で一人静さんの演出を観たのですが、とても好きでした。今回も実はACTを一番の楽しみに観に来ています。
複雑な舞台の転換が終わって、開演です。プロジェクタで映しだされる「 」という鍵括弧と空白。空白は何かしらの質問文であるらしく、それへ答える若者(おそらく)の文章もプロジェクタで映しだされます。そして、画面(木枠)の中での男女の会話へ。登場人物は六人。おそらく主人公であるだろう人物を要石にして他は互いに関連のない、実際最後まで舞台上でも関わることもない人物群。職場の外国人たちのことを「チャイナ」と言って罵倒するのに躊躇のない工場勤務の男や、それへ反発しまた地元の人間全般を嫌う女子大生、妻子持ちの同性愛者。。。彼らが言いつのる複数の世界観や思想の前に立ちすくんで、主人公がそれらの間に板挟みになっていく様に僕は自分を見るようで、しかしあるいはそれは僕がこの作品をそのようにしか見れなかったというだけなのかもしれません。
人物の中で一人だけ浮いていたのは、パソコンの前に膝を組んで座った姿がはまっている男子大学生。周りを、そして自分をもどこか突き放して観察しているその姿は演出家や観客のそれを映し出しているようでした。悩みの渦中にある痛みみたいなものが多かれ少なかれ伝わってくる他の団体に比べ、悩みや苦しみが相対化されて描かれていて、その点見やすく思いました。また、複数の世界を舞台上に表現できていて、その空間の切り分け方のうまさを、同じ劇研という舞台空間を連続して使っているという事情のもとで、強烈に感じました。
- かまとと小町
AブロックBブロックと観てきて、どこの地域の団体であるのかというのは、あまり気にせずに観てきたのですが、このCブロック、特にかまとと小町さんには地域性を強く感じさせられました。それはとりあえずとても単純な理由によっていて、台詞が関西弁だったからですね。あえて関西弁でやります!みたいなものではないのがまた大阪らしい。大阪の地域としての強さを思います。こういうカラーの出方は、他の地域の団体ではありえないし、したとしても別の意味が出てきそうです。内容の方も、笑いあり、人情あり、でいかにも大阪な印象。吉本新喜劇的なものを感じてしまいました。
舞台上には扉が三つ。三人の登場人物に対応しているよう。場所はラブホテル。上司との不倫で身籠ってしまった女性が、まだ見ぬわが子と出会う。前半は上司と主人公のやり取りです。場面の転換では有名なポップソングがかかり、それに合わせて二人が踊るというミュージカルのような演出が幾度も。上司の男性も役者は女性が演じています。後半は一転、主人公と赤ちゃんです。上司からの連絡も絶たれて、お腹の子共々死のうかと思い詰める女性のもとへ現れる、ベビー服であるらしい白いドレスをまとった、どう見ても成人女性な「赤ちゃん」。「誰なんあんた!?」というドタバタを基調に「死にたい」「生きたい」と感情のぶつけ合い。演劇において、言いづらい本音をどう切り出すか、という葛藤を観るのが個人的に好きなポイントだったりするのですが、笑いにうまく絡めていくこの感じはわりと好きでした。
主人公の妊婦役の方がとても表情豊かで、ずっと見ていられるなぁと思ったりも。
- 創像工房 in front of.
東京・慶応大学。学生の熱量とエンターテイメント性の高さで、さすが東京、というかさすが東京の私立大だな!という感をもってしまった。Cブロックではそもそも開演前から、「二番目の団体さんがスモークをたきますので、云々云々」という注意アナウンスがあって、その時点からすでに存在感を出していました。団体間の転換時間では、舞台装置が出てくる出てくる。隣に座っていた演劇系大学生らしき女性たちが「なにこれかっこいい!」と連発していて、つい頷きそうになったりなど。。。舞台中央に円形の大きなステージが持ち込まれ、その下にスモークマシンが設置されます。団体名の書かれた横断幕が登場し、客席から舞台上を隠し、その状態から、開演。
横断幕背後からマイクを通じての客席への呼びかけ(プロレス風?)というなんとも胸が高まるオープニング。新米プロレスラーと新預言者、二つの物語が並行して進められていきます。場面転換が多用されつつも、二つの物語で役者が同一のため展開はスムーズです。憧れのヒーローたる師匠への固い信頼と、神へのゆるがない信仰。友は、先輩弟子であり、「神の加護を受けた平和な国」の王子でもある。悪辣な罠をしかけてくる興行主と、「神を超える力を手に入れた」と迫る隣国の王。主人公はそれでもあきらめず戦います。
正義は必ず悪に勝つ、わけではない。師匠は姿を消す。ボコボコになぶられ、はりつけにされ、ボロボロになって舞台へ取り残される主人公。復活をかたる彼のもとから友も離れていき。。。暗転。終演。かと思いきや、途中登場していたプロレスレポーターの女性が再登場、そのまま役者の紹介、からの主人公の「復活」の宣言。そのまま全員で毛皮のマリーズ「ビューティフル」をバックに踊る!終演!
とにかく勢いと説得力がすごかったです。舞台上という現実であるがゆえに存在するはずの諸々の制約を感じさせない。キャラクターのデフォルメ具合からいっても漫画かアニメをみるようでもあり、ただプロレスシーンなどなどやはり生身の体の熱量があると違うなとも感じました。「信じる」というテーマが好みであったこともあり、もっとも楽しく面白く観た作品でした。
- プリンに醤油
「プリンに醤油」の「おじゃまんが」。団体名からタイトルから独特さがものすごい。圧巻の勢いだった創像工房 in front of. の後ということで、どんな作品であれやっぱり影響は受けざるを得ないだろうと思うのですが、今回はとても良い作用をしていた気がします。なるべく完璧に虚構を成立させようとしていた創像工房に対し、プリンに醤油はメタでシュールなコント。落差がものすごく、ゆえに面白さが倍増でした。舞台装置もほぼ箱馬のみ。
二人の女性がなにやら舞台袖に半身を隠しながら会話中。初っ端、「いいか?」の問いに間髪おかずの「いやです」、からの「いやです」連発で客席をつかんで、展開されていく不思議な世界観&空気感。池田先輩の佇まいと行動の謎具合が本当に面白い。あるカフェで、三人の女性が久しぶりに再会する(店員として)。再会早々から開始される謎シュール会話に、しかし、唐突に訪れるシャットアウト。ピストル自殺シーンで笑いが躊躇なく笑いが起こりまくるのもなんだか不思議で少し楽しいです。池田先輩のトイレでの独白シーンを挟んで、ホームセンターでの三人の再会、そしてまたもシャットアウト。どうも池田先輩が時間軸が異なった世界を渡り歩いているらしい。シャワー室でも独白からコンビニでの再会、そしてシャットアウト。たどり着いたのは、吉田と山田が変な言葉を話す、ただそれだけの世界。。。
それぞれのシーンがコントとして面白い。次の展開が全然読めず、いや読んではいてもそれを変な方向に越え続けてくる、ひたすら前のめりになって観てしまう作品でした。意味は分かったか、といえば、どうかなーとも思うけれど、でも意味が分かるためのものでもないかなと思うし、ただとても面白かったなという感想です。ということで、Cブロックは総体で観てとても楽しめる構成でした。
渡邊夏菜 さん
東京の大学生。 東京学生演劇祭実行委員。中高演劇、からの、大学ではフリー(ほぼ観るのみ)。
観劇レポーターへの応募は、日頃から「学生が学生演劇を評すること」について考えており、ひとまず私がやってみよう! と思ったため。普段は、小劇場系の芝居を主に見ています。
- 劇団未踏座
始まりに勢いがあり、その後も持続させていた点が良い。が、過剰になってしまう部分、もしくは、ふいに失速気味になってしまう部分もあった。また、演出の上で気になる点もある(例えば、何故鍋は本物であるにも拘らず、コップには水を入れないのだろう、など)。プロジェクターでの演出は意外性があり面白い。が、役者の勢いと相まって、力技のように感じてしまった。
だが、直観的に、学生演劇祭ぽい、と感じた。おそらく、先述したような勢い、また、全員が楽しそうに演技をしていた点である。
- 演劇ユニットコックピット
兎にも角にも、丁寧、という言葉に尽きる。全体を通して、非常に細かい点まで作りこまれていた。特に、劇中での時間の重ね方、日常動作のひとつひとつ、に自然なこだわりを感じた。また、それぞれの人物に役割があり、それらの役同士の関係性の見せ方、特に、夫婦二人の空気感が素晴らしい。
ただただ丁寧に重ねられたものから、自然と、景色が立ち上がってくるような感覚を覚えた。あと何回でも観たい、感じたいと思えるお芝居であった。
- poco a poco
大がかりなものが舞台にないため、役者の演技に集中することが出来た。一方で、小道具は多少派手なものを使っていたため、全体としてほどよいバランスになっていた。
なにより一番大きな点としては、彼女たちの等身大が描かれていて、過剰なセンチメンタルになってはいなかったのが、とても心地よかった。過去の自分と話す、というのはファンタジー風でもあるが、ごく自然に受け止めることが出来た。今の等身大で作った舞台だからこそ、伝わってくるものがあった。
- 劇団しろちゃん
第一に、視覚的にバランスが良い。舞台に白線(横断歩道、他)を引いたことによる遠近感と中央に立てられた脚立による高さ、また、左右の空間の使い方、色の配置の仕方もよく考えられていた。また、空間の用途の変化は多かったものの、何かしらの工夫がなされていたため、混乱することはなかった。
また、役者各々も、その場面の空気、また、劇中の世界観に沿った演技をしていて、不思議な空間と日常の風景の行き来もすんなりと付いていくことが出来たように思う。
- 劇団サラブレッド
コミュニケーションという日常。それが「ディス」していることによるシュールな笑いと、説明しがたいアバウトな嫌悪感、それでも伝えたいという感情を独自の方法で表現していた。クセになりそうな面白さがある。
極めてシンプルに素舞台を使っていたが、特にいえば役者の距離感で、素舞台を活かしているときと殺しているときの落差があった。役者や脚本、音響などの個々は面白かった、そのため、より総合的なバランスが取れているとより良かったように思う。
- 劇団ACT
台による上下がある立体構造、釣り下がる木枠、水面に広がってく水の輪のような小道具配置。そして、プラレールを使う場面では、その音が静かな舞台によく映えていて面白い。だが、言葉が多く、「全部喋らせるのかな?」という気持ちになる。雰囲気がある分、もったいないと感じた。また、それに伴っているのかもしれないが、言葉が生きていないときがあった。
全体の雰囲気は、一貫して保たれていたため、観客としては劇世界に入り込み易かった。
- かまとと小町
照明変化やダンスシーンなど客を飽きさせない演出が多かった。一方で、確かにエンターテイメント的な雰囲気になるのは面白かったが、もっと、曲(の歌詞)によってでなく、自分たちの言葉で表現することも出来たように思う。
そして、もし、だが、男役を本当に男性がやったらどのような空気になるのだろうか。逆に、ごく自然にであるが、女の世界を作り上げられていたことが、MOMMYという舞台と、かまとと小町というユニットの魅力に共通することであろう。
- 創像工房 in front of.
客に訴えかけるエンターテインメントとしての演劇の形が目指されており、他の地域のものとは違う色が出ていた。転換から見せていく、また、最後に「役者自身」が「観客自身」に強く訴えかける、といった演出があり、演劇の虚構性を見せつつも、演劇のエネルギーを感じさせたことは見事だった。
- プリンに醤油
単純なコント劇として受け止めた。まとっている空気感が面白いのだと思う。結末の意外さも良かった。役者含め、個々の要素の面白さは十分にあった。が、特に、舞台の雰囲気とストーリーがそれぞれ違った方向の良さであり、そのため、劇全体としての印象は薄くなってしまったように感じる。